
先日、開港記念会館で会議があり2階に行ったとき、こんな作業をしているところに出っくわした。壁画の修復だ。この会館は大正6年に創建されているので、今年はちょうど100周年にあたる。そこでこの壁画の修復を始めたらしい。 普通、壁画といえば壁に描いた絵を言うようだが、こういう額縁にはめ込まれたものも壁画というそうだ。作業中の専門家に訊いたら、壁や天井に直に描くのはイタリア風で、キャンバスに描いたものを壁に貼るようなスタイルはフランス風なのだとか。 もともと会館の階段室には大きな壁画が描かれていた。和田英作とその弟子である有田四郎、安藤東一郎が描いた開港当時と大正6年の風景なのだが、これはキャンバスを張り付ける方式だったことが当時の新聞記事から読み取れる。 横浜公園の中に特設アトリエを設け、弟子たちがせっせと原画を書いていたのである。それが完成したのは会館オープンの直前であった。 その証拠写真はたった1枚しか残ってない。 ![]() それがこれである。建築を請け負った清水建設の工事記録写真集『開港記念横濱會舘図譜』に載っている。 開港前の横浜の風景であるが、この対面には大正6年ごろの風景が描かれていたはず。 しかしオープンから6年で関東大震災が発生。躯体は残ったものの、壁画は完全に焼け落ちてしまった。 ![]() 昭和2年、建物は改修されてリニューアルオープンした。その時の写真を見ると、階段室の大壁画は再建されず白い壁のまま。 代わって2階広間に大きな額縁が取り付けられている。ここに現在修復中の壁画が嵌め込まれることになるのだが、リニューアルオープンには間に合わなかったようで、額縁の中には何もない。 ![]() それから40年以上経った昭和44年、この壁画が近いうちにダメになってしまうという危惧が問題になってきた。しかし、これは壁に嵌め込まれているため、このままでは修復することもできず、もし取り外すということにでもなれば会館に大改修を加えねばならない、さらには建物の解体、改築などという話まで出てきた。 そこで当時の飛鳥田市長は記念会館を改修して保存するのか、あるいは建て直すのか、市民に対して討論を呼びかけた。神奈川新聞では有識者や一般市民の意見が連日掲載されて、大きな反響があったようだ。 結果的には壁画に応急手当てをして急場をしのぎ、会館も解体や改築などをせずに残ることになった。そのとき、壁画を守るためガラスケースで覆われたという話が伝わっていたのだが…… 今回の修復で意外な事実が判明したのである。しかし、そのことを書く前に作業風景を少しご案内しておこう。 ![]() 壁画の表面には和ニスが塗られている。まずはそれを剥がすことから始まる。 分かりにくいかもしれないが、空の色を見比べていただきたい。右の方は色が鮮やかでしょ。ここは和ニスを落とした部分だ。 それに比較して左の方はくすんでいる。修復する人が少しずつ、少しずつ剥がしていくと、昭和2年の色彩が鮮やかに現れてくる。 絵具の色によって、剥離のさせ方が異なるという。少しでも強くやると絵具が落ちてしまう色もあるらしい。だから相当、慎重に作業しないといけないのだ。 ![]() この作業を請け負ったのはNPO法人美術保存修復センター横浜の人たちだ。4回ほど見学者に対して説明付き公開作業を行っている。次回は11日だ。 ![]() 今までガラスケースに覆われて気づきにくかったのだが、左隅にこんなものが描かれているのがはっきり見えてきた。 ![]() 鳥居のあるところは洲干弁天。 問題は海に浮かぶ灰色の筏のようなもの。なんだろう、これは? 牡蠣の養殖ではないでしょうね。もしかしたら海苔の養殖? もともと謎の多い壁画であるが、ここでまた新たな疑問が出てきた。 ![]() 専門家が言うには右隅に和田英作のサインがあるらしいのだが……。 よく分からん。 ![]() とまやの煙だぁ。 ![]() 大正6年に大壁画を制作したメンバー。 ![]() 左から有田四郎、安藤東一郎。ともに和田英作の弟子で、壁画の原画を担当している。右後ろに建っているのが和田英作である。 背景の丸い絵は完成した天井用の壁画である。これを2階広間の天井に貼っていたのだが、関東大震災で消滅している。 ![]() ![]() さて、冒頭に「今回の修復で意外な事実が判明した」と書いたが、その事実とは何か。 これだ! 保護ガラスと木枠の間に挟まっていた新聞紙の破片が出てきたのである。 ![]() なんと、新聞発行年が分かる部分が使われていたのだ!! 昭和56年! 保護ケースで壁画を覆ってからは一度も開けていないらしいので、これが設置されたのは昭和56年以降である。 昭和40年代にガラスケースで覆われたと言い伝えられてきたが、実際はそれよりも10年程あとだったとは……ビックリ。 ********************************* (2017年2月10日追記) いつガラスケースで覆ったのかは、まだ分からない部分が多い。 昭和50年という説もあるらしいが、それを示す資料がない。 昭和44年にこの壁画が問題になったので、それから昭和56年までの新聞記事をすべてあたらないといけない。 大変な作業だな。 ![]() |
個人的には鰻の生け簀だと思いたくなります。(笑
昔の横浜名物はシウマイに非ず、鰻だったのです!(^^)/
11日の修復作業公開は何時なのでしょう。
ホームページを見ても出ていなかったのですが……。
うすぼんやりした感じしか受けていなかったのですが、
印象派を思わせる明るい色調だったとは驚きです。
青空を漂う雲に茜が差し、
家々には夕餉の支度をする煙が立つ。
鏡を打ったような内海の入り江に、
洲干弁天社の木々と雲が映り込んでいる。
ところで、どのあたりから見た風景なのでしょう?
そこから、本牧十二天は見えたのでしょうか?
あり得ますね、生簀。
でも、やっぱり違うかぁ。
海面下の岩が出ているとは思えませんし、
何だろう…結局、謎のままか。
そんな簡単には解けませんよぉ~~
解説付き公開修復、
11日(土)は11時から
15日(水)は15時から
覚えやすい日時ですね。
ぜひ、行ってお話しを聴いてきてほしいです。
大正6年頃に描いた絵です。
開港からだいぶ経っていますが、
古老から話を聞いて書いたと言われています。
スケッチに行った場所は、山手だったり、
野毛山だったり、いろいろなところに出かけて行ったみたいです。
それはともかく、色彩が鮮やかになっていくのが、
眺めていて嬉しくなります。