鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

7月6日、過ぎていく。

2009-07-06 17:07:25 | 直言!
早い。外は今日、雨がふらずに過ぎていく。夜に降るだろうか。
朝から電話連絡にメールでの連絡で過ぎていく。ブログを1本かいたものの休憩をしないといけないと思って11時過ぎにパソコンを置いた。
それから昼食の支度をして11時半からのニュースを見ながらの食事、テレビ番組欄を見ると12時から石原裕次郎の23回忌取材の裏を紹介するということでそれをみることにした。
昨日見たかった。夫はずっと前から石原裕次郎の23回忌があるといっていたのにいつなのか分からなかった。
髪の毛も染めないといけない。オーナーにカットしてもらわないと髪がまとまらない。昨日出かけて家に戻ったのが2時前、シャワーを浴びてそれからパソコンを開いて月曜日連載の原稿を見直してパソコンを閉めて夕食に取りかかった。金曜日取材した原稿は作れず先ほど作成して写真も送信した。
昨日の話しに戻そう。
昨日、素麺を湯がいて素麺の上にのせるものを作った。やっと終わってテレビのチャンネルをまわしていてやっと石原裕次郎の23回忌の番組になった。なんとこの番組は2時半からしていたのに気がつかなかった。
仕方がないなと思うことにした。
4時40分ごろ見た。
若いときの裕次郎はかっこういい。テレビを見て私は「男前やな」というと夫は「何が男前や」という。こんなことを夫と交わしながら叔父のことを思い出した。叔父は父親の弟で3・4年、私の家に居候していたので叔父の中でも一番の身近な人だった。
家で居候しているとき「嵐を呼ぶ男」や「明日は明日の風が吹く」「錆びたナイフ」の映画作品で石原裕次郎全盛期だった歌をよく歌っていた。
いつも石原裕次郎の映画の主題歌を歌っていた。私より9歳年上で20歳代の青春真っ只中だった。トレンチコートも石原裕次郎が着ていたコートとよく似ていた。大人になってそれがわかった。
20歳代の青春真っ只中、石原裕次郎に憧れた叔父は今、72歳、京都で静かに暮らしているが新聞は毎日きちんと読んでいると思うのでテレビでの23回忌も知っていると思う。今日はこのテレビをみているだろうかとふと思った。
そして石原裕次郎の歌、「我が人生に悔いなし」の最後のレコード、スタッフは反対しているのに裕次郎はこの歌を選んだという。
自分の最後を予感していたのだろうか。
裕次郎の甘い声に思わず私の目に涙がたまっている。
裕次郎が亡くなってから残念と思うことは何度もあったが涙ぐんだのは初めてだった。なぜかしらと思っていた。
人は出会いや別れを繰り返していく。
私もいろんなことがあったが年を重ねてくると私が育った木津町、ここで過ごした同級生たちとの逢瀬が心安らぐ時になってきた。
この意味はなぜか分からないが人間は適当に気遣いながらも開けぴろっけになれるところがいいのかもしれない。
高校時代の女友だちは相楽郡内の中学から集ってくる。子どものころを知らない。それで適当に見栄をはる。そして優位に立とうと話しを大きく拡げていく人もいる。私はずっと昔からありのままに生きてきたので見栄をはることもなく話を広げることもなくタンタンと生きてきた。そしたら見栄を張る人の前にいくと疲れる。私の性に合わないとやっとこの年になって気がついた。

そんなことを考えながら石原裕次郎の23回忌の記事が掲載されている新聞を読んでいた。そしたら木津町に住んでいる同級生から電話が入った。
不思議なこと。そして石原裕次郎の23回忌の話しをしたりして電話を切った。
こちらからかけなおそうと思ったが失礼かなと思ってやめたが長電話になってしまった。申し訳ないなと思いながら電話を切った。
私たちの世代は石原裕次郎の影響をいっぱい受けて育った世代、やはり裕ちゃんは素晴らしい。もっと長生きして欲しかった。
言葉の数々で物議を醸し出す兄の石原慎太郎、昨日だったのか。テレビで「石原裕次郎は何を残しましたか」という報道記者の質問に「名前を残した」と話していた。
本当に名まえを残された。昭和の大スター、美空ひばりに石原裕次郎、かっこうよかった。そしてあの時代マイナスがなくてプラス思考だった。
昨日本屋さんで「官僚たちの夏」の本、文庫本が出ていたので買ってきた。そしたら昨日の夜テレビで放映されていた。これは偶然というのか。ドラマ放映は何も知らなかった。単子本は重くて近年、もてないので文庫本になって買う本もある。
国産車の開発に取り組む日本、アメリカの圧力で車が作れない歴史の一旦がドラマに入れられていた。
私たちの世代は車がそんなに走っていない時代に育っている。
木津の町にある163号線の国道も横に広がって歩いても自動者の往来はほとんどなくのんびりとした時代だった。
現代の若者たち、車が町に走っていない時代があったとこと想像できないだろう。
小型車、マツダキャロルが町の中に走り出したのが東京オリンピックの前の年ぐらいからだっただろう。さっそうと町の中を走っていた。奈良の町を走っていた。
あの時代、みんな夢があった。貧しくても働くことで明日につながると信じた。
それが今は働くところがないという時世、夢の持てない日本になった。
こんなことも若者たちの自堕落も発生しているのだろう。
このブログを書いている途中で夕立になった。大粒の雨が降った。今はやんでいる。しかし雷がなっている。まだ雨がふるのだろうか。
これから夕食の支度。このへんで。
雨が上って晴れている。それでね雷がなっている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 7月6日、朝は曇っていたが蒸... | トップ | 7月7日火曜日、七夕である。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

直言!」カテゴリの最新記事