「かわやん」のブログのK氏たちが最初支援活動をしていた韓国女性の従軍慰安婦問題の会合だった。従軍慰安婦のことは新聞などで漠然とは知っていたが内容はたいして私は知識がなかった。そしてまだ在日同胞の中で取材をしていてそう年数はたっていなかった。まだ2・3年のころだった。
東京の本社の編集局からの要請で従軍慰安婦の問題を考える会を立ち上げる記者会見の現場に行くようにと要請があった。
日本の報道関係者もたくさん来ていた。このときは確か、釜山の現場からすっとんでの取材だった。
そして当時、盛んに従軍慰安婦問題の会合がおこなわれた。
そのときある会合に出席をして韓国で教え子を挺身隊に送ったと証言されたのが池田さんだった。
気丈に言葉をかみ締めるように話されるその姿勢は一生懸命に生きてこられた生き様をみるようだった。
リュックサックを背負って関係のある会合に顔を出しておられた。元教師という姿勢は崩さないで誰にでも公平に話されていた。
この現場の取材に私の父は私に何度も言った。当時の内容を知っていたのか「この取材は韓国もかかわっているから取材はしないほうがいい」と少しの歴史事実を話してやめるようにと言っていた。
そのうちこの現場から入ることもなくなり池田さんと会う機会はなくなった。
日本植民地時代の歴史史実に勇気を出して証言して下さった。
そして芸能人の訃報も続く。
岸田今日子さん、もう1人いた。名前がでてこない。
そしてコメデアンの1人も35歳の若さで亡くなった。
世の中、いろんなことが吹き荒れている。
今年の暮に池田さんが亡くなったことは在日コリアンの問題で日本社会に運動して来た人たちは忘れることはないだろう。
それほど存在感のある人だった。
東京の本社の編集局からの要請で従軍慰安婦の問題を考える会を立ち上げる記者会見の現場に行くようにと要請があった。
日本の報道関係者もたくさん来ていた。このときは確か、釜山の現場からすっとんでの取材だった。
そして当時、盛んに従軍慰安婦問題の会合がおこなわれた。
そのときある会合に出席をして韓国で教え子を挺身隊に送ったと証言されたのが池田さんだった。
気丈に言葉をかみ締めるように話されるその姿勢は一生懸命に生きてこられた生き様をみるようだった。
リュックサックを背負って関係のある会合に顔を出しておられた。元教師という姿勢は崩さないで誰にでも公平に話されていた。
この現場の取材に私の父は私に何度も言った。当時の内容を知っていたのか「この取材は韓国もかかわっているから取材はしないほうがいい」と少しの歴史事実を話してやめるようにと言っていた。
そのうちこの現場から入ることもなくなり池田さんと会う機会はなくなった。
日本植民地時代の歴史史実に勇気を出して証言して下さった。
そして芸能人の訃報も続く。
岸田今日子さん、もう1人いた。名前がでてこない。
そしてコメデアンの1人も35歳の若さで亡くなった。
世の中、いろんなことが吹き荒れている。
今年の暮に池田さんが亡くなったことは在日コリアンの問題で日本社会に運動して来た人たちは忘れることはないだろう。
それほど存在感のある人だった。
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