
昭和30年代に建築された海岸通団地。横浜新港ふ頭の手前、万国橋のたもとで約50年間、懐かしく風情のある建物として、住んでいる人も通りかかった人も愛着を感じてきた団地が解体されることになった。 中華街にあった同潤会アパートほど建築的に美しいわけではないが、ここは横浜の都心部にありながら、昭和な雰囲気を残す貴重なスポットだった。 しかし、それは他人事のようにただ懐かしいだけではなく、実はこの団地に先輩が住んでいて、自分が若い頃は何百泊とした思い出深い場所だったから、実体験の伴った郷愁を感じているのである。 実際に住んでいた人たちの気持ちには及びもしないが…。 その団地の最期を見届けるような写真展およびオープンルーム公開があるというので行ってきた。 ※その様子を伝える記事 ![]() 男女別単身者棟の住人は、一旦こちら側の世帯棟へ退避し、解体新築後に再び新居へ戻る予定だとか。 手前右が女子単身者棟。 ![]() 団地内の小公園。レトロな団地建築の先に“みなとみらい”を象徴する墓石のようなランドマークタワーがそそり立つ。 ![]() 棟と棟の間から新港埠頭のワールドポーターズが垣間見える。 ![]() 先輩が一時退避のために移り住んだ1DKの棟。6畳一間に小さなDK。風呂&トイレも付いている。 ![]() レトロな世界に通じる狭い入り口。 ![]() 階段の両サイドに各部屋のドアがある。5階建てなので都合、10世帯が利用する。 ![]() 間もなく取り壊される女子単身者棟。最期の住人が移転し、今は誰も住んでいない。 無人の廊下が寂しい。 ![]() かつて賑わった棟内の共同浴場。こちらは女子棟なので入ったことも覗いたこともない。たしか月・水・金曜日が入浴できる日だったと思う。 大浴場で住民同士の交流もあったんだろうなぁ…。 ![]() 女子単身者棟の2階で、自治会主催の写真展・部屋公開が行われていた。 ![]() この秋公開される「超ウルトラ8兄弟」でも、この団地内でロケが行われたそうだ。ウルトラマンって、8人兄弟だったのか? ![]() 公開されていた201号室。畳3枚に板の部分が少々。もちろん風呂・トイレはない。究極のワンルームである。 窓の外には第2合同庁舎(旧生糸検査所)のレンガが見える。 ![]() テーブルの上には一輪挿しと、訪問者が自由にその思いを綴るためのノートが。 ここに住んでいた人も、そうでない人も、皆さんが思い出を書き込んでいる。 ![]() 最初のページからこれを読んでいくと涙腺がゆるんできたが、こういう書き込みって、嬉しいじゃありませんか。 私はページを繰りながら、むかし閉店した中華街の駄菓子屋「アオキ」の張り紙事件を思い出していた。あのときも泣けたっけ…。 ![]() 201号室の小さなキッチン。かつての住人は、ここで何を作っていたのだろうか。 ![]() ベランダに出ると、桜木町駅前の高層ビルが見えた。 ![]() こちらはお隣の202号室。201号室の方との交流はあったのだろうか。 ![]() 202号室のキッチン。 ![]() 当初の家賃は大卒初任給の3分の1だった! ![]() 旧集会室。森日出夫と藤間久子の写真展が開催されていた。 左側にスピーカーが見える。8月17日には中村裕介がライブをやったというので、そのときのものだろうか。 あぁ、もっと早く知っていれば駆けつけたのになぁ…・ ![]() 懐かしい風景もこんな風にすると斬新な感じがするもんだ。 ![]() これは暖簾状の作品。白く光る2つの物体は、透けて見える向こう側の蛍光灯。 ![]() 集会室の天井に備え付けられていた扇風機。冷房なんてなかったんだね。 ![]() 男女別の単身者棟を結ぶ渡り廊下。ここを渡ってどれだけの人が往来したのだろうか。 夜何時だったか、遅い時間には、住宅公団の健全な配慮から、両棟間の行き来を阻止する扉が堅く閉ざされたものだ。 ![]() 全員退去した女子単身者棟。 ![]() 第2合同庁舎(旧生糸検査所)側から見た海岸通団地。 手前右側の白いビルは合同庁舎。旧キーケンだ。 ![]() 旧横浜生糸検査所附属倉庫事務所。 帝蚕倉庫は生糸検査所と一体的に造られていた。数年前、その生糸検査所は表面だけが復元されて、新しい高層ビルに生まれ変わった。 次ぎに狙われたのは、この倉庫群だ。1棟だけはそのまま横に移動して保存活用する計画だが、他は解体され森ビルによる高層ビルが建築されるという。 さて、ここからが「酔華の海岸通団地物語」の始まりである。 先輩のY氏は、1960年代から、この団地の男子単身者棟に住んでいた。部屋の構造は、上に掲示した女子棟と基本的に変わらない。 畳は3枚、板の部分が約2畳ほどだろうか、かなり狭い居住スペースだったが、その板敷き部分に机や書棚を置いていたから、正味の自由空間は3畳以下だったと思う。 こんなに狭い住居ではあったが、彼を慕う後輩、先輩たち、それは男に限らず女性たちも、頻繁に出入りしていた。 もちろん、みんな酒好きの連中だ。そこでは毎晩のように酒盛りが行われていた。 いろいろな人たちが集った。一升瓶を担いでくる元某大学ボート部のバンカラ、白ヘルメット持参の全学連闘士、ベートーベンをこよなく愛する音楽愛好家、ベロベロに酔っ払った単なる飲んだくれオヤジ…そうそう、頑なに他者を拒むくせに何かを求めて寄って来る若者もいた。 ここは梁山泊だったのだ。常連が108人だったかどうかは、数えていないので不明。 いま思い出すと、さまざまな事件があった。 とくに「嘔吐」に関する記憶は多数あるぞ。世に言う「3ゲロ事件」である。 (その1) 私と一緒にここに泊まっていたエヌ氏。泥酔して寝込んだまではよかったのだが、夜中に横を向いて、家主であるY氏の胸にドロドロとゲボを…! こちら向きでなくてよかったぁ。 (その2) 私と一緒にここに泊まった新人のエス氏。やはり夜中にゲボを噴水。全部、自分にかかっていた。天にゲボするとは、このことだった。 (その3) これは“うら若き女性”の事件。極秘。 このスペースに10人前後の人々が集まって宴会をしたことは、幾度となくある。 しかし部屋に10人も入れるわけがないから、1,2名は狭いベランダに腰掛ける。2名ほどは狭い台所兼玄関に。新参者は廊下で立ち飲みだ。 そして畳の部屋に座れるのは5人程度。話は世相から時事問題、音楽・文学、歴史と、とどまるところを知らず、夜中の2時、3時まで続いた。 そうなると、みんな帰れない。この3畳の部屋+押入れ+台所+ベランダで寝て、翌日、元気よく出勤していった。 私にとっても、懐かしい青春の1ページを記録した「海岸通団地」。 200泊ぐらいしただろうか。 これが解体され、新しい高層建築が建つ日も近い。 ![]() |
いよいよ解体開始ですね。
私には酔華さんのような素晴らしい想い出は無いのですが、
団地フェチとしては、全国でもまれに見る、一等地に残された
数少ない素晴らしい建築物だと想いました。
同じ様な写真を私も撮り貯めてあるのですが、先に公開されて
しまいましたので(ホント同じ様な写真ばっかです)、
解体が始まった頃に、私はアップしようかと(爆)。
若ければ今でも住んでみたい物です。
ワシは若い頃の一人暮らし経験はないのですが、友達の3畳とか4畳半のトコロにはよく寝泊まりしてなぁ(笑)
この団地の写真を撮っていたのですね。
ぜひ公開してください。
お住まい(事務所?)がお近くのようですので、
解体の風景も記録しておいてくださるとありがたいのですが。
>友達の3畳とか4畳半のトコロにはよく寝泊まりしてなぁ(笑)
若い頃は、みんなこんなだったんですね。
友達が住んでいた西戸部の官舎や、祖父母が住んでいた
清水の団地を思い出しました。
古い建物は味がありますねぇ。
狭いのが難点だけど^^
こういう階段って、懐かしいですよね。
そして、狭いからいいのかもしれません。
海岸通団地と同じ位の築年数です。
平成22年3月末退去の定期借家の契約で入居しましたが、1年契約が延びました。
網戸はなく、窓も木枠、換気扇もありませんが、古い建物ののんびりした生活を楽しんでいます。
楽しそうな生活ですね。
でも、来年は退去ですか、残念。
あと1年、のんびりと楽しんでください。
私は子供の頃、ここの横の小さな船着き場でハゼ釣りをしていました。
潮が退くと一坪程の小さな砂浜状になり、フナムシを捕まえてがハゼの餌にしたものです。
生糸検査所の隣に運輸省の官舎がありましたよね。
あの敷地は海に面していて、
昔の護岸が残っていました。
そこには、砂浜も!
これは今でも見ることができます。