鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

朝から眼科に行った。

2007-03-20 17:09:52 | 直言!
パソコンを使い方々に出かけて汚れた空気の中で動いていると目も汚れているという。
もう眼鏡に慣れてきたので眼鏡でもいいと言われる。
それもそうだ。コンタクトレンズも高いし手入れも大変だ。ただ旅行にいったときに知らないところでの風呂や温泉には困る。そんなことでコンタクトレンズは必要である。
今、持っているものもまだ使えるがそろそろ3年で買い替えの時期に来ている。
眼科院をでて行きつけの喫茶店で新聞を1紙、急いで読んだ。
12時からJR奈良駅近くのホテルで地方紙の会合がある。
11時15分に喫茶店をでて100円ショップに立ちよって取材ノートを何冊か購入してそれから文具店にまわって名刺の印刷を取りに行った。またバス停に戻ってきてバスに乗った。もう時計は11時40分である。
急いで会場に行った。

そういえば今、相撲は大阪で春場所が行なわれている。
今日の講演の講師は第48代横綱の元大鵬である。
30代の後半、脳梗塞になったものの現在67歳で元気な姿で会場にこられた。
車椅子はお弟子さんが押しておられる。
横綱時代は誰もが知るところである。
当時は「巨人・大鵬・玉子焼き」と言われた時代の強者だった。
今は当時の面影があるがいい家族に恵まれて幸せに暮らしておられる様子が伺える。
講演内容の中で私はもっと聞きたいと思ったところは日本が戦争に負けて樺太から日本に帰る時の苦労話を少しされた。
4艘の船にのって稚内に帰国するが3艘の船は沈んでしまったと言う。
1艘のその船に乗って助かって今日の自分があると言う。
そして自分はロシア人との間に生まれた子どもで母親は実家があるのは積丹だったがロシア人との間に生まれた子どもをつれて実家に帰れず再婚した人たちと北海道を転々とした。
食べ物が食べられるから相撲取りになった。
そしてライバルの柏戸と築いた時代を話した。
そして相撲は何よりも稽古である。体で覚えていくことから稽古であると話した。「努力」である。人生「努力」であるということを説いた。
樺太から稚内に戻ってきたのは小学1年だった。当時のことは全部覚えている。みんな覚えているという。こうした歴史、生きた歴史学習をもっと有効に活用しなければならないと思った。
講演を聞きながら取り残された樺太で捨てられた朝鮮半島出身者のことも少しは覚えているかもしれない。と、ふと思った。

懇親会でも和やかに参加者と談話が行なわれていた。
私はこの地方紙の役員たちはかつて同僚だったがみんな先輩である。
ここでは先輩のことも考えて静かにひっそりと参加している。後部の方で参加者の知人と談話をしていた。

そしてもう1つ、今子育てをしている親に聞いてもらいたい。
大鵬さん、今は納谷幸喜さんというが講演の中で「マナーは日常の生活から育まれるものである。つまりそれは家庭教育である。現在、働く女性が増えているが子どもを小さいときに保育所に預けて働く人が多くなった。しかし保育園はあくまでも他人に預かってもらっている。子育ては親がするものである・親が子育てを通して生活の中で教えていくものである」と結んだ。
働いているキャリアウーマンの女性からお叱りを受けそうだが私もそう思う。私は子育てをしていたので専業主婦15年した。安い食材で何品も惣菜を作る体験はこのときに覚えたものである。
私は仕事を持っている。特殊な仕事なので仕事師かもしれないが仕事を離れると普通の主婦であることも頭においている。
夫がいたからこの仕事を長く続けることができた。
夫の収入があるからフリライターの身分でもなんとか続けることができたと考えている。そして私、自分を大事にしたいので自分の生活範囲で自分なりの活動も続けている。
主婦という生活は子育てもそうだが家族の健康のためにもっとも大事な部分である。亡くなった私の父親は弟が子育てするときに常々言い聞かせていたことがあった。
それは「義務教育の間は政治論より『しつけ』が1番大事である」として「しつけ」をやかましく言っていた。
そんなことを女の子の私にはよそに嫁がせた娘と思ってそこまでいわなかったのか、それとも私は子育てに専念していたからいわなかったのか。ただ思い当たることはいっぱいある。子どもの頃、食卓で一緒に食事をしていても厳しい父親だった。楽しい家族団らんではなかった。子どもの頃はこんな父親が嫌いで嫌いでしょうがなかった。しかし自分が老いてきて父親が女の子にもしつけが厳しかったことが理解できるようになった。政治論も子どもの前ではしなかった。
親戚がきたらしていたが家族団らんではよほどのないかぎり言わなかった。
韓国も北朝鮮も指導者の政策のあり方は子どもの前でいっさいふれなかった。
地域で生きてく社会のあり方は教えたが政治論は一切しなかった。
子どもが成長してようやく政治の話しを説いたのは弟だけだった。
その弟も弟が大学に行ってからだった。
軍需工場で父親は働いていたが優秀な旋盤工だったことからその体験は誰も知らない軍事に関する話を弟にした。
そして弟には「大学生になったからこの日本で生きていくのに何が大事かということは自分で考えればいい」と言った。
女の子の私にはそんなことはいっさい話さなかった。ただ結婚して円満な家庭生活を作れる主婦になることだった。
嫌いだった父親の影響が強いのか仕事をしていても家に帰ると「主婦」であると思っている。いまさらながら親たちの世代の子育てに思いをはせる。

しかし私の親は子どもというのは思うとおりに育たないと-------。
お転婆で出来が悪くて親の思うとおりに育たなかった私がこうして元気に暮している。成績優秀でしとやかで控えめだった妹は親のお気に入りだった。ただ虚弱体質で生まれた。ずっと不幸で不憫な子どもだった。その子が母親より先に逝ったことはもっと不幸なことだった。お転婆で親に心配ばかりかけた私がささやかだが子育てを終えて夫との2人暮らしをしている。明日は彼岸の中日、春分の日である。
明日は私の親の墓参りにいこう。夫が墓参りに行こうと言った。夫も私の親に心もとないことも多々あったが反面教えてもらうこともあった。
口には出さないが夫もそんなことを思うのだろう。

さて今日の懇親会、早くもバイキングに「そうめん」が出ていた。春がそこまできていることを感じた。「三輪そうめん」は春の味がしていた。
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