もう4か月も続く我が国の新型コロナ対策をみていると、なんだか戦中、戦後の日本の状況と重なってくると思う人は多いのではないだろうか。 戦力の逐次投入で失敗し、大打撃を受けて敗戦。その結果、国民は劣悪な環境のもとに置かれた。そんな中で伝染病も発生している。 冒頭の写真は、大岡川に浮かんでいた水上ホテルの内部。しかし、ホテルというのは名ばかりで、実態はダルマ船を改造した簡易宿泊所であった。 現代の簡宿は個室形式だが、ここでは雑魚寝というのが普通のスタイル。どの水上ホテルもこんな状況であった。 なかなか風呂に入れない市民が、「密閉」された狭い空間に「密集」し、明日の職探しなどについて「密接」しながら話し込む、そんな状態だったから当然のこととして伝染病が発生する。 それが発疹チフスだった。 これは横浜市営の水上ホテル「かもめ寮」。奥の方に張り紙が見える。これを拡大してみると… 見にくいが、「発しんチフス発生」、「虱退治」という案内の下に、どうやら閉鎖したというようなことが書かれている。 以上の写真は『中区史』に載っているのだが、さらに当時の様子をこう伝えている。 昭和21年 市民のほとんどは満足に入浴することもできなかった。よしんば入浴しても配給の石鹸では足りず、きわめて不衛生であった。 洗濯も行き届かない。衣類にはノミやシラミが発生した。そのうえ通称「カイカイ」と呼ばれた疥癬(かいせん)が蔓延の傾向をみせた。市民の多くは手指の間やわきの前後などの痛烈なかゆみで悩まされ、県はその対策として、医師や町内会と連絡し、公衆浴場や家庭風呂にイオウ剤を配給、1回10グラムを投入するように指導した。 さらに3月、今度はシラミが媒介する発疹チフスが発生、これもまた蔓延した。進駐軍は県職員を指揮し、横浜駅や桜木町駅、それに街頭で、人々にDDTの散布消毒を半ば強制的に行った。男も女も襟から袖から、そしてズボン下まで真っ白な粉末を圧搾空気で注入され、身体の隅々まで消毒された。 発疹チフスは、6月にはほとんどなくなった。予防を受けた人は382,000人、61,200戸、使用したDDTは8万ポンド、百万円の市費がつぎ込まれた。 腸チフスというのはどんな病気なのか、国立感染症研究所のサイトで確認すると、こんなことが書いてある。 発熱、頭痛、悪寒、脱力感、悪心・嘔吐、手足の疼痛を伴って突然発病する。潜伏期間は6~15日で、通常は12日程度とされている。体温は39~40℃に急上昇する。 第一次大戦中にはヨーロッパで数百万の死者を出し ている。わが国では、1914(大正3)年に7,000人を超える患者発生が記録されているが、その後次第に減少し、1942(昭和17)年までは数~数十人の 患者発生数であった。ところが、太平洋戦争が激しくなった1943(昭和18)年から毎年1,000人を超える患者が発生するようになり、戦後の 1946(昭和21)年には32,300人強と急増した。 その後は落ち着き、1957(昭和32)年の1例を除いて発生はみられていない。 やはり昭和21年は感染爆発の年だったようだ。 あれから74年、今また大変なウイルスが暴れまわっているが、こっちは発疹チフスの比ではないぞ。 皆さん、自粛しましょうね。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
あったのですねえ!
ほかに県営の水上ホテルもありました。
あの当時は行政も直営でやっていたんですね。
「寮」というのは学生寮とか社員寮だけではなく、
福祉施設によく使われている言葉で、
「甲突寮」、「中村川寮」、「天神寮」なんていうのがありますよね。
婦人保護施設「さつき寮」はどうなったのかなぁ…
むかしの新聞記事をみるとDDTを振りかけているという光景がよく出てきます。