中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

9.11 アメリカ同時多発テロ事件から13年

2014年09月11日 | レトロ探偵団

 2001年9月11日、あの日は午後10時ころまで仕事をしていたっけ。

 終わったあと、帰りにどこかへ寄って夕飯にするか…とも思ったのだが、こんな遅い時間に食べるのもどうかと考え直しそのまま帰宅した。
 リビングルームに入りテレビを観ると、とんでもない映像が飛び込んできた。
 同時多発テロ事件のニュースだった。

 今日は、あれから13年。

 あの事件をきっかけに、それまでかなり自由に入ることのできた根岸米軍住宅地区(主にコミュニティーセンターとその付近)には、近づくことすらできなくなった。
 まあ、恒例の盆踊りは別だがね。(それでもイベント会場に入るには厳しいチェックを受けるよね)

 そこで昔を思い出して、こんな写真を引っ張り出してみた。

 冒頭の画像は1982年に撮影した馬見所。根岸に競馬場があった頃の観覧席跡だ。(廃墟と言った方がいいか…)
 この当時はまだ接収されたままだったと思う。

 左側が一等馬見所で、右側のが二等馬見所である。一等の方は今でも残っているが、二等馬見所はいつだったか解体されてしまった。
 左下に見えるベージュ色の建物が米海軍の独身寮で、写真では見えないが、その奥に彼らのコミュニティーセンターがある。

 このエリアは現在も大半が接収されたままであるが、二等馬見所とその周辺は返還されたあと、跡地を整備してモーガン広場というものができている。
 モーガンというのは、この観覧席を設計した建築家だ。

 いま現地には、こんな案内が設置されている。










 これは『中区史』に掲載されている接収当時の競馬場。
 円形に並んでいるのは米軍の車両のようだね。
 真ん中の部分はこのあと、米兵のためのゴルフ場に転換されてしまう。


 モーガン広場からの眺め。
 右手には日本の町が広がっているが、かなりの密集地だ。
 それに対し…


 左奥の方に目を向けると、広い芝生地に瀟洒なハウスが点在している。
 悔しいね。

 ま、それはそれとして、今日は古い写真をご覧いただこう。

 
 以下に掲載する写真は1992年に内部に潜入し撮影したもの。同時テロ事件が起きる9年前だね。


 このエリアの手前には当然、門番がいたのだが、当時はまだそんなに厳しいチェックがなかったから、「ちょっとコミュニティーセンターに…」なんて言って簡単に入ることができた。

 実際、周辺に住む人々(とくに簑沢・塚越・寺久保あたりの住民)が山元町方面に行くときなんか、米軍の敷地の中を自由に往来していた。
 だから、この辺までなら私でも簡単に近づけたんだよね。


 だが、馬見所の中に入るのは難しい。
 黙って潜入するか、あるいは内部見学会のような機会を利用するしかなかった。
 崩壊しそうなスタンド屋根。 


 本体を支えているのは木柱か?



 鉄骨の柱を補強するスジカイのようなものは、日本軍が設置したもので、よく見ると木製の電柱だった。
 戦時中は日本の海軍が徴用していたので、これはその名残だ。


 観覧席の上方へ上がる階段。



 観覧席の上部。



 ここが、いちばん上。



 内部にも入ってみる。
 アーチと格子があちこちで多用されている。


 これは何かの洗い場だろうか。


 美しい窓だ。


 OFFICER IN CHARGE と読める。指揮官の部屋だろうか。
 米軍接収時代の名残だな。


 エレベーター。
 階数表示がアナログ式だったようだ。


 食堂の受け渡し口かな?


 階段途中の丸窓。


 廃墟だ……




 米軍接収時代の表示。



 貴賓室の格天井を見上げてみた。


 馬券の販売窓口かなぁ。


 アーチの天井が美しい。


 ここも廃墟だ。


 上から見たコミュニティ―センター。

 ここに自由に入れた頃が懐かしいよなぁ…
 センター入口横には売店があって、ハンバーガーや缶ビールなんかを売っていた。
 ビールはもちろんバドワイザーで、たしか100円だったと思う。

 根岸住宅地区のハウスに住むヤンキーたちが屯していたっけ。
 その向かい側には郵便局、その向こう側には映画館があった。
 さらに奥まで進むとスーパーマーケットなのだが、ここは日本人オフリミットだ。

 しかし、あるとき、ガードしている兵隊がいなかったので、そのままスッと入り込んだことがある。
 中で売っているものはいかにもアメリカっぽい食べ物や、これまた凄いポルノ雑誌などだった。

 そんなものを物色していたら、急に後ろから肩を叩かれ、「IDカードを持っているか」と訊ねられた。
 そこにいたのは、カービン銃のようなものを持ったアメリカ兵だ!!
 「NO!」と答えると、そのまま背中を押されてスーパーの外に追い出されてしまった。

 さすがにあの時代でも、ここまで無断で立ち入るのはご法度だったようだね。
 それでも、ハンバーガーショップでは、いつも自由に食べたり飲んだりできたし、先に書いたように地元民は敷地内を勝手に横切っていたし、まだおおらかな時代ではあった。

 それが、あの日から、中に入るのが非常に厄介になってきたのだ。
 米軍施設とは関係ないが、関内にある東京電力の地下食堂も、あれ以来、ガードが厳しくなって簡単に入れなくなってしまった。

 東電の300円ランチ、よかったなぁ……。
 
 我が国における競馬の発祥については、以前の記事をどうぞ。

 なんて呑気なことを書いていたら、「米・オバマ大統領、イスラム国壊滅に向けシリアでも空爆へ」というニュースが流れてきた。
 嗚呼……。

 

←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね




コメント (10)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「錦臨門」が「景徳鎮酒家」... | トップ | 「一楽」にて牛バラ肉とトマ... »

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
アーミー ネイビー (淡々斎)
2014-09-11 23:15:38
昭和50年位まで、東京の街をうろつく外人さんと言えば、アーミー ネイビーばかりだったような…
ちと言い過ぎかな(笑)

円高 そして9/11

夜の新宿から、軍人さんの姿が消えていった気がします…

返信する
テロで亡くなられかたには哀悼の誠を捧げますが、悔しい想い (吉継)
2014-09-12 00:05:43
ここのブログでも紹介された横浜空襲をはじめ東京大空襲や日本各地への空襲、広島、長崎への原爆投下を作戦立案などに関わった米国空軍のカーチスルメイへの授勲に積極的に時の佐藤政権で動いたのは防衛庁長官の小泉純也でしたさすがに昭和天皇も難色を示したのですが航空自衛隊発足関係で授勲と押し切ったんで米国がいまでも原爆投下や無差別爆撃などに謝意を示したがらないのはこの時の授勲が根拠の理由になっているからだそうです、敗戦国として天使はブルースを歌うなどの進駐軍関連の事案とともに忘れてはいけないことです!
返信する
アメリカ兵 (酔華)
2014-09-12 07:45:41
>淡々斎さん
中華街ではよく見かけましたよ、アメリカ人。
今の聘珍茶寮のところがバイキングというバー。
ピンクの照明、厚いカーテン、惹きつけられる匂い…
今とはずいぶん違っていましたね。
返信する
戦後 (酔華)
2014-09-12 07:47:49
>吉継さん
そうですね。
これからも、ときどき、こんな記事を混ぜていきます。
返信する
Unknown (いその爺)
2014-09-12 14:03:58
幼い頃 平楽に住んでいた事があり、金網の向こう側の芝生の庭、点在する洒落た家、豊かな米国に憧れを抱いていました。

返還されるなんて話しを聴いたのですが、本当ですか?
返信する
フェンスの向こうのアメリカ (酔華)
2014-09-13 04:59:43
>いその爺さん
本牧は無くなりましたが、
根岸の丘にはいまだに広がっています。
ここが返還されることは決定です。
市のHPを見ると、「根岸住宅地区返還跡地利用調査業務委託」の募集もありました。
できればあのまま賃貸住宅にしてほしいです。
返信する
ようやく (冬桃)
2014-09-13 15:58:34
見たかったものを見ることが出来ました。
なるほど、こうなってるわけですね。
市大の医学部だった建物を、取り壊される前に
見学しましたが、雰囲気が似てますね。
廃墟には一種独特のものが漂っているのでしょう。
返信する
Unknown (つちころり)
2014-09-13 20:31:20
今度ワシントンとNYに仕事で行くんです。
ちょっと今国際情勢がきな臭いんで、緊張しています。
9.11の頃、ちょうど大学1年でした。
返信する
廃墟 (酔華)
2014-09-14 06:25:14
>冬桃さん
市大医学部の建物にも潜入したかったですね。
馬見所はまだ残っているんだから、
見学会などをやればいいのですがね。
それにしても、勝手に中に入っている人は多いようですよ。
返信する
お気をつけて (酔華)
2014-09-14 06:27:43
>つちころりさん
いつどこでテロがあるか分からないですからね。
アメリカに行かないのが一番なのかもしれませんが。
返信する

コメントを投稿

レトロ探偵団」カテゴリの最新記事