先週の朝日新聞で「記録と記憶 消された戦争」と題するシリーズ記事が毎日掲載されていた。 第5回目のタイトルは「戦争孤児 秘めた地獄」。 戦後しばらく、各地の駅や公園には寝泊まりする子どもたちの姿があった。空襲や戦闘、病気で親を亡くした孤児たち。国が終戦直後に行った全国調査では、その数は12万人。それ以降の調査は見当たらない。焼け跡に残された子どもたちは、その後をどう生きてきたのか。(リード文から) わたしが物心ついたころだろうか、上野駅の地下道で寝泊まりする浮浪児を見たような気がする。 気がする、と書いたのは、実際の記憶ではなく、あとから刷り込まれたものなのかもしれないからだが、こういう記事に接するたびにあの光景が目に浮かんでくるので、やっぱり原体験として目撃しているのかな、とも思う。 戦争で被害を受けた人たちはさまざまである。原爆により一瞬にして殺された人たち、太平洋上や中国大陸で戦死したり傷ついた人たち、沖縄で集団自決を強いられた人たち、シベリアに抑留された人たち、大陸に残された残留孤児等々……。 そんな中にあってあまり語られてこなかったのが、南海の孤島に置き去りにされた兵士や、戦後、米兵との間に生まれた混血児、そしてこの新聞記事になっている戦争孤児などだ。 先月、昭和21年から24年までの神奈川新聞を読んでいるときのこと。いつものように調査目的の記事とは違う見出しに引きずり込まれてしまった。 「浮浪児の実態をつく」 「八割が家庭の欠陥」 「クツ磨きから仲間入り」 ぼやけていて読みにくいと思うが、記事では戦災孤児と家出少年などを一緒にして浮浪児としている。 その下には「浮浪児よ何処へ」、「地下道児の移動に対策」との見出しをつけて、こんなことが書かれている。 浮浪児たちのたまり場である上野駅地下道が閉鎖になると、彼らはどこへ移っていくのか。横浜を目指されては困る…、収容施設に空きはない…などと書かれているのだ。 ここでも戦争孤児がひどい目に遭ってきたことが分かる。それでも逞しい彼らは横浜にやってきたのだろうか。その先の記事がないので、実態については不明だ。 ところで、横浜に住んでいて大空襲に遭い、戦災孤児になった男性と知り合い、飲み屋で昔話を聞き盛り上がったことがある。 とにかく生きていくことに必死で、悪いこともいろいろやったと仰っていた。野毛の路上で詐欺を働き、大人たちから金銭を巻き上げトンズラしたとか、軍の倉庫から物品を盗み、闇で売りさばいたこととか……。 その日、私は遅くまで呑んでいて終電を逃し帰宅できなくなってしまった。 すると彼は、「それなら俺んちに来て呑み直しして泊まっていけ」と仰る。お言葉に甘えてタクシーで金沢区内のご自宅まで連れて行ってもらった。 そこで既に寝ていた奥様を起こし、酒肴を用意させ呑み直しが始まった。元戦災孤児は幸せな家庭を築いているのであった。 そして翌朝。 目を覚ますと、とっくに始業時間を過ぎていた。そんな時間まで眠りこけていたのである。しかも二日酔いで気持ち悪い……。 奥様の話によれば、いつものとおり朝早く出勤していったそうだ。あの世代の方々は、やっぱり逞しいのね。 話題がちょっとそれてしまった。 戦後間もなくの神奈川新聞の話しだったよね。 記事の内容をこまかく書きだすのは大変疲れるので、ここに拡大して読めるように貼りつけておく。 ←クリックして拡大 少しピントが合っていないのは元資料のせいなので我慢して読んでください。 ←クリックして拡大 縦長の記事の下の方。 ここに出てくる「ボーイズホーム」というのは、日ノ出町駅近く、子の神社横にあった。 「少年の町」で有名なフラナガン神父も施設を訪問したことがあるという。 その話は都市発展記念館の「ハマ発 ニュースレター」28号の4~5ページに書かれている。 「ボーイズホーム」が取り壊される頃の子神社。 解体された施設の跡地は児童公園になった。 お時間のある方は以下の記事もどうぞ。 コチラ ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
数年前にはTBSでも特集を観ました。
いろいろと資料も読みましたが、国は
国民を、しかも、もっとも弱い子供たちを
守るどころか野良犬扱いしたのだと思うと
やりきれない気持ちになりました。
30年近く前にも同じようなことがありました。
東京、川崎方面から風太郎が横浜に流れてくるからなんとかしろ、みたいな話がよく聞かれました。
今もそんなのが続いているような気がします。
横浜にとってあまりうれしくない歴史を微妙に書き換えたり、
語らなかったりと……。
戦後17年でも傷痍軍人がいたというのは不思議ですね。
横浜にはまだいたのかなぁ…