いよいよ年末に向かって慌しく動き出したようだ。
年賀状の受付も昨日から始まった。
年賀状受付のニュースに気持ちがふと忙しくなった。
そんなニュースの中で昨日、8時45分のNHK関西のニュースで県議会議員の鍵田忠衛兵さんの訃報が知らされた。
びっくりした。54歳という。
ということは私の弟と同じ年、弟もこんな年になったのか。
実家の向かい側にある建具店の息子も弟と同じ年だった。
建具店の息子は奈良市内の育英中学校、高校と進んで鍵田忠衛兵さんと同級生だったらしい。建具店の息子から鍵田忠衛兵さんのことを聞いて弟は鍵田忠衛兵さんのそのときそのときの状況をよく知っていた。
訃報のニュースに驚いているだろう。
私は鍵田忠衛兵さんと最後に会ったのは民団奈良県本部会館(奈良市芝辻町)で行われた11月26日の「韓国語スピーチコンテスト」の時だった。
当日、12時10分に関係者から取材要請の電話が入った。私の住んでいる所が奈良市内だから、1時から始まるコンテストにすぐに駆けつけることができると思っている。
身支度をするのにいくら急いでも30分はかかる。40分を見ないといけない。
家の戸締りもして出るので1時間をとっている。
私は関係者に「無理だ」といいながらも急いで身支度をして自宅からタクシーを使って会館に入ったのが1時15分、私が会場の4階に行くために階段を上っていると鍵田忠衛兵さんが降りてこられた。
鍵田忠衛兵さんは奈良で日韓親善協会の会長をしておられるので顔を出して挨拶をして帰られるところだった。
遅くなった私、階段ですれ違う時にまず双方「こんにちは」と挨拶をした。そして鍵田忠衛兵さんは「今、3人目のスピーチです」といってくれたので「そうですか。ありがとうございます」といって私は階段を上っていった。
これが最後の言葉となって最後の出会いとなった。
どこでお会いしても私に親しく話しかけて下さった。
感謝しています。
倒れたのは韓国の済州道である。
ニュースではゴルフ場で倒れたといっていたが今朝の奈良新聞では訃報を知らせる記事にしては大きく扱っておられたが済州道のどこで倒れたのか書いていなかった。
済州道に行くと海鮮類が新鮮で空気もソウルと違ってきれいでそんなに騒々しいこともなく海岸から見る海は美しく済州道を好きになる日本人も多い。鍵田忠衛兵さんはどこに魅せられていただろうか。
あの有名なトッケビ(おばけ)道路も見ておられるだろう。
その道路、目線は上り坂に見えるのに缶を置くとその上り坂を缶が転がっていく面白い道路がある。観光名所になっている。
何気ない小さな海岸近くにある食堂で食べたあわび粥も美味しく食べ物に魅せられてしまう。私は仕事で3回、済州道に入っているが海岸から見る海の青さに魅せられてそして住居を囲むように作られている人ので積まれた石垣の美しさに見せられていた。今も懐かしく思いだす。
しかし済州道も日本植民地支配の時代、多くの人が大阪鶴橋に渡ってきた。鶴橋は済州道出身者が多い。日本植民地支配の負の遺産を今もたくさん背負って生きている在日コリアンの歴史がある。
また韓国と北朝鮮の建国に対する摩擦も起きて多くの住民も悲劇を味わう事件もたくさんあった。こんなことが語られるようになったのはまだつい最近のことである。歴史に蓋をしてきた済州道の歴史がある。
54歳はまだ若いです。あまりにも早い。
ご冥福をお祈りします。―合掌―
年賀状の受付も昨日から始まった。
年賀状受付のニュースに気持ちがふと忙しくなった。
そんなニュースの中で昨日、8時45分のNHK関西のニュースで県議会議員の鍵田忠衛兵さんの訃報が知らされた。
びっくりした。54歳という。
ということは私の弟と同じ年、弟もこんな年になったのか。
実家の向かい側にある建具店の息子も弟と同じ年だった。
建具店の息子は奈良市内の育英中学校、高校と進んで鍵田忠衛兵さんと同級生だったらしい。建具店の息子から鍵田忠衛兵さんのことを聞いて弟は鍵田忠衛兵さんのそのときそのときの状況をよく知っていた。
訃報のニュースに驚いているだろう。
私は鍵田忠衛兵さんと最後に会ったのは民団奈良県本部会館(奈良市芝辻町)で行われた11月26日の「韓国語スピーチコンテスト」の時だった。
当日、12時10分に関係者から取材要請の電話が入った。私の住んでいる所が奈良市内だから、1時から始まるコンテストにすぐに駆けつけることができると思っている。
身支度をするのにいくら急いでも30分はかかる。40分を見ないといけない。
家の戸締りもして出るので1時間をとっている。
私は関係者に「無理だ」といいながらも急いで身支度をして自宅からタクシーを使って会館に入ったのが1時15分、私が会場の4階に行くために階段を上っていると鍵田忠衛兵さんが降りてこられた。
鍵田忠衛兵さんは奈良で日韓親善協会の会長をしておられるので顔を出して挨拶をして帰られるところだった。
遅くなった私、階段ですれ違う時にまず双方「こんにちは」と挨拶をした。そして鍵田忠衛兵さんは「今、3人目のスピーチです」といってくれたので「そうですか。ありがとうございます」といって私は階段を上っていった。
これが最後の言葉となって最後の出会いとなった。
どこでお会いしても私に親しく話しかけて下さった。
感謝しています。
倒れたのは韓国の済州道である。
ニュースではゴルフ場で倒れたといっていたが今朝の奈良新聞では訃報を知らせる記事にしては大きく扱っておられたが済州道のどこで倒れたのか書いていなかった。
済州道に行くと海鮮類が新鮮で空気もソウルと違ってきれいでそんなに騒々しいこともなく海岸から見る海は美しく済州道を好きになる日本人も多い。鍵田忠衛兵さんはどこに魅せられていただろうか。
あの有名なトッケビ(おばけ)道路も見ておられるだろう。
その道路、目線は上り坂に見えるのに缶を置くとその上り坂を缶が転がっていく面白い道路がある。観光名所になっている。
何気ない小さな海岸近くにある食堂で食べたあわび粥も美味しく食べ物に魅せられてしまう。私は仕事で3回、済州道に入っているが海岸から見る海の青さに魅せられてそして住居を囲むように作られている人ので積まれた石垣の美しさに見せられていた。今も懐かしく思いだす。
しかし済州道も日本植民地支配の時代、多くの人が大阪鶴橋に渡ってきた。鶴橋は済州道出身者が多い。日本植民地支配の負の遺産を今もたくさん背負って生きている在日コリアンの歴史がある。
また韓国と北朝鮮の建国に対する摩擦も起きて多くの住民も悲劇を味わう事件もたくさんあった。こんなことが語られるようになったのはまだつい最近のことである。歴史に蓋をしてきた済州道の歴史がある。
54歳はまだ若いです。あまりにも早い。
ご冥福をお祈りします。―合掌―
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