古いもの好きなメタ坊っちゃまから、こんな写真をいただいた。 昭和5年11月発行の『日本地理風俗大系 3 関東南部』に掲載されている風景写真だ。 場所は本牧十二天。 「本牧の鼻」というタイトルをつけて、次のようなキャプションが添えられている。 鬱蒼たる老樹茂る十二天社。海を望む絶勝の地を占めた大横濱を守護する如く鎮座する。附近には老松多くその奇形を競ふ。 三溪園に杖曳し遊客は帰途必ずここで憩ひ自然の妙味に三嘆する。断崖は歌で名高い野毛山から恰も鼻の如く見える。 近く灯の町小港がある。 (三渓園と書いている記事が多いが、本当は三溪園です。 こういう記事や昔の地図なんかを見ていると、だんだん分からなくなてくる。いったい本牧の鼻って、どこなんだろうかって。 それと同時にマンダリンブラフもね。 明治26年の海図。 ←画像をクリックすると別ウィンドウで拡大図を見ることができるよ この地図だと本牧十二天は「十二天鼻」と表記されている。そして現在、八聖殿が建っているあたりが「八王子鼻」ある。 不思議なのは、岬や出っ張りのない所に「本牧鼻」と書かれていることだ。見た目、鼻のような部分が延びているが、これは半島でも岬でもない。 単なる浅瀬だ。そこにたくさん並んでいる×の記号は海苔ソダを表している。遠浅の海を利用して海苔を養殖していたのである。 大正13年の海図。 ←画像をクリックすると別ウィンドウで拡大図を見ることができるよ 本牧十二天は今までと同じように「十二天鼻」と書かれている。しかし、「本牧鼻」の文字は「八王子鼻」の場所に移動。しかも、「本牧鼻一名八王子鼻」となっている。 本名が「本牧鼻」であだ名が「八王子鼻」みたいな感じかな。 昭和12年の海図。 ←画像をクリックすると別ウィンドウで拡大図を見ることができるよ 基本的には大正時代の地図と位置情報は変わらない。 となると、『日本地理風俗大系 3 関東南部』に掲載された標題は……出版社の間違いなのだろうか…… 謎。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
左端にそれっぽいのが見えていますが、
これじゃないでしょうか。
2方向の目印となる山などの見え方で、舟の位置を定め、網や釣り糸を入れた訳です。
海図ですから、きっと地元漁師や行き来する船の船員などの目印として、それぞれのところに表記どおり「鼻」があったのでしょう。
一方書籍の場合、紙面構成が重要なので、本牧十二天の鼻をキャプションのおさまりの都合で見出しから「十二天」を取ったのでしょう。
当方のブログの読者数が急に増えたので、ひょっとしたらと思い、ちょっと私見を書かせてもらいました。
明治期の本牧には鼻のように見える干潟が存在していたって事はないでしょうか?
磯子史の古い海苔養殖”海苔ひび”の写真には干潟が確認できます。
とりあえずこれをお読みください。
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/index.html
内閣府中央防災会議のホームページに、災害教訓の継承に関する専門調査会の報告があります。
本牧では十二天や台で崖地崩落災害があったようです。
もっぱら被害報告の記録が主で、被害のない崩落などは記録がありません。
地面の隆起は2mほどで、人に知られているところでは海蝕洞穴だった江ノ島の岩屋が隆起、海面下の岩盤が海面上に出現し千畳敷となり、今に至っていることは有名です。
本牧神社のHPを見ると、
本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座…
と書かれています。
十二天のあの出っ張りを本牧岬と呼んでいた時期があるのだと思います。
本牧在住の古老に聞くと、
「本牧岬とは八王子の鼻のところ」だと多くの方が言います。
「本牧」という名の取り合いをしていたのではないでしょうか。
詳しくは書けませんが、現代でも取り合いをしています。
内閣府中央防災会議のホームページ、初めて見ました。
ありがとうございます。
明治26年の地図に描かれている干潟、
このへんは荒洲といって船にとっては難所だったそうですね。
塩の干満によって見えたり、海面下になったりしていたのでしょう。
難所を避けるため、ここに本牧の鼻って名前を付けたのかなぁ。
旧本牧六ヶ村として、間門、牛込、原、宮原、箕輪、台があり、それぞれに祀っていた神様が明治の神社合祀令で一緒になり、地域で有力な神社に統合されたと書かれています。
NHKの大河ドラマでも、村ごとに土地や漁場の争い事が絶えず、領主が裁定に腐心する話を描いています。
地図上からいえば、十二天と八王子には山立てする「鼻」が存在していたのは確かで、六ヶ村では使い分けをしていたものの、本牧沖合を通る船舶は「本牧の鼻」と総称して、1つめ、2つめと数えていたんではないでしょうか?
ところで、お馬流しはケガレを遠ざける意味もあったんでしょうが、それぞれの神を担いで、漁の時期、場所の優先権を決めていた行事だったんでしょうね。
本牧一の谷、二の谷、三の谷を思い出します。
あれも山立てに使っていたのかもね。
磯子方面から見れば、どれも本牧の谷ですが、
渡りやすくするため、
そこに1,2,3と名付けたのでしょうか。
本牧の鼻も3個あったのかもしれません。
ですが、こういう感じだと思っています。
・本牧の十二天社の鼻
・本牧の八王子の鼻
とちらも、本牧の鼻
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