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現在、石川町駅北口で降りたお客さんが中華街に行くには、改札を出て左に向かうのがいちばん近道である。(改札口は山手駅方面を向いている) 今では多くの方々がこのルートを利用していると思うのだが、駅が改造される前は、こちら側は壁で塞がれており通り抜けることができなかった。(冒頭の地図を参照) そこには食堂と、もう一軒、喫茶店だったかな、お店が並んでいたのだ。 おかげさまで朝食には困らなかったが……中華街方面へ行くには非常に不便であった。 ![]() 塞いでいいたのは「ニューライオン」という食堂だ。これは昭和40年代の地図なので、私の記憶している状況よりかなり古い。 でも、昭和60年代もこんな構造だった。食堂の名前は変っていたかもしれないが。 だからその当時は、中華街に向かうには改札口を出て右に曲がり、目の前の道路を関内駅方面に進んで突き当りを右折して……というような遠回りのコースしかなかった。(冒頭の地図 黄色いルート) しかし、毎日ここを歩いていると、ショートカットする通路があることに皆さん気づいてくる。 それは、昭和60年代から平成の初めの頃だったかなぁ。 ![]() それが、この隙間だ。 現在は閉鎖されてしまったので通ることはできないが、ここを入ってくと… ![]() こんな隙間があり… ![]() この辺に出てこられるのだ。 ![]() ここから本来の道路に出て…… ![]() 突き進んでいくと吉浜橋に至るというわけだ。 ![]() このエリアは歴史的に重要な場所で、幕末に横浜製鉄所が建っていたという。 その記念碑がマンションの前にある。 ![]() 説明板の中に当時の写真が組み込まれている。 中央の建物が製鉄所で、手前の川は旧「派大岡川」だ。現在は車の流れる高速道路になっている。 左に流れている川は中村川。今はその上に高速道路がかぶさっている。 ![]() その製鉄所跡地に横浜掖済会病院があった。 冒頭の地図にも載っているよ。 ![]() 以前はこんな大きな記念碑が建っていた。 ![]() 病院が山田町に移転したあと、私の記憶が正しければ、そこにボーリング場ができたと思う。 ニット―ボウルといった。右側に見えるのがそれだ。 (あとで地図を見て分かったのだが、病院とボウリング場は同時に存在していた) ![]() やがてそこも撤退すると、次にできたのはテニスコートだった。 ![]() 中村川をふさぐような形で高速道路の建設も始まった。 石川町駅の上空も跨ぐ、うっとおしい道路だ。 北口と南口は中村川で分断されていて、非常に不便であったため、両者を結ぶ人道橋もできた。 ![]() こちらは南口。元町ショッピングストリートへの入口となる改札口だ。 そのすぐ横に「東国屋」という、非常に懐かしさを感じさせる居酒屋があった。 料理は正面のネタケースに入っていて、それを受け取り自席に持って来て飲み食いするというスタイルだった。 もちろん料理は昭和の代表的な酒肴が揃っていた。おから、里芋の煮っ転がし、ヒジキ、冷奴などだ。 ![]() その場所の現在の姿。 このビルには、ちょっと前まではカレー店が入っていた。 ![]() 何気なく2階の窓を見上げたら、こんな案内が!! ここは東国屋のビルだったのだ。 居酒屋は閉店してしまったので、てっきり移転したのだろうと思っていたのだが、貸しビルになっていたんだね。 ![]() さて、こちらは現在の石川町駅北口側。駅前にそびえるマンション。 横浜製鉄所・横浜掖済会病院・ボーリング場・テニスコートなどを経てきた場所だが… その裏に小さな公園らしきものがある。 ![]() 近づいてみると、管理運営委員会と中区役所の連名で、こんな案内板が出ていた。 「吉浜町子どもの遊び場」だそうだ。 ![]() しかし、なんだ、これは。鍵がかかっているではないか! 「公」のスペースではないのか? 横浜市のHPを検索していくと、こんなリストが出てきた。 横浜市内にはたくさんの「子どもの遊び場」があるらしい。 いったい、「子どもの遊び場」というのな何なのか? さらに調べていくと、こんなページにぶつかった。 健民少年団のことが書かれているのだが、その記事で「子どもの遊び場」のことが触れられてるのだ。 読んでいただければ分かると思うが、一応、下に要約を載せておくと… 戦後復興の中で、子どもたちの健全な育成の場が殆どない環境を打開するために、昭和25年(1950)に横浜市体育課が「子供の遊び場」設置運動を展開したそうだ。 これは、いわゆる公園法で造っていく「児童公園」では間に合わないということで、町中にある空き地を市民から提供してもらい、そこに市がブランコや滑り台その他の「遊具」を設備することで、健康な環境を与え社会悪から彼らを守ろうというものだったという。 昭和25年6月、第1号が磯子にオープンし、10年で152個所の「子どもの遊び場」が設置された。 こうして「子供の遊び場」づくりの活動は、横浜が発祥地で全国に広がっていった。 民有地ではあっても横浜市という公の組織がその管理運営に関わっているのだから、こんな風に鍵を掛けてしまっていて、いいのだろうか? そんなことを考えていたら、そういえば石川町駅南口にも確か「子どもの遊び場」があったことを思い出した。 ![]() 南口の山手側の改札を出たところ。 高架下がそれだ。 ![]() たしかに看板が出ている。 だが、こちらも鍵がかかっていて入ることはできない。 どうなっているのかと思い、帰宅してから調べてみると、「はまれぽ」のライターがこのことについて報告しているのを発見。 これだ。 なんだかなぁ… 石川町駅北口&南口にある「子どもの遊び場」が両方とも鍵がかかっているとは… ちなみに他所の区にある「子どもの遊び場」を検索してみたら、 こんなのが出てくる。 さて、今日の記事をこのまま終えてしまっては、食ブログとして申し訳ないので、最後に「王将」の写真を張り付けておこうかな。 ![]() 4月3日に「王将」の店頭で見た冷やし中華の案内。 「冷やし中華 始めました」という張り紙はよく見かけるけど、そこに「もう」の一言が入っているのは珍しい。 ![]() 9月になってから食べた「王将」の冷やし味噌ラーメン。 ラーメンドンブリではなく、ちょっと深めの皿で登場した。 どこかジャージャー麺のようにも見えるが、あきらかに味噌ラーメンだった。 ![]() |
噂では古参の人が他から家賃を徴収していたとか。。そして火事が起きました。
酔華さんも王将に入るんですね。
少し安心しました。(笑
空地や路地は、遊具なんか無くたって、立派な遊び場でしたよね…
蝋石で線引きして、陣地取り
土管や大葉子、ありとあらゆるモノが玩具であり、遊具であり、秘密基地
街の年長坊主についていく、はな垂れ小僧
虫の名前 草の名前 生きる知恵 地域の伝承
それらが繋がっていくのに…
鎖と錠前って、それを否定する行為じゃないですか…
スマホでしか遊べない子供
人の目を見ず、何時も下を向き、ただただ早口でモゴモゴ喋る子供達を見てると…
怖くなります。
ヲタばかりな日本人
はぁ…
一方、人口が集中して都市化してくると、被災時の火除け地、避難場所、ガレキ等の集積場所の機能を持ちます。
震災・戦災を経験したあと、必要な広場の確保のため、何らかの理由で将来使い道のない民有地を「子どもの遊び場」という名目で制度化していると私は考えています。
一つ一つ、立地や周辺環境の歴史を調べると面白いです。
災害時の避難所や遺体安置所は学校が担うようになりましたが、火除け地で考えると、児童公園から中規模公園、広域避難場所へと変化しています。
自動車なんて滅多に我がなめくじ長屋に近寄らなかった。たまに自動車が付近に来て停まると我らガキどもが寄ってたかって
青っ洟の手でピカピカの自動車を撫でまわしたり、ベタベタと弄りまわしたもんだ。
運転手は、大勢のガキどもを相手に怒鳴り散らして孤軍奮闘するも多勢に無勢。
三丁目の夕日が懐かしい。
もう封鎖されてたんですね。
川沿いのブルーシート小屋・・・懐かしいです。
一度だけ、あの家(?)を訪問したことがあります。
住人はいい人でした。
蝋石で線引きして陣地取り!
ありとあらゆるモノが玩具であり、遊具!
秘密基地!
はな垂れ小僧!
懐かしいですねぇ。
公園なんかなくても十分に遊べました。
昔と今じゃ、遊び方が全然違いますね。
最近は電子的なゲームが多いようで、なんだか危ない感じです。
子どもたちの健全な育成の場ということもあるけど、
防災上の必要性もあったのでしょうかね。
でも、石川町駅周辺のあの二つは役に立たないかも。