2時半に起きたがまだ眠たい。ウトウトとしていると携帯の電話がなった。
仕事の電話、少し会話をして電話を切ると3時、電話をしながらバソコンを開いた。画面が開いていた。
受信メールの返信をしていると4時半、このままブログの原稿を書くとよかったが木曜日の連載原稿が気になってまたそちらの原稿、途中まで作成しているのを開いた。なんとか目処がついたところで途中だがおいてブログの原稿を書いている。
早い。7月27日も暮れていく。
これから夕食の支度をしないといけない。
明日は膝治療で病院行だが明後日はまた堺市まで行かないといけない。
まあ、神戸よりはましである。
天気予報は今夜、近畿地方にも大雨が降ると言っている。
夕べの雨も大降りだったが今夜の雨は果たして------。
今日は大阪地裁の陳述の取材メモを仕上げてこれでほっとした。
裁判の取材、傍聴席でただ耳を傾けてメモを取っているだけである。写真撮影はもちろん禁止。撮影が必要として許可が下りて撮影が許されるのは裁判の始まる前の5分間。これも裁判所の記者クラブに入っているものしか撮影ができない。
私は大阪・京都地裁の傍聴席に参加したのは日本の戦前、戦争に駆りだされて障害者になった在日韓国人1世の戦後補償問題の裁判、在日コリアンの高齢者の無年金訴訟裁判、そして今回初めて傍聴したのが「朝鮮総連裁判」で帰国運動問題について脱北してきた大阪府在住の49歳の女性の裁判である。
中国に脱出して北京の日本大使館に逃げ込んで保護されて日本に戻ってこられた。3歳のときに親と一緒に北朝鮮に渡ってそして壮絶な人生を生きてこられた。脱北に心を動かされたのが北朝鮮の大学教師のときに餓死者の死体処理を35日間したことでこれは人間が生きていく社会ではない。
このことを北朝鮮以外の人にぜひ知らせなければならない。
そして脱北、1回目はつかまった。60日間の拷問を受けた。農村に追放されて2回目の脱北、娘さんを連れて脱北、もちろん北朝鮮に家族が暮らしている。
それでも裁判をして訴訟した。
帰国した9万3千人、ほとんどが騙されたという。帰国者のほとんどが無念の思いでなくなった。9万3千人の無念を晴らすために裁判訴訟をした。
初めて傍聴席に参加した。このときすでに7回目の裁判だった。
外は梅雨、大雨、
筆者は脱北した女性のひたむきさに大雨の降る様子に思った。
裁判所をでるとき「雨が降って地固まる」と独り言を言っていた。
私は報告集会で1人1人コメントするときに父親の言葉を伝えた。
1960年代の後半、私は結婚していて実家にいなかったがまだ3歳下の妹がいたが当時、活発だった朝鮮総連の活動者が実家に来て妹に『ウリマル(自国の言葉)を勉強するから娘さんを勉強するところに来て下さいといったのですが父親はその人たちに『お前ら、何がウリマルの勉強や、爆弾作る勉強しているところに娘はだせん』と言って玄関の戸をぴしゃりと閉めました。そしてもう1つは1975年前後、京都府の峰山に夫の妹のだんなの出身地です。家族で峰山に泳ぎにいくと3回泳ぎに行って3回とも言われました。『日本海に泳ぎにいったらあかん。拉致される』といいました。そのときは嘘やというと父親は『北朝鮮に拉致されると言ったのです』。長い間、嘘と思っていましたが拉致被害者の帰国で父親の言ったことは本当だとわかりました。北朝鮮そしてそれに関与した人の酷さを改めて認識していますと話した。
父親はこの情報はどこで入れていたのかいっさい子どもたちに話さなかった。
しかし子どもたちにたえず注意をしていた。
総連の活動する親戚には挨拶はしても何も話すなと。
そして当時まだ祖母が生きていた。もう80歳半ばだったがハングルの新聞を読んでいたので韓国の政情をよく知っていたのだろうか。
従姉妹が結婚した私の家に遊びに来た時にすぐに祖母が実家にやって来た。
そして私を呼んで注意をした。その従姉妹は総連で活動していたので何をしていたのか知っていたのだろう。高齢のハルモニなのに知っていた。
そして私に言った。
「○○がこれから家に遊びにきても何も話したらあかん」と韓国語で言っていたことがまた記憶に甦ってきた。
父親はいろんな角度から南北分断のニユースを知っていた。子どもには話せる内容で注意をしてくれた。女の子は嫌いといつも言っていた父親だったが、やはり女の子でもわが子なりに心配してくれたと今は思っている。
やはり何かがおかしかったと思っている。
仕事の電話、少し会話をして電話を切ると3時、電話をしながらバソコンを開いた。画面が開いていた。
受信メールの返信をしていると4時半、このままブログの原稿を書くとよかったが木曜日の連載原稿が気になってまたそちらの原稿、途中まで作成しているのを開いた。なんとか目処がついたところで途中だがおいてブログの原稿を書いている。
早い。7月27日も暮れていく。
これから夕食の支度をしないといけない。
明日は膝治療で病院行だが明後日はまた堺市まで行かないといけない。
まあ、神戸よりはましである。
天気予報は今夜、近畿地方にも大雨が降ると言っている。
夕べの雨も大降りだったが今夜の雨は果たして------。
今日は大阪地裁の陳述の取材メモを仕上げてこれでほっとした。
裁判の取材、傍聴席でただ耳を傾けてメモを取っているだけである。写真撮影はもちろん禁止。撮影が必要として許可が下りて撮影が許されるのは裁判の始まる前の5分間。これも裁判所の記者クラブに入っているものしか撮影ができない。
私は大阪・京都地裁の傍聴席に参加したのは日本の戦前、戦争に駆りだされて障害者になった在日韓国人1世の戦後補償問題の裁判、在日コリアンの高齢者の無年金訴訟裁判、そして今回初めて傍聴したのが「朝鮮総連裁判」で帰国運動問題について脱北してきた大阪府在住の49歳の女性の裁判である。
中国に脱出して北京の日本大使館に逃げ込んで保護されて日本に戻ってこられた。3歳のときに親と一緒に北朝鮮に渡ってそして壮絶な人生を生きてこられた。脱北に心を動かされたのが北朝鮮の大学教師のときに餓死者の死体処理を35日間したことでこれは人間が生きていく社会ではない。
このことを北朝鮮以外の人にぜひ知らせなければならない。
そして脱北、1回目はつかまった。60日間の拷問を受けた。農村に追放されて2回目の脱北、娘さんを連れて脱北、もちろん北朝鮮に家族が暮らしている。
それでも裁判をして訴訟した。
帰国した9万3千人、ほとんどが騙されたという。帰国者のほとんどが無念の思いでなくなった。9万3千人の無念を晴らすために裁判訴訟をした。
初めて傍聴席に参加した。このときすでに7回目の裁判だった。
外は梅雨、大雨、
筆者は脱北した女性のひたむきさに大雨の降る様子に思った。
裁判所をでるとき「雨が降って地固まる」と独り言を言っていた。
私は報告集会で1人1人コメントするときに父親の言葉を伝えた。
1960年代の後半、私は結婚していて実家にいなかったがまだ3歳下の妹がいたが当時、活発だった朝鮮総連の活動者が実家に来て妹に『ウリマル(自国の言葉)を勉強するから娘さんを勉強するところに来て下さいといったのですが父親はその人たちに『お前ら、何がウリマルの勉強や、爆弾作る勉強しているところに娘はだせん』と言って玄関の戸をぴしゃりと閉めました。そしてもう1つは1975年前後、京都府の峰山に夫の妹のだんなの出身地です。家族で峰山に泳ぎにいくと3回泳ぎに行って3回とも言われました。『日本海に泳ぎにいったらあかん。拉致される』といいました。そのときは嘘やというと父親は『北朝鮮に拉致されると言ったのです』。長い間、嘘と思っていましたが拉致被害者の帰国で父親の言ったことは本当だとわかりました。北朝鮮そしてそれに関与した人の酷さを改めて認識していますと話した。
父親はこの情報はどこで入れていたのかいっさい子どもたちに話さなかった。
しかし子どもたちにたえず注意をしていた。
総連の活動する親戚には挨拶はしても何も話すなと。
そして当時まだ祖母が生きていた。もう80歳半ばだったがハングルの新聞を読んでいたので韓国の政情をよく知っていたのだろうか。
従姉妹が結婚した私の家に遊びに来た時にすぐに祖母が実家にやって来た。
そして私を呼んで注意をした。その従姉妹は総連で活動していたので何をしていたのか知っていたのだろう。高齢のハルモニなのに知っていた。
そして私に言った。
「○○がこれから家に遊びにきても何も話したらあかん」と韓国語で言っていたことがまた記憶に甦ってきた。
父親はいろんな角度から南北分断のニユースを知っていた。子どもには話せる内容で注意をしてくれた。女の子は嫌いといつも言っていた父親だったが、やはり女の子でもわが子なりに心配してくれたと今は思っている。
やはり何かがおかしかったと思っている。
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