自粛期間中に昔の新聞のコピーを整理していたら、こんなのが出てきた。昭和29年4月16日の神奈川新聞で、開港百年祭の期間中に遊郭の土地標石柱が発見されたということが書かれている。 この記事をコピーしたのはたぶん4年くらい前のことだったと思う。横浜公園内にあった「グリル公園」のことを調べていたのだが、それとは無関係なこんな記事に目が行ってしまったのだ。 集中力が足りないというか、目移りしやすいというか、本来の目的を忘れてつい、コピーを取っておいたのだろうね。 で、いま読み返してみると、大体こんなことが書いてある。 開港百年祭の開催期間中の昭和29年4月、中区日本大通り10番横浜地方裁判所横の路上で、遊郭地所設定標石柱が転がっているのを、加賀町署の神崎巡査が見つけて横浜市に連絡した。 市歴史編さん室の調べで、安政6年、開港が決まったとき幕府が紅毛人専用の“赤線区域”を設けるため、業者へ貸し下げた土地(現在の横浜公園一帯)へ建てられた境界標と分かった。 神崎巡査の発見した石柱は、さる3月20日、同所で地下ケーブル工事中の日本電話会社現場監督久保さんらが地下1メートル半のところから掘り出し、不審に思ったまま路上に置いたもので、長さ約1尺5寸、たてよこ約8寸。 表には「長さ百八十間大門足?迄。港嵜町拝借地。取?人佐吉」 裏には「安政六年未歳四月御??万延元年甲歳三月御改」と刻まれている。 詳しく読んでみたい方は、下の画像をクリックして拡大ね♪ クリック 昭和29年当時の横浜市歴史編さん室というのは、のちの横浜市史編集室(現在:横浜市史資料室)のことだと思うのだが、この石柱は引き継いでいるのだろうか。できれば遊郭の跡地である横浜公園、それも柱が建っていたと思われる位置に設置してほしいと思う。それが無理なら、せめて岩亀楼の石灯篭の横にお願いしたいものだ。 現在、横浜公園内に遊郭があったことを伝える記念碑・案内板は2か所にある。一つはこれ。 岩亀楼の石灯篭とその解説板。 そこにはこの場所の歴史が書いてあるのだが、見にくいので少し大きくしてみよう。 せっかく遊郭の話を書いているのに、その2文字がない。代わりに使われている言葉が「国際社交場」だ。 鹿鳴館じゃあるまいし、なぜ「遊郭」と表示しなかったのか。この言い方には違和感があるよね。 遊郭ではないが、最近よく使われている言葉にも違和感たっぷりのものがある。 たとえば「ソーシャル ディスタンス」。この言葉を聞くたびに、なにかしっくりしないものを感じるのだ。 物理的な、身体的なディスタンスのことだと理解しているのだが、そこにソーシャルというのはいかがなものだろうか。 それから小池都知事がよく使っている「夜の街」。住宅街だって官庁街だって、暗くなれば夜の街になるのにね。 なんか、はっきり言わずにイメージさせているのだろうけど、ひとによって思い出すものはさまざまだから、これも違和感ありだ。 話がそれちゃったね… 横浜公園の場所にはかつて遊郭があったということなのだが、何年か前にやっと横浜市がこのような案内を立てた。 日本大通り側の出入り口近く、ブラントンの胸像と並んで設置されている。 はっきり「遊郭」と書いてあるよ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
その経緯をしりたいです。
港崎遊郭の石柱も興味深いですねえ。
知りませんでした。
捨てられていないことを祈ります。
あの案内板を作るにあたって記録は残しているのでしょうかね。
たぶん無いでしょう。
誰の発案だったのか、知りたいです。
勝手な推測ですが、原案は遊郭だったのではないでしょうか。
それを上層部が国際社交場にしろと、改ざん命令?
情報開示を請求してみますかね。
たぶん不存在という回答がありそう。
40年前の文書は廃棄しているはずですから。
でも書いた人は覚えているでしょう。