中国北京でのジョイント交流コンサートは7月、あと1ヶ月ほどだった。子どもたち、子どもたちの保護者らと一緒にスタジオで打ち合わせをしたりした。
会合が終わると誰が言い出したのか、矢田寺のあじさいを見に行こうとなった。
みんな保護者の車などで便乗して矢田寺に向かった。
入り口の石段の前にきた。ここからは九十九折の石段である。
私はまだ40歳だった。若かった。ヒールを履いていたのにこの石段を登っていた。石段を登ってずっと奥まで行き若草山の見える所についた。
アジサイの花がいっぱいに咲き誇っていた。
水色、薄紫という大ぶりのアジサイが咲き誇っていた。
子どもたちも保護者も大和郡山市のアジサイの寺、矢田寺から奈良市の若草山が見えることに感動していた。子どもたちの喜ぶ様子にカメラのレンズを向けているのはその報道デスクだった。
少なくとも器量の悪い私にはレンズを向けなかった。
そして主宰者にもレンズを向けていた。
何を思って向けていたのだろうか。
そうして撮影した写真を主催者に渡していた。
そして奈良市写真美術館で何かの写真展の案内がくると仕事のないときは見学にいくと報道デスクの写真が何点か出品されていた。
その1点は必ず合唱団の活動だった。
それほど合唱団に気持ちをいれこんでいた。
たそがれ時の矢田寺、アジサイの満開とそこから見た若草山は私にもいい思い出になった。1ヵ月後北京に向かった。
日本に戻ってきてからは私は合唱団の活動から離れていった。
私になんらかで影響を与えたが私は主催者の彼女とは見解の相違もあった。
それでも憎めない人だった。
ただ彼女の行動についていけなかつた。
私も雑誌記者から在日韓国人経営の新聞社に転職移っていたので私主催者との関係も距離が遠くなった。
奈良県での活動は新聞紙上で知ることになった。
それでも奈良県の活動は活気付いていた。
アジサイまの咲く矢田寺、これから未来が開く希望に満ちた主催者と報道デスクの心意気だっただろう。
私は冷めた目で見ていた。すでに意見の違うところが隙間から見えてきて複雑な気持ちだった。そんな気持ちで矢田寺にいったもののアジサイがいっぱいに咲き誇りそこから見た若草山の景色は忘れることはできない。
そうして何年かたって報道デスクは亡くなってしまった。
報道デスクがが亡くなった後、主催者が勤務する事務所に立ち寄った。
職員が「あれが彼が亡くなる前にここに贈ってくださったものです」と掲げていた写真に指をさした。薬師寺の写真だった。
どういう思いでなくなる前にこの写真を寄贈したのだろうか。
よほど薬師寺の塔の構図が好きだったのだろうか。
雨の季節、梅雨の季節になると北京に行く1ヶ月まえに矢田寺に行った1986年の6月をふと思い出す。
写真に生涯をかけたつもりが意に反して写真からはずされて嫌というほど左遷された気持ちを味わった。そのあとは企業の権力社会構造にのみ込まれていった。
屈辱の体験がさらに野望にかきたれて上のポストに這い上がった。でも命を縮めた。寿命といえばそれまでだが私は報道デスクのままでいたならきっともっと長生きしていたと思っている。もっとは気楽に趣味で写真をとる生活をしていただろう。
あるていど年齢を重ねて今頃は優しい気持ちになってだれにも公平に話していただろう。男前だけでは飯は食えないと認識もしたことだろう。誰にでも謙虚に対応できる人になっていただろう。
こんなことを思うとほんまに憎たらしい人で思い出したくもない人だがアジサイの季節に矢田寺に行った記憶がよみがえってきた。
それまで何度も仕事で矢田寺に言っているのになぜかこの光景が頭のフイルムとしてインプットされている。
会合が終わると誰が言い出したのか、矢田寺のあじさいを見に行こうとなった。
みんな保護者の車などで便乗して矢田寺に向かった。
入り口の石段の前にきた。ここからは九十九折の石段である。
私はまだ40歳だった。若かった。ヒールを履いていたのにこの石段を登っていた。石段を登ってずっと奥まで行き若草山の見える所についた。
アジサイの花がいっぱいに咲き誇っていた。
水色、薄紫という大ぶりのアジサイが咲き誇っていた。
子どもたちも保護者も大和郡山市のアジサイの寺、矢田寺から奈良市の若草山が見えることに感動していた。子どもたちの喜ぶ様子にカメラのレンズを向けているのはその報道デスクだった。
少なくとも器量の悪い私にはレンズを向けなかった。
そして主宰者にもレンズを向けていた。
何を思って向けていたのだろうか。
そうして撮影した写真を主催者に渡していた。
そして奈良市写真美術館で何かの写真展の案内がくると仕事のないときは見学にいくと報道デスクの写真が何点か出品されていた。
その1点は必ず合唱団の活動だった。
それほど合唱団に気持ちをいれこんでいた。
たそがれ時の矢田寺、アジサイの満開とそこから見た若草山は私にもいい思い出になった。1ヵ月後北京に向かった。
日本に戻ってきてからは私は合唱団の活動から離れていった。
私になんらかで影響を与えたが私は主催者の彼女とは見解の相違もあった。
それでも憎めない人だった。
ただ彼女の行動についていけなかつた。
私も雑誌記者から在日韓国人経営の新聞社に転職移っていたので私主催者との関係も距離が遠くなった。
奈良県での活動は新聞紙上で知ることになった。
それでも奈良県の活動は活気付いていた。
アジサイまの咲く矢田寺、これから未来が開く希望に満ちた主催者と報道デスクの心意気だっただろう。
私は冷めた目で見ていた。すでに意見の違うところが隙間から見えてきて複雑な気持ちだった。そんな気持ちで矢田寺にいったもののアジサイがいっぱいに咲き誇りそこから見た若草山の景色は忘れることはできない。
そうして何年かたって報道デスクは亡くなってしまった。
報道デスクがが亡くなった後、主催者が勤務する事務所に立ち寄った。
職員が「あれが彼が亡くなる前にここに贈ってくださったものです」と掲げていた写真に指をさした。薬師寺の写真だった。
どういう思いでなくなる前にこの写真を寄贈したのだろうか。
よほど薬師寺の塔の構図が好きだったのだろうか。
雨の季節、梅雨の季節になると北京に行く1ヶ月まえに矢田寺に行った1986年の6月をふと思い出す。
写真に生涯をかけたつもりが意に反して写真からはずされて嫌というほど左遷された気持ちを味わった。そのあとは企業の権力社会構造にのみ込まれていった。
屈辱の体験がさらに野望にかきたれて上のポストに這い上がった。でも命を縮めた。寿命といえばそれまでだが私は報道デスクのままでいたならきっともっと長生きしていたと思っている。もっとは気楽に趣味で写真をとる生活をしていただろう。
あるていど年齢を重ねて今頃は優しい気持ちになってだれにも公平に話していただろう。男前だけでは飯は食えないと認識もしたことだろう。誰にでも謙虚に対応できる人になっていただろう。
こんなことを思うとほんまに憎たらしい人で思い出したくもない人だがアジサイの季節に矢田寺に行った記憶がよみがえってきた。
それまで何度も仕事で矢田寺に言っているのになぜかこの光景が頭のフイルムとしてインプットされている。
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