鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

高円山の麓には霧がかかっていて山だけが顔をだしている。

2006-12-14 11:19:25 | 直言!
なんやかんやと普段言われない愚痴をグチグチと書いていると長くなってしまった。日本におられるときはこの人にグチグチを言って聞いてもらっていた。私の愚痴を聞いてくれていたので同胞社会で仕事を続けることができた。
日本社会でずっと生きてきたが在日同胞は親戚しかししかしらなかった。

在日韓国人経営の日刊紙に勤務した。大阪や京都、奈良の同胞の中で仕事をしていると日本の雑誌記者時代もそうだったが、また違う意味の苦労があった。
なんども「在日」をやめたい。仕事もやめたい。日本人に「帰化」することも考えた。そのたびに「仕事はやめたら駄目だ」といつも私に言い聞かせてくれたのが韓国からこられた韓国政府派教師だった。
日刊紙時代、他からの誘いもあったが日刊紙で続けるようにと私にいつも言い聞かせた。
そして日刊紙を解雇されたとき、もう韓国に帰国しておられたが韓国からでも影になり私を助けて下さった。
親戚のような付き合いになった。
私が雑誌記者時代、奈良で日本婦人の韓国人差別をいち早く察知された。韓国から奈良に赴任して間もないころだったが教師の立場から日本婦人の私に対する韓国人差別を察知された。ペングループの中味は私が言わないのに知っておられた。
奈良市と慶州市は姉妹締結をしていて慶州市の女性からきた手紙は民団に翻訳してもらっていた。そして奈良韓国教育院にも行っていた。ここの教師が赴任してまもない韓国政府派遣教師だった。日刊紙に入れてくれた教師である。ここのところに私は韓国語を習いに行きだした。息子が沖縄の大学に行った年の4月だった。
教師だから人の心を見るのが早かった。
この教師は奈良県で在日韓国人の雑誌記者、能力があっても潰れると察知された。そしてある日、大和郡山市に日刊紙の記者が来るから一緒に行こうということで私を連れていき面接させた。これが縁で在日韓国人経営の日刊紙の記者になった。
また違う苦労があった。
なにかあるとこの先生に愚痴を聞いてもらって私は乗り越えることができた。
あれから20年過ぎた。
2度目また大阪に赴任して来られた。今度は私ができるだけ記事を通して協力をした。
しかし愚痴はよく聞いてもらった。
大阪に行くと昼食を一緒にしたりコーヒーを飲んだりしたときによく聞いてもらった。こんなとき教師はいろんな問題で辛い日々を送っておられたのに私にはいっさい話さなかった。
韓国に行ったときにその辛かった日々を話してくれた。
けっして仕事のことは女性の私には言わなかった。

そんなことを思い出してしまった。

雑誌記者時代は奈良県内のホテルや旅館、宿坊を取材していた。奈良市内の地図も大体わかっていた。それが明日、取材現場になる「飛鳥荘」がどこにあるのかわからなくなった。ボケなのか忘れてしまったのか。
電話で聞くと興福寺の五重の塔の下と言う。電話のときは思い出せなかったがンターネットから引っ張り出した地図でようやく分かった。電話かけるまでインターネットの地図を見てもわからなかった。
なんていうこと。猿沢池のほとりなのに分からない。
いかにこの周辺を長いこと歩かなくなったことなのか。
雑誌記者時代はこの道をよく歩いたのに長いこと歩かなかったら町の様子も忘れてしまった。

明日は久しぶりに外出をする。薄曇りの天気、明日は晴れるのだろうか。雨とも言っているが------。
高円山にかかっていた霧はなくなり山の尾根が見えている。
尾根といえば忘れられないところがある。
これも雑誌記者時代だが談山神社に行ったときだった。
春の尾根の連なり、緑、薄黄緑色の連なる尾根の見事な風景に感動した。
42歳の春だった。
雑誌記者時代、勤務していた女子事務職員員のいじめがとうとう来るところまできていた。同僚の1人の女子職員だけが私の味方になっていたが他の人はいじめる女子職員の味方になっていた。
後ろに味方がいると思ったら言ってはいけないことを言った。
私は取材の帰りショートケーキを同僚の分も買って事務所に戻った。
そしたらその事務職員はなかなか食べなかった。私が帰った後、ゴミ箱に捨てた。そして同僚のもう1人の女子職員が私に「韓国人が買ってきたケーキなんて食べられない」と言ったと言う。
ショックだった。他のことなら辛抱できるが国籍差別は私の性格と関係がない。ものすごくショックを受けた。このままではいられない。
そして彼女に怒っているときに上司が外からもどってきて事務所の戸を開けた。
私は彼女に文句を言っていた。彼女は黙っていた。
そしたら私が悪者になっていた。このことは今も忘れることができない。
ちょうど韓国語を習いにいきかけたところで韓国政府派遣教師から雑誌編集の事務所に私あての電話がかかるようになった。まだまだ日本語が不十分だったのだろう。たいていこの性格の悪い事務職員が電話を取っていたのでどんな対応をしたのかすぐ私は分かった。
それで自宅に電話するように言った。
日本人のふりをして日本人の記事をかいていれば何事もなくここで雑誌記者は続けることができただろう。しかし5年もするとある程度の名前がしられてくると日本婦人の見えない在日韓国人差別も感じていた。
ますます「日本人のふりをして日本の記事は書きたくない」という葛藤で私の心は揺れていた。
私が韓国語を習いに行くと同僚たちは無視をする。また仕事をどんどん減らした。彼女だけではない。他の人も絡んでいたことは知っているがここでは公表しない。
いじめはますますエスカレートした。
こんなときに桜井市の談山人神社の尾根を見て私は感動した。そして私の悩んでいることは小いなことなんだ。明日になったらきっといいことがあると思って夢を捨てないで前を向いて生きていこうと思った尾根だった。
雑誌記者をやめるつもりで地方紙の編集局長に相談すると地方紙が受け入れることを約束してくれた。
こんな現状を見ていて教師は私を在日韓国人経営の日刊紙に入れるようにしたのである。
教師は日本の赴任の間はけっして人の悪口を言わなかったが韓国に帰国すると私になんらかの形で問題になった人などのことは決して話さなかった。また会おうとしなかった。その内容はけっして私に話さないがずっと避けてこられた。

また高円山に霧がかかっている。幻想的な景色である。

飛鳥荘と奈良、私の雑誌記者時代のあの日を思い出してしまった。
これからもう1本仕上げる原稿がある。
このへんできりをつけよう。



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