中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

戦争孤児のことを調べていたら

2023年08月04日 | レトロ探偵団

 戦争孤児のことを調べていたら、都市発展記念館の西村さんが『横浜都市発展記念館紀要』第13号(2017年3月)の中で書いておられた「戦後横浜の戦争孤児を保護した民間児童養護施設」というタイトルの論文に出くわした。
 読み始めるとすぐ、横浜市役所の組合が発行していた『市従文化』第16号(1949年)の引用文があり、戦後間もなくの桜木町駅前の様子が書かれているではないか。
 『市従文化』。
 私はこの雑誌のことはまったく知らなかった。1949年(昭和24年)で第16号ということは、おそらく昭和21年か22年に創刊されたのだろうと思う。
 そこで早速、図書館の蔵書検索をすると、創刊号からしばらくは保存されておらず、いちばん古いのが第6号(1948年3月)だった。その後もすべては揃っていないのだが、第16号は所蔵されていたので中央図書館に行ってきた。


 これが『市従文化』第16号だ。その中に高野まさ志さんが書いたルポジュタールが載っていた。以下に全文を貼り付けておこう。

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よこはま「浮浪児」点描 高野まさ志

 原子力戦争の惨禍の中から立ち上がった大横浜の表玄関、桜木町駅―構内、構外、街角に、皆それぞれに理由があるのであろうが、浮浪して歩く児童のいかに多いことか。子を、弟を持つ社会人として、ひとり心を痛めぬ者があろうか。
 横浜の「浮浪児」は、いまやある意味で世界の話題になっている。敗戦日本の姿がこれほど率直にむき出しになっているところはないからである。戦争指導者たちがどのように償いをしたところで、この痛ましい現実をかき消すことはできなかろう。同時に政治の貧困もまたここに圧縮されている。
 私は文化機関のあらゆる面から浮浪児のために彼らの代弁者となり、彼らから民衆への訴えとして、また警告としてのこの拙稿を浮浪児救済の主張としたいと思うのである。
 ***
 身を切る木枯らしが駅前の広場から街路樹の葉を遠慮なく吹き付ける師走の宵。少しばかりの夕刊新聞を小脇に抱えた見すぼらしい幼児(ほんとに幼児)が二人、三人背伸びをして出札所から乗車券を買っては改札口へと駆けて行く。プラットホームで、電車の中で商売をするためである。
 私は一人を呼びとめて、ポケットの煙草を一本唇に突っ込んでやる。ライターの火を差し出してやると、無感動に吸いつけてうまそうに吐くけむり。二服、三服。なんにち入らぬ風呂であろう、垢がかさぶたのようにごってりとこびり付いている指先で器用に挟んだ煙草の印刷文字を見て、
 『新生だね、ピースの方がいいや』
 『ぜいたく言うねぇ。ヤサ(家)はどこだ?』
 『野毛だよ』
 『公園か?』
 『決まってねぇや』
 『アオカン(野宿)か?』
 『……』
 濁った眼が寂しくそっぽを向く。
 『ブンバイ(新聞売り)でいくらになる? 一んち二個か?』
 『わかんねえや』

 と、最前から気がついていたが、陸軍の夏衣着た若者が人ごみの中から私を目指して来る。労働基準法の網を抜けた親方に違いない。駅の横手の暗がりに連れ込まれて、何のかんのと因縁をつけられたあげく、二つ三つ殴られオーバーを剥がれ時計を盗られではかなわないので、急ぎ構外へ逃れて雑踏する広場の交差点を横切った中区役所の前に出る。
 浮浪児が大部分、二、三人一組となってずらっと店を並べて靴磨きである。店をたたもうとしていた一組が声をかける。
 『磨いてらっしゃい』
 前金で三十金を投じたらすばしこく磨き、遊んでいかないかという。ショートタイムが二個でオールナイトなら五個。ドヤセン(宿銭)は客持ち。私の靴を立派だとほめてから、こんな靴を履いていながら女と遊ばぬのは、金の使い方を知らぬ男などと本職顔負けのポン引き振り。いや、恐れ入ったものである。
 稼ぎはというと、靴磨きで一日三百円以下ということは殆どなく、最悪の場合でも二百円は生活費として確保させてくれるか、飯を食わせてくれる親方のような者がいるらしい返事。ドヤはと訊くとクスブリ横丁(註 日本ニュースについで文化ニュースも取り上げた横浜名物プウタロウ景気に出てくる)ときた。

 そこで橋を渡って右折すると、ここがクスブリ横丁。またの名をカストリ横丁、オケラ横丁ともいう。不潔な屋台が軒を並べて、得体のしれぬ食べ物を一杯五円から売っている。
 いつの日乾くか地べたは泥んこで、漂う鯨肉のにおいと、かび臭い浮浪者の体臭が鼻をつく。大陸の小盗児市場とおんなじである。クスブリ人生の休憩所というわけであろうか。毎日の生活がオケラ(文無し)というわけか。
 これらの屋台が店を閉める頃、専属の浮浪児がそれぞれ留守番として現れて夜ごと小屋に泊るのである。彼らは大人の浮浪者の真似をして薪をもモサ(かっぱらい)って来る。そして石炭を、コークスを。
 燃料が高価で入手難だから店の主とは相互扶助の関係にある。彼らの社会にはやかましい仁義もなければ、見よう見まねで流れ込んできたその日から気楽に暮らせる安易さがある。おきてのあるような無いような、これがこの集団の弱さというわけか。
 この一画はおびただしい浮浪者の群れで昼でも薄気味悪く、よくぞニュースカメラマンのレンズに納め得たと思うほどであるが、独り歩きの私は誰かに狙われているように不安な気持ちで落ち着かず、すれ違う浮浪者たちの顔を正視しないように急ぎ通り過ぎて、やや世間並の店が続いている花咲町河岸のマーケット街へ出る。カストリ屋が大部分である。

 ときおりは借金もする馴染みの店で一杯ひっかけて、この悪夢のような散歩を元気づけようと、頭でのれんを分けた。と、驚くではないか、先客の中にどう見ても十四歳以上とは思えぬ少年が二人、さしてひどい身なりでもないが、腕時計もして湯豆腐とジャーマンビーフの皿を前にコップをつかんでいる。水にしては濁っているところから、どうやらカストリのよう。
 商売は?と訊くと、丸顔の少年が恥ずかしそうに、ニヤッと笑った。八重歯がいぞいて可愛らしい。私が人差し指を曲げて『これか?』というと、『ふふん』とうなずき、『でも、ときどきだよ。仕事は何でもやるよ。昨日のヨロク(儲け)で今日は一んち野毛の図書館で本を読んでいた』

 この少年、戦争中は中村町辺にいたが、よく図書館へ通ったもの。親を失い兄弟と別れて浮浪する現在、懐かしい図書館を訪うのが唯一の楽しみで、ときおりは図書館の屋上から我が家の焼け跡を眺めては幼児の思い出にふけるという。
 こんな話を交わしているうちに、もう一人の細顔で目尻に青いアザのある少年が、スイバレ(小便)と言って外へ出て行ってからしばらくになる。どこへ行ったのかと丸顔に聞くと、『あいつ淋病なんだよ』
 愕然とした私、救いようのありそうもない彼らの毎日がうかがえるではないか。今夜は寒いからズンブリカマる(入浴する)というので、私はこの店の勘定を引き受け同道することにした。

 野毛といえば戦後、伊勢佐木町、中華街と並んで横浜の繫華を極めている商業中枢。この辺一帯をお得意にするたった一軒の浴場へ私たちは出かけた。
 時刻のせいもあってたいした混雑である。靴も一緒に乱れ籠へ突っ込んで、私が特別に借り賃を出した手拭いをぶら下げて流し場のガラス戸を開ける時、何気なく振り返ると私の乱れ籠から靴下を盗み出してポケットへ隠し込む丸顔。私は無言のまま靴下を引き出す。暗い気持ちだった。
 流し場と浴槽がまた大変である。文字どおり芋を洗うありさま。すきを見つけて浴槽につかる。と目の先をヨコネの内股がしずくを垂らして横切る。髪の伸び放題の浮浪者である。
 私の横に連れの少年たちが割り込む。丸顔の二の腕にまずい字で彫られた「男一代御意見無用」が湯気にかすむ。ああ、何をいわんや。

 浴場を出て昼メシをおごることを条件に、あす図書館の屋上で会う約束をして、今夜はどこに寝ると尋ねると、図書館の裏には市役所の車庫がたくさんあるよとのこたえ。そういえば、さる夜半、市会議場の隣の車庫の横腹にべたりとくっついた十名ほどの浮浪児の群れ。十七八とみえる少年が独り石畳の上を行きつ戻りつ見張りをしている姿を街灯のかげに見たことがあったが、それから二三日して、防空壕に潜んでいた野毛の浮浪児でトラックのタイヤ専門に盗んでいた一団が検挙されたという記事が出ていたなど思い出したことである。

 さて翌日、約束どおり図書館で彼らと逢ってから昼飯を食べに行くまでに得た私の知識によると、これら浮浪児の生活はおよそ犯罪の記録であり、業とするところは良家の子弟のカチアゲ(恐喝・タカリ。カツともいう)から、モク拾い、モクバイ(吸い殻、シケモクを拾って巻き直して売る)、ブンバイ、靴磨き、ポン引き、モサ、ズンブリ(板の間稼ぎ)、ヤチネタバイ(春画売り)とひと通りの悪徳は言うまでもなく、夏場はタコツリ(格子窓などから竿の先にカギをつけたものを差し入れ屋内の衣類などを釣りだす盗み)などもヨロクだという。
 だが、なんといってもトウモ(掏模)あるいはモサとよぶスリが一番の稼ぎになるようで、その手口も種々あって、最も容易なソッパー(ヨウラン=洋服=の外ポケット)を狙うことから、ウチッパー(内ポケット)を狙うかけ出しの一番苦手とするところ。
 それから吸い取りと称して、ズベ公(不良少女)など交えた所謂リレー式の集団スリがオイソレ(スリが犯行に使用する刃物)などを用いる方法や、カリ(狩り込み)があってヤバイ(危険)とかオクられたとなると、トウモ係(スリ係刑事)にカマれて(捕まる)当分ほとぼりのさめるまでタカマチオイ(田舎の祭日に出かける)などで結構仕事があり、かえって横浜市内より儲けがあるあるなどという内幕だった。

 屋上の陽だまりでヨウモク(外国煙草)をふかしながら語った丸顔は、そのあとで思い出したようにハーモニカを取り出すと巧みに「誰か故郷を思わざる」を吹き始めたものである。哀愁を帯びた曲が遠く遠く中村町の空にまで響くかのように。
 だが、このハーモニカも暮れの野毛繁華街で火災の折、ある楽器店から火事泥でアゲて(せしめて)チラした(売り飛ばした)残りだとはこの少年の問わず語り。

 繁華街の横町にある小綺麗な外食券食堂で昼飯を食べることにした。細顔が私の手に持つ一枚十五円で買った外食券を見て、
 『おじさん、いくらで買ったの?』
 『チギチョウ』
 『俺たちならオキ(七円)かチギ(十円)で買えるよ』
 おかずは何にようというと、フリチョウ(二十五円)の刺身がいいという。口は案外おごっているとみえてシャリ(飯)も少し残して楊枝を使う様子が小面憎い。
 『ゆんべの庫車は寒くてろくに寝られなかったから、これからドウカツ(映画館)でカタンつける(眠る)んだ』
 漂々と手を携えて消えてゆく彼ら。
 だが、こうした悪徳も犯しえぬ無能な少年少女はモライ(乞食)をしてゴミ箱をあさるか、屋台飲食店の客から恵んでもらうより途はなく、飢えて凍えて命を絶つ者も多いという。ああ、戦争の遺産にいつの日めぐる春やある。

 伝え聞く彼らの世界の人情の温かさ。魂のつながり。お互いに過去も境遇も知らぬ者同士が、同胞のように、いやそれ以上の気持ちで助け合っている。それは愛情に飢えているからである―と。
 だから彼らの眼は、心は声を限りに叫んでいるではないか。

 『俺たちはみんな弱いんだ。だからいつも仲間を組んでいる。ほんとに弱い俺たちの気持ちを分かってもらえたら、俺たちはきっと更生できるんだ。生きるに辛い夜ごと、泣いて泣いて、泣いている』(1949.12)

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 文末に1949.12と書かれているが、この雑誌は1949年4月の発行なので、高野さんが書いたのは1948年12月だったのではないか。だから町の様子は昭和23年12月のことだろう。


▲『中区わが街~中区地区沿革外史~』(昭和61年)より 当時の桜木町・野毛周辺

 高野さんが、新聞を小脇に抱えた見すぼらしい幼児と言葉を交わしたのは、この地図に書かれている駅前広場なのだろう。
 そして、広場の交差点を横切って靴磨きの少年に声をかけたのが中区役所前。この当時はまだ桜木町デパートができていなかったから、区役所の前、大通り側でやっていたのかな。
 ≪橋を渡って右折すると、ここがクスブリ横丁≫と書いている橋とは、錦橋のことだ。ちなみに、このちかくにある「錦寿司」という店名は、ここからきているのだろうね。
 橋を渡って斜めに入っていく道がクスブリ横丁である。これをまっすぐ進むと中税務署に突き当たる。そこは現在、「にぎわい座」になっている。
 川沿いに小屋が並んでいるところがカストリ横丁あるいはクジラ横丁といった。

 そのカストリ横丁は昭和28年に整理されて、「桜木町デパート」に収容されたのだが、昭和47年に閉鎖され解体。今は桜木新道と駐車場になっている。




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