鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

雨の日で自宅におれる日である。

2006-06-15 08:26:53 | 直言!
この2・3年前は市内の商店街や人の空気すいたくて仕事がなくても行きつけの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を読むのが私の至福の時間だった。
それが外出をする支度に約40分そしてバスにのること15分前後、そして家に戻ると家事以外に面倒なものがある。
私はド近眼です。外出するときコンタクトを入れている。
1昨年買い換えたコンタクトレンズだが「曇り染め」をするのに前と違って「曇り染め」の薬をつけて2時間後、水洗いしてまた汚れほを落とす薬をつけてこすり洗いしてまたこれを水洗いを丁寧にする。時間にするとこの水洗いは20分ほどだがこれが面倒な作業である。
まわりは年もとってきたしもう眼鏡でいいという。夫もそういう。
しかし近眼がきついので眼鏡をかけると遠近感がとれず危険だという。
外を出歩くのには危険ということで眼科医のコンタクトレンズ装着を守っている。
コンタクトレンズをいれないと化粧もできないので私はその方が楽だが外出から帰宅したあとが面倒である。
この面倒な作業に女友達も「使い捨て」のコンタクトレンズを使えばといってくれるが、私のド近眼にはこの使い捨てがないのである。
そんなにない度数で大量生産ができないのだろう。
もしそんなのがあれば私もほしいとおもっている。すぐに飛びつきたい。
眼科医に聞くと「ありません」とケンモホロロである。
たぶん「そんなドの強い近眼では作れません」といわれているようで私の頭をガツンとこずかれたようなショックを受ける。
パソコンを打つときは近眼の眼鏡をかける。
コンタクトを入れて老眼をかけての作業に疲れる。
コンタクトに老眼をかける私のこっけいな姿にかつての若い同僚たちは「お化けみたいな目」とからかわれたことを思い出すが、なぜか彼に言われて内心よろこんでいた。
ものすごい男前のイケメンだった。
今で言う韓流スターなみである。
今何をしているのだろうか。
2年ほどまえに近鉄難波駅のエスカレーターで私は上りのエスカレーター、彼はくだりのエスカレーターだった。
下りながら私に手をふって笑っている男性がいた。
すごい男前の彼に私にあんなハンサムな人が手をふるわけではないと無視をしていたら彼は何度も手をふって首をかしげていた。
紺色の背広をきていてまたよりいっそうのイケメンに見えた。
通り過ぎてからかつてのハンサムな同僚だったと気がついた。
同僚時代はの彼はまだ20歳になったばかりの青年だった。
その後、韓国の国際教育振興院に語学留学を兄弟で留学した。
ハンサムだけどボヤッとしていない。
論議もできる青年だった。これが命取りになった。
韓国の大学入学の面接で面接官に質問をしてここで不評をかった。
そして彼は不合格で弟は合格して韓国で大学生活を送った。
日本に戻ってきてどうしているのかわからない。
最近、弟さん会った。聞くと仕事をちんとして元気にしていると言った。
だれもがこのイケメンに好意をもった。
当時、独身だった女性は今でもあう某女性はいう。
「私より年下だったけれど彼なら結婚してもいいぐらい男前やった。けど私にはふりむいてくれへんかった」と話す。
彼の男前は同僚のいじめにもなっていた。
彼が取材に出かけると彼の評判がよかった。気分よく現場から帰ってくる。
そしてこんどは違う記者が入るとイケメンの悪口をさんざん言ってくる。
それがいつしか私の耳にもはいってくる。彼にも入っていった。
彼のことを別にして悪口を行った男性にに何度も何度も怒った。それで私もこの男性のいじめにあってかつての在日韓国人経営の新聞社をやめることになった。
私の退職で私が悪いとまわりから一方的に思われたのが1・2年続いた。中には理解していた人もいたので現在の仕事につながっている。しかし世間はだんだんと分かってきて悪口を言った人も私を退職させた人も会社をさらなければならなかった。
次のところに就職してもかつての同僚のように彼らたちを野放しにしなかった。見る人は見ていた。みんなやめてちりぢりになっていた。
私は悪口を言った人に怒っていたのは「同僚の悪口はけっして外でいうものではない。フオローすることはあっても外でいってはいけない」と言って怒った。
この訓練が何人かの男性にできていなかった。
世間の男性はいろんなことに我慢して仕事をしている。そのはけ口が親しい人との居酒屋でのうっぷん晴らしである。
けっしてもれるようなことはしない。防護策をはってうっぷんを晴らしている。
この訓練ができていない何人の男性に私も苦労した。精神的に辛くて辛くて元いた古巣の本社に戻ろうと何度も思った。
しかし何をそうさせなかったのか。
民族のほころびを自分が1番よく知っていた。
(日本のふりをして日本の記事をかきたくない)このことが私の心の片隅にこびりついて、何が何でもここで我慢をしなければと思った。5年間いた。
5年間の仕事、実績はまわりは見ていたのか現在の職場に転職した。
転職の裏ではいろんな方の見えない尽力があったということはいうまでもない。
イケメンの青年もまだうら若き青年だった。傷心は韓国に求めて語学留学をした。
彼はまた韓国で傷ついて日本に戻ってきただろうが1つ、素晴らしい財産をもって帰ってきた。語学留学は韓国語を話せる武器をもって帰ってきただろう。
もう1度会いたい青年である。実家の電話番号があるが男だったら電話できるが女性である。いくら年をとっても女性である。やはり電話はできない。
1980年の後半、バブルだった日本、さまざまのことを見聞してきた。
変わらないのは私だけなのかな。
ただたんたんと仕事をしている。
かわったといえば体重がむちゃくちゃに増えて減量ができない。
そしてパソコンができるようになったこと。当時はパソコンはできないと逃げていたのに必要に迫られるとできるようになった。
あんなバイタリテイーがあったのにそのエネルギーも半減している。
繁華街にでかけていく気力もだんだんなえてきた。
この気力をなくしてはいけないと思いながらもコンタクトレンズの手入れが面倒でつい出かけることをしり込みをしている。
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