私は修行僧の行は見たことがないので文章に表現できないがとにかく厳しい修業が行われている。
行きつけの喫茶店・銀杏やのアートのコーナーの生花が変った。3月3日に変っていたが東京に会議にいくときでカメラを鞄の中にいれていなかった。
今日は現場の仕事でカメラを持っていたので写真におさめた。
東大寺のお水取りをイメージされたという。後ろにかかる油絵は東大寺の建物の絵である。両端の2本は東大寺の屋根の鴟をイメージされたのだろうか。店の経営者の奥さんがみのアートのコーナーをいけておられる。
東大寺で篭っている修行僧のイメージ、前の白い花は椿である。春の訪れなのだろうか。
顧客たちもアートのコーナーの生花が変ると必ず1回は見とれてしまう。
この喫茶店で今日は珍しい人にあった。
1人はかつてマンションの1階に喫茶店があったとき常連さんだったので親しくなった人で子どもさんがそのとき産まれた子どもさん、今大学3年という。早いものである。年月の経っていることを実感する。
トイレに行こうとしたらテーブルの人が私の顔をじっと見ている。
私は記憶がある。
木津町の本町通りに面した並びの人だった。私は「私のことを覚えておられるのですか」と聞くと彼女は「覚えています」という。何年たっても実家にいたころの幼い時の面影があるのだろう。
1級下かなと思っていると2級下だった。
ベビーブームのクラスの走りだった。当時の小学校はいろはに組でクラス分けをしていた。ベビーブームでいろはにほ組までのクラスになり中学に行くとABCDがABCDEまでなった。そんな時代の子どもである。
団塊の世代というのだろうか。
私は昭和19年生まれで1944年、日本の敗戦の1年前に生まれた。戦後の日本と同じようにして育った。
話は変るがしかし今日は寒い。ほんまに寒かった。風邪を引きそうなくらいに寒かった。
昼ごろ、郵便局に行った後行きつけの喫茶店にいこうと横断歩道で待っていると女子高校生2人が「寒い寒い」と言っている。ふと見ると制服のしたは白の木綿のハイソックスだけある。
思わず私は声をかけてしまった。「それは寒いな」彼女たちは「はい」と答えてくれる。今時おばちゃんの会話に無視しないで答えたてくれた。心の中で(なかなかいい子。この子たちは将来伸びる)と呟いていた。
そした私は「この間までぬるい日もあった。暖かいのとちがってぬるいのやで」といったら「アハハハ」と笑ってくれた。「それやのに急にまた寒くなったらこたえるね」といったら「はい。そうです」といいながら笑っていた。
彼女たちの明るい笑顔に家庭の温かさが伝わってくる。ちゃんとおばさんにもコミニユケーションができる。これなら社会にでても大丈夫と心の中で呟いていた。
信号が青になった。
「面白いおばちゃんでこめんね」といったら「いいえ。そんなこと---」と言ってにっこり笑った。これ以上彼女たちにまとわりついたら嫌われると思って横断歩道を急ぎ足で歩いた。後ろから彼女たちの足音がしていたが振り向かないでそのまま真っ直ぐ歩いて喫茶店に行った。
女子高校生のにっこりと笑った顔に心がポット明るくなった。
親の顔が見えるようでまだまだこうした若者たちがたくさんいると改めて認識した。この子たちを家庭も学校も大切に育成してほしいものである。
勉強も大事だがやはり笑顔になれる子どもがもっと大事だと思う。そんなことを教えてもらった今日、ほんの一瞬であった女子高校生だった。
行きつけの喫茶店・銀杏やのアートのコーナーの生花が変った。3月3日に変っていたが東京に会議にいくときでカメラを鞄の中にいれていなかった。
今日は現場の仕事でカメラを持っていたので写真におさめた。
東大寺のお水取りをイメージされたという。後ろにかかる油絵は東大寺の建物の絵である。両端の2本は東大寺の屋根の鴟をイメージされたのだろうか。店の経営者の奥さんがみのアートのコーナーをいけておられる。
東大寺で篭っている修行僧のイメージ、前の白い花は椿である。春の訪れなのだろうか。
顧客たちもアートのコーナーの生花が変ると必ず1回は見とれてしまう。
この喫茶店で今日は珍しい人にあった。
1人はかつてマンションの1階に喫茶店があったとき常連さんだったので親しくなった人で子どもさんがそのとき産まれた子どもさん、今大学3年という。早いものである。年月の経っていることを実感する。
トイレに行こうとしたらテーブルの人が私の顔をじっと見ている。
私は記憶がある。
木津町の本町通りに面した並びの人だった。私は「私のことを覚えておられるのですか」と聞くと彼女は「覚えています」という。何年たっても実家にいたころの幼い時の面影があるのだろう。
1級下かなと思っていると2級下だった。
ベビーブームのクラスの走りだった。当時の小学校はいろはに組でクラス分けをしていた。ベビーブームでいろはにほ組までのクラスになり中学に行くとABCDがABCDEまでなった。そんな時代の子どもである。
団塊の世代というのだろうか。
私は昭和19年生まれで1944年、日本の敗戦の1年前に生まれた。戦後の日本と同じようにして育った。
話は変るがしかし今日は寒い。ほんまに寒かった。風邪を引きそうなくらいに寒かった。
昼ごろ、郵便局に行った後行きつけの喫茶店にいこうと横断歩道で待っていると女子高校生2人が「寒い寒い」と言っている。ふと見ると制服のしたは白の木綿のハイソックスだけある。
思わず私は声をかけてしまった。「それは寒いな」彼女たちは「はい」と答えてくれる。今時おばちゃんの会話に無視しないで答えたてくれた。心の中で(なかなかいい子。この子たちは将来伸びる)と呟いていた。
そした私は「この間までぬるい日もあった。暖かいのとちがってぬるいのやで」といったら「アハハハ」と笑ってくれた。「それやのに急にまた寒くなったらこたえるね」といったら「はい。そうです」といいながら笑っていた。
彼女たちの明るい笑顔に家庭の温かさが伝わってくる。ちゃんとおばさんにもコミニユケーションができる。これなら社会にでても大丈夫と心の中で呟いていた。
信号が青になった。
「面白いおばちゃんでこめんね」といったら「いいえ。そんなこと---」と言ってにっこり笑った。これ以上彼女たちにまとわりついたら嫌われると思って横断歩道を急ぎ足で歩いた。後ろから彼女たちの足音がしていたが振り向かないでそのまま真っ直ぐ歩いて喫茶店に行った。
女子高校生のにっこりと笑った顔に心がポット明るくなった。
親の顔が見えるようでまだまだこうした若者たちがたくさんいると改めて認識した。この子たちを家庭も学校も大切に育成してほしいものである。
勉強も大事だがやはり笑顔になれる子どもがもっと大事だと思う。そんなことを教えてもらった今日、ほんの一瞬であった女子高校生だった。
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