最初は「あの日、あの時」で筆者の子ども時代から高校卒業までの思い出を綴っていた。高校卒業後の筆者の人生はまだ語れないことも多々あるのでとりあえず終えて新「あの日、あの時」として日本が朝鮮半島を植民地統治する前後の韓日の歴史そして戦後の歴史を記述することになった。しかしこのコーナにはいろいろと抗議があるようだ。
韓国政府発行で在日韓国人子弟が語学留学で学ぶ「韓国史」の教科書に抗議がある。この中に「在日同胞の中には日帝によって強制連行された人たちが大部分であった」となっている。在日同胞の中には----という文書が入っているのにまた末尾に強制連行された人たちが大部分だった」というところに筆者も懸念している。しかし韓国の歴史書を編纂する人の事情が分からないので答えを出さないでいる。現在も在日同胞子弟が語学留学をしている。そして「韓国史」を学習している。
今後は筆者の個人の考えとして韓国で習う教科書について「日本植民地支配で日本政府に生活圏を奪われ生活の新天地を求めて日本に自ら渡日した人もいた」というような文言も入れたてもらいたいものである。この教科書も1995年初版で発行された。後に日本赴任を追えて帰国された人たちが国際教育振興院で幹部ポストについておられる人もいる。在日同胞の実態を把握しておられるので韓国史はまた新たに編纂されているだろうと考えているが筆者の手元にはこの教科書しかないので1995年初版発行とし「原文のまま」という記述を入れている。
参考著書「明石書店「2007年初版」発行、「日韓歴史共通教材―日韓交流の歴史<先史から現代まで>:歴史教科書研究会(韓国)・歴史教育研究会(日本)から。
■ このころの韓国(1910~1945)
「文化統治」日本は3・1独立運動に衝撃を受け朝鮮支配政策をいわゆる「文化統治」に転換した。これを契機に朝鮮人は制限的であるが集会を開き団体を組織しハングルで書かれた新聞と雑誌を発行することができるようになった。しかし「文化統治」の間にも警察官の数を大幅に増やし日本と同時に治安維持法を施行するなど支配はより厳しくなった。日本は食糧不足を補うため朝鮮で米を増産する政策を実施した。しかし増産された量よりもはるかに多くの米が日本に搬出され朝鮮人の1人当たりの米の消費量を大きく減少した。
韓国政府教育部国際教育振興院発行の「韓国史」1995年初版発行。文書は「原文のまま」紹介。この教科書は国際教育振興院に語学留学した在日同胞子弟が使用していた教科書である。
■国権守護運動と独立闘争
「義兵の救国抗争」
日帝の侵略に立ち向かって武力抗争をひろげたのは義兵であった。義兵の抗争は明成皇后の殺害と断髪令の施行を機にして開始された。この時の義兵は壬辰倭乱の時の伝統を受け継ぎ日本を追い出して祖国を守ることを目標にした。そこで柳麟錫などの儒生が率いる義兵部隊は全国各地において親日官僚と日本人に天誅を下した。
すなわち李麟栄などが率いる約1万人の義兵たちは京畿道楊州に集結し24個の隊陣に分けてソウル進攻作戦を展開した。彼らがソウル近郊約3里のところまで進出したときに日本軍の反撃にあい解散せざるをえなかった。
日本軍は義兵に対し残酷な弾圧を加えた。約2個師団の兵力と海軍船艇まで動員した日本軍は暴徒討伐という名目で全国各地の村を焼きはらい良民を虐殺し又穀物を奪い取るなど塵ほどのためらいもなく蛮行を働いた。これによって1907年8月から1909年の間に日本軍によって虐殺され義兵の数だけでも1万7千余人に達し負傷者は3万7千余人を越えた。
日本軍の攻撃に追われた義兵部隊は次々と山間僻地へと移動して遊撃戦を展開した。しかし一部の義兵部隊は新しい抗争根拠地をさがして満州と沿海州地域へ移動してそこで独立闘争を継続した。
義兵の抗戦が各地でおきる一方、沿海州一帯で活動していた安重根義士は侵略の元凶伊藤博文をハルピン駅で射殺し、田明運などもサフランシスコで親日外交スティブンスを射殺した。
【写真説明】1995年4月10日慶尚南道晋州市を訪問。ここで1泊した。韓日双方の報道関係者の取材旅行だった。筆者の祖父母と父はこの晋州市(昔は慶尚南道晋陽郡でここから日本に渡日してきた)写真は晋州市内を流れる晋州川です。
韓国政府発行で在日韓国人子弟が語学留学で学ぶ「韓国史」の教科書に抗議がある。この中に「在日同胞の中には日帝によって強制連行された人たちが大部分であった」となっている。在日同胞の中には----という文書が入っているのにまた末尾に強制連行された人たちが大部分だった」というところに筆者も懸念している。しかし韓国の歴史書を編纂する人の事情が分からないので答えを出さないでいる。現在も在日同胞子弟が語学留学をしている。そして「韓国史」を学習している。
今後は筆者の個人の考えとして韓国で習う教科書について「日本植民地支配で日本政府に生活圏を奪われ生活の新天地を求めて日本に自ら渡日した人もいた」というような文言も入れたてもらいたいものである。この教科書も1995年初版で発行された。後に日本赴任を追えて帰国された人たちが国際教育振興院で幹部ポストについておられる人もいる。在日同胞の実態を把握しておられるので韓国史はまた新たに編纂されているだろうと考えているが筆者の手元にはこの教科書しかないので1995年初版発行とし「原文のまま」という記述を入れている。
参考著書「明石書店「2007年初版」発行、「日韓歴史共通教材―日韓交流の歴史<先史から現代まで>:歴史教科書研究会(韓国)・歴史教育研究会(日本)から。
■ このころの韓国(1910~1945)
「文化統治」日本は3・1独立運動に衝撃を受け朝鮮支配政策をいわゆる「文化統治」に転換した。これを契機に朝鮮人は制限的であるが集会を開き団体を組織しハングルで書かれた新聞と雑誌を発行することができるようになった。しかし「文化統治」の間にも警察官の数を大幅に増やし日本と同時に治安維持法を施行するなど支配はより厳しくなった。日本は食糧不足を補うため朝鮮で米を増産する政策を実施した。しかし増産された量よりもはるかに多くの米が日本に搬出され朝鮮人の1人当たりの米の消費量を大きく減少した。
韓国政府教育部国際教育振興院発行の「韓国史」1995年初版発行。文書は「原文のまま」紹介。この教科書は国際教育振興院に語学留学した在日同胞子弟が使用していた教科書である。
■国権守護運動と独立闘争
「義兵の救国抗争」
日帝の侵略に立ち向かって武力抗争をひろげたのは義兵であった。義兵の抗争は明成皇后の殺害と断髪令の施行を機にして開始された。この時の義兵は壬辰倭乱の時の伝統を受け継ぎ日本を追い出して祖国を守ることを目標にした。そこで柳麟錫などの儒生が率いる義兵部隊は全国各地において親日官僚と日本人に天誅を下した。
すなわち李麟栄などが率いる約1万人の義兵たちは京畿道楊州に集結し24個の隊陣に分けてソウル進攻作戦を展開した。彼らがソウル近郊約3里のところまで進出したときに日本軍の反撃にあい解散せざるをえなかった。
日本軍は義兵に対し残酷な弾圧を加えた。約2個師団の兵力と海軍船艇まで動員した日本軍は暴徒討伐という名目で全国各地の村を焼きはらい良民を虐殺し又穀物を奪い取るなど塵ほどのためらいもなく蛮行を働いた。これによって1907年8月から1909年の間に日本軍によって虐殺され義兵の数だけでも1万7千余人に達し負傷者は3万7千余人を越えた。
日本軍の攻撃に追われた義兵部隊は次々と山間僻地へと移動して遊撃戦を展開した。しかし一部の義兵部隊は新しい抗争根拠地をさがして満州と沿海州地域へ移動してそこで独立闘争を継続した。
義兵の抗戦が各地でおきる一方、沿海州一帯で活動していた安重根義士は侵略の元凶伊藤博文をハルピン駅で射殺し、田明運などもサフランシスコで親日外交スティブンスを射殺した。
【写真説明】1995年4月10日慶尚南道晋州市を訪問。ここで1泊した。韓日双方の報道関係者の取材旅行だった。筆者の祖父母と父はこの晋州市(昔は慶尚南道晋陽郡でここから日本に渡日してきた)写真は晋州市内を流れる晋州川です。
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