中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

リカルテ将軍の碑

2018年08月01日 | レトロ探偵団

 グーグルマップには専用の地図記号が使われてるが、その凡例が見当たらない。青い風船の中に白い丸が三つというアイコンがある。これは何だろうと思って、アチコチみていくと、どうやら名所旧跡などを表示しているらしいことが分かった。
 しかし、どこを名所旧跡にするのか、その選考基準は不明だ。たとえば、マリンタワーが選ばれているのは当然としても、日本国新聞発祥の地記念碑(関帝廟通り)が表示されず、リカルテ将軍が亡命していたとされる山下町149番地あたりにはアイコンが設定されている。

 ためしに、「日本国新聞発祥の地」と「リカルテ将軍」でグーグル検索をしてみてほしい。前者は約140万件ヒットするのに対し、後者は約1万件しかない。しかも、冒頭に掲げた地図に描かれているアイコンの場所に行っても、何もない。記念碑どころかプレートの一枚すらない。
 リカルテ将軍は亡命中に山下町149番地で生活していたらしいのだが、この149番地というのは結構広くて、ピンポイントで示せるわけがない。
 本来ならば、「リカルテ将軍記念碑」が建っている位置に、このアイコンを置くべきなのだ。
 どこに記念碑があるのかって?

 山下公園の中にあります。


 1980年代に撮影した記念碑。


 その後、こんなことになり……


 やがて、ここに移設された。


 リカルテ将軍記念碑
 アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イコロス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。
 昭和四十六年十月二十日 財団法人フィリピン協会 会長 岸信介


 昭和47年1月11日の新聞にこんな記事が出ている。

『リカルテ将軍の碑完成 山下公園で除幕式
 記念碑の場所は山下公園中央部の一画でホテル・ニューグランド前付近。将軍の波乱に満ちた生涯が日本語とタガログ語で刻まれており、建設費は350万円。これはフィリピン協会が募金運動で集めた“浄財”。土地は横浜市の協力で山下公園の一画が提供された。除幕式では岸会長が、祖国愛に生きた将軍をたたえるあいさつを述べたあと、フィリピン側を代表してラウレル前駐日大使も「記念碑の完成は日比親善のため大いに意義深い」とあいさつした。
 リカルテ将軍は1866年フィリピン北イコロス州で生まれ、折から全島で吹き荒れた革命運動に参加。1898年、米西戦争が始まると、米軍に協力してスペイン軍を撃退、フィリピン独立に大きく貢献した。独立に際して将軍が作ったフィリピン国旗は現在もそのまま使用されている。しかし、間もなく今度は米国との間で戦闘が始まり、捕われた将軍は太平洋の孤島グアムへ幽閉の身となった。二度にわたる幽閉ののち、今度は国外追放処分。
 将軍は香港、上海にのがれたあと、1914年横浜市に亡命、第2次大戦までの27年間を中華街(山下町149)でひっそりと過ごしたという。この間、将軍は「・・・」の日本名を名乗り、小さな飲食店を経営する婦人と共にスペイン語を教えながら不遇の生活を送ったと伝えられている』

 横浜中華街にとってリカルテ将軍よりも大きな存在は、なんといっても孫文なのではないか。彼も日本に亡命し横浜に住んでいた。それなのに、なぜリカルテ将軍の住んでいたところにアイコンが置かれているのか。
 気になるなぁ……。



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