鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

6月5日、金曜日、雨が降っている。

2009-06-05 09:26:26 | 直言!
今日は奈良市内での仕事である。
取材ではないが今後のことを考えてご挨拶で訪問することになった。
それが外は雨が降っているが奈良市内なのでそう苦にならない。
朝からリビングに鎮座している瓶に入った葱の新芽を写真に撮った。
「我が家の癒し系」として写真に撮って簡単に文書にして「ぽけっとジャーナル」にセットアップして画面に乗せた。
たいしたことではないが1人でも野菜の切り残しを再利用してほしいと思って画面に乗せた。
私も落合恵子さんのエッセイからの受け売りである。
やってみるとまたこれが面白い。
家のリビングに緑の葉が鎮座している。これで心が癒される。
そんなことをしていると時計はもう8時過ぎた。
ブログを書いて外出の支度をしないといけないが昨日は早朝に起きたので今日は眠たい。
それに夫が家にいると仕事に行っていても帰ってくると食べることに追われている。あっという間に夜になっている。
それからブログを書いて終わると8時半過ぎていた。

話は変わるが今朝の新聞の朝刊にすごい見出しが出ていた。
平壌の指導者の長男が中国に亡命か----という見出し。
北朝鮮ではどうなっているのか分からない国である。
側近にも影響がでているというニユースが出ていた。
刻々と迫る北朝鮮の体制変化、素人の私にはどうなるのか分からない。
こうなると私ははたと考えてしまう。
南北分断国家という韓半島、いつになれば本当の平和が訪れるのだろうかと。
南北分断にした当時の指導者、謝った判断が今も尾が引いている。
日本にも責任がある。
対岸の火事騒ぎではない。
そのときの指導者の孫が今、日本の政権を取っている。
因果な巡り合わせである。何があるのだろうかと考えさせられる。

さきほど画面のセットアップをしながら会報を読んでいた。
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」から送られてくる会報には脱北者の証言が掲載されていた。読んでいるとまた空しくそして腹ただしくなってくる。
当時の関係者は北朝鮮の国内事情を知っていたのにどうして帰国事業を推進したのか。この意味が理解できない。
帰国事業が始まった時点から民団(韓国系民族団体)は帰国事業を「北送」と言って反対していた。やはり「北送」だった。在日コリアンの1部を北朝鮮に送った。幸せになった人はほんの一握りだろう。
生野区のある取材現場で聞いた。
北朝鮮に帰国した人がこの近所に住んでいたという話をしてくれた人がいた。
生野区は北朝鮮に帰るか。留まるか。揺れに揺れた。
しかし民団は帰国事業の真実を伝えてきたので全部が全部、帰国しなくてすんだ。関係者は大変罪なことをしていると近日の新聞ニュースにまたそう思う。

生活保護受給者からまず北朝鮮に帰国させていた事実に私の父親は母親や兄弟たちに何度も何度も言い聞かせていた。
「絶対に生活保護をもらってはいけない。子どもの学費もきちんと支払うこと」と言い聞かせ「働かないといけない」と何度も言っていた。
母親は無学だったので生活保護のことも意味が分からない。
父親は母親に何度も何度も言い聞かせていたことをまた思い出していた。
あのころ、皆、貧しかったが一生懸命に働いていた。
私が小学校に入って1・2年程度父親は失業中だった。
東北に煙草の葉を買い付けては家に持って帰り家で煙草を巻いた。闇煙草だった。母親は木津川にかかる泉大橋で警察が向こうから来るのに気が付いてとっさの判断で商いの煙草を包んでいた風呂敷包みを木津川に投げ捨てて警察から逃れたという。
これから闇煙草の商いをやめて父親は母親に廃品回収業の商いをするようにと言った。一時、父親も少し一緒にしていたが丈夫ではない父親はすぐに体調を崩した。母親1人でリヤカーを押して廃品回収業をして家計を支えた。
父親はようやく日本の会社に就職が決まって朝は1番列車で通勤して夜は最終列車まで働いてきた。
父親は日本が戦争に負けて軍儒工場が閉鎖されて働き口がなくなった。
優秀な旋盤技術者だった父親は朝鮮人と言うことで採用からふるい落とされた。
採用が取り消しになって縁側でがっくりして寝転んでいた父親の姿を今も思い出す。私が小学校2年だったのか3年になったときか記憶はさだかでない。やっと中小企業の会社に就職できた。定年まで1度、会社は変わっているがプリント柄のデザイン画とプリント柄の染めの基本、ロール彫刻師の技術職を通して定年退職まで同じ技術職で京都の日本の会社で働き生涯を通した。厚生年金受給に最も驚いたのは父親の弟たちだった。
日本の元号、大正生まれの父親が日本での厚生年金受給に驚いていた。
ひたすら真面目に働いた父親の汗の結晶である。
このことを父親の弟たちもサラリーマンも悪くないと悟ったかもしれないと私なりの考えである。
父親の弟の1人は日本の会社員で定年まで勤めた。最後の役職は課長だったので退職金もたくさんもらって今は厚生年金受給者で静かに余生を送っている。
もう1人の父親の弟は自営業を営みそれなりに資産を作った。
後の2人の男兄弟は父親より早くに亡くなってしまった。
2人の叔母は亡くなった。2人はまだ生存しているが祖母が亡くなってからはもう往来が少なくなったので私のところでは何もわからない。
1世の親に生きて2世、ほとんど1世に近い民族気質だった。
私の2世とはまた違った。
叔母たちは日本で生まれているのに韓国語も流暢にできた。祖母がけっして日本語を話さなかったので子どもたちは韓国語で親と話していた。
日本語も訛りがなく流暢だった。
私は戦争の終わる1年前に生まれている。
日本が戦争に負けてからアメリカ的教育の中で育ち朝鮮人蔑視の1番強い時に育った。祖母が韓国語で話すのに私は全部日本語で受け答えしていた。
このとき韓国語で対応していれば今は韓国語がもっと多く話せたのにと思っている。

朝鮮人蔑視の1番強い1950年半ばから北朝鮮の帰国運動が始まった。
仕事もない。働くことができない朝鮮人、生活保護受給者が北朝鮮帰国事業の始めの対象になった。もちろん建国に燃えて帰国した青年もいる。
しかし嘘の宣伝をした関係者の罪は大きい。
今朝の新聞、北朝鮮内部関係者の記事にまたこんなことを思っていた。

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