こんなに高い物を買ったので一生使えると思っていた。
そしてパソコンを買って3年過ぎると息子が言い出した。もうそろそろパソコンが寿命なので本体だけ買い替えをするようにと言った。
私はそのたびに「えっ。なんで買い替えなんの。高いお金だしているのにそんな。3年でもう買い替えなんてそんなおかしいやんか」と息子に文句を言っていた。
しまいに息子は「お母さんの年代は壊れないとパソコン買い換える気にならなへんのや」と言ってそれから何も言わなくなった。
そして今年の4月の終わり、とうとうパソコンが動かなくなった。このときもまだ「寿命」と気がつかなかった。
2・3日してやっとパソコンの「寿命」に気がついた。
今回も最初、私の初歩的ミスで壊れたとばかり思っていた。
というのは---------。
12月16日、午前10時に京都の現場に入らないといけなかった。
私は朝食を終えてパソコンの前に座り「本体」も「モニター」も電源を入れていた。デスクトップにアイコンが出るまで現場のプログラムが気になって資料を出して確認をした。
そしてパソコンの前に座るとまだモニターの画面がでていない。
電源を入れたことはすっかり忘れている。忙しくしていると注意散漫になっている。とっさにあっ。まだ電源を入れていなかったのかと思って本体の電源が入っているのにまた電源を押してしまった。
モニターの電源もさわったのかここは記憶していない。
そして画面がしばらくでてこない。
やっと画面がでてきたのは5分ほどしてから。それも青い画面のアイコンが並んでいる画面である。
画面がでたので最初の画面(黒い英語の画面)のことはすっかり忘れてパソコンが開いたので5分ほど座ってパソコンを閉じた。
夕方、自宅に戻ってバソコンをあけると今度もモニター画面がフラッシュすること15分でアイコンの画面になった。黒の画面のことは忘れている。
画面が開いたのでもう壊れていることは考えていなかった。
私の操作ミスとばかり思っていた。
翌日、日曜日も同じ状態だった。
パソコンの相談者、K氏に電話すると私の言っていることもパソコンの対応が分からない。そりゃ。壊れているんだから。電話ではわからない
見るとすぐ壊れていると判断しただろう。そして買い替えを言っただろう。
それがK氏は1週間ほど出張である。
翌日、月曜日、女友達とのコーヒータイムで外出した。その日の朝は画面がでてくるのは30分以上かかったのでこんなしんどい作業はかなん。K氏が出張までもどってくるまで電源をつけたままにしておこうと考えた。
電源をつけたままにしていると落ち着かないがK氏が出張からもどってくるまでの我慢と思った。
そして外出をしょうと支度をしているとパソコンが電源ついたままである。音は小さいがパソコンから発している音が気になった。出かける寸前にマウスで電源をきる作業すればいいのにモニターの電源ボタンを押して切った。このときはこれでまたパソコンが開けられると思った。
そして夕方、自宅に戻って夕食の支度をした後、夫が帰るまでパソコンを開けてみようと思ったらもうパソコンはフラッシュしたままである。
そのままにパソコンをしていた。夕食のしていても開かない。
このとき、モニターの電源の切り方を間違ったからこんなことになった。電源を切らないでそのままにしとけばよかったと後悔した。
寝るときもそのままにして寝たが夜中、起きてみるとパソコンはフラッシュしたままだった。電源を切った。コンセントの電源も切った。
翌日、19日、病院の予約は10時、急いで行ったのでパソコンは開けなかった。午後3時ごろ自宅に戻ってパソコンの故障にパソコンの本体を購入した販売店に電話をした。自宅に来ていただくことになった。それが12月23日の訪問と言う。本体を持ち込みしてもらうとすぐ見ることができるといわれたが線のはずし方など分からないので23日まで待ちますということでやっと今日、訪問して下さった。
長かった。指折り数えて待った。午後2時にこられた。
(もうパソコン全部買いなおしといわれたらどうしょうと心配していた。息子はもう壊れていると言っていた。私の電源ボタンの誤作動で壊れているという)
こられてパソコンを見て1回ぐらい電源ボタンの誤作動では壊れないと言われてモニター画面の故障だと言われた。
そして本体を持って帰られた。販売店まで車で20分ほどのところである。
電話が入ってやはりモニターの故障で本体は故障していないということだった。
そしてモニターの購入になった。2万3千円払って10円のおつりを頂いた。
出張費用も支払った。
が、パソコン画面が明るく起動し始めて使用できるようになった。
これで私の顔はほころんだ。
そしてK氏の善意に改めてまた感謝していた。
今回、K氏の出張でどうすることもできなくてパソコンを購入したところに自分で電話をして対応した。もしK氏が出張していなかったらまた私はK氏の善意に甘えていた。これも私の何かの人生にお返しするための出費だったのだろう。勉強させてもらった。
私はめったに外で大きい声を出して喧嘩しないのに今年は年明けから嫌なことがあった。ある会合の場所でペングループの仲間だった人も一緒になった。
この人の近くにぜったいに座らないようにしているのにたまたまくじ引きで向かい合わせになった。
そしたら案の定、昔の言葉遣いで私に言葉のいじめをした。最初私はそ知らん顔していたが周りのいたペングループと関係のない人まで私に言葉のいじめをした。本人たちはそんなことを気にしないでいっているだろうがペングループの仲間の1人にはさんざんにいじめられたのでこの会に顔を出さなくなった要因の張本人である。彼女1人なら我慢したが周りの2人も調子に乗って私を軽く見て(PTAのOB会、PTAの役員をしていたころの私はまだまだ世間知らずで国籍差別があってもそんなものと思って軽くみられても何も言わず辛抱していた。まだ私をそんな風にみていることに腹が立ってきた)
ペングループの彼女がいなくなっても周りの2人は私に軽口を叩く。私はとうとう大きい声で「いいかげんにしてよ」と言って怒った。
そして今度は11月の初め、韓国料理のレストランで駐在職員に大きい声で怒った。偉い要人がいるのに怒った。とうの8月にすんでいる話をまた私に言ってきた。あんなところでするもまのではないし関西担当の記者、私が記者生活は長い。そしてもう1人の記者はまだ3年、年も私より20歳若い。誰が見ても私の方が役職はなくても上なのである。
この駐在職員は電話をかけてきたときにも私に向って最初の電話のかけてきた言葉遣いも失礼だったが20歳下の記者のことを私に上かということも聞く。失礼である。
それでもまだ私は笑って「そんなことは周りが決めることです」と言った。
これで終わっていると思ったらまた11月の初めに私にまた失礼な無礼な言葉遣いをした。これまで駐在職員は女性の私が年上でと分かるとけっしてぞんざいな言葉遣いをしなかった。まだまだ儒教文化が残っていた。それなのにこの方は違った。
在日韓国人をバカにする韓国・本国人の気性に心底腹が立った。
私は要人もいる前でなんと言う言葉遣いするのですかと怒った。そしてまた嘘ぶいた発言にまた腹が立って怒った。
この日、また同胞の女性記者が私に対して何度もある面と向って言葉の暴力に彼女に初めて意見をして怒った。
こんなことが続いて私は我慢すればよかったのかと反省した。
こんなことをするとコツコツしている私の努力の「運」が飛んでいってしまうと反省していた。
そんなときに怒った今年暮になってからのパソコンの故障だった。
「パソコン」の寿命といいながら、口は災いの素、我慢できることは我慢をしなければならないのに今年は年明けから終わりまで我慢できなくて3度、意見をして怒ってしまった。
こんなことでパソコンも使う人にあわしていくのだろうか。
パソコンも突然、故障したりした今年だった。
こんなことでK氏の善意に甘えてはいけないと思ったのだろうか。K氏の出張のときにパソコンは動かなくなった。
これもK氏がいなくても自分で対応しなさいというお叱りだったのか。
そのK氏から今日、夕方電話が入った。パソコンのことだった。
「パソコンを購入したところから来てもらって動いている」と言った。まさかいくらなんでも出張しているK氏に戻ってきては言えなかった。
またK氏の善意の電話にうれしくなった。そしてその善意にあらためて感謝していた。
そして私の怒り心頭した今年のつけはパソコン故障で支払うことになった。
こんな年がくれていく。
なにわともあれ。仕事が全部、片付けてからパソコンが故障した。
夫は「不幸中の幸い」と慰めてくれた。仕事に理解がないと思っていた夫の言葉にまた驚いた。
そしてパソコンを買って3年過ぎると息子が言い出した。もうそろそろパソコンが寿命なので本体だけ買い替えをするようにと言った。
私はそのたびに「えっ。なんで買い替えなんの。高いお金だしているのにそんな。3年でもう買い替えなんてそんなおかしいやんか」と息子に文句を言っていた。
しまいに息子は「お母さんの年代は壊れないとパソコン買い換える気にならなへんのや」と言ってそれから何も言わなくなった。
そして今年の4月の終わり、とうとうパソコンが動かなくなった。このときもまだ「寿命」と気がつかなかった。
2・3日してやっとパソコンの「寿命」に気がついた。
今回も最初、私の初歩的ミスで壊れたとばかり思っていた。
というのは---------。
12月16日、午前10時に京都の現場に入らないといけなかった。
私は朝食を終えてパソコンの前に座り「本体」も「モニター」も電源を入れていた。デスクトップにアイコンが出るまで現場のプログラムが気になって資料を出して確認をした。
そしてパソコンの前に座るとまだモニターの画面がでていない。
電源を入れたことはすっかり忘れている。忙しくしていると注意散漫になっている。とっさにあっ。まだ電源を入れていなかったのかと思って本体の電源が入っているのにまた電源を押してしまった。
モニターの電源もさわったのかここは記憶していない。
そして画面がしばらくでてこない。
やっと画面がでてきたのは5分ほどしてから。それも青い画面のアイコンが並んでいる画面である。
画面がでたので最初の画面(黒い英語の画面)のことはすっかり忘れてパソコンが開いたので5分ほど座ってパソコンを閉じた。
夕方、自宅に戻ってバソコンをあけると今度もモニター画面がフラッシュすること15分でアイコンの画面になった。黒の画面のことは忘れている。
画面が開いたのでもう壊れていることは考えていなかった。
私の操作ミスとばかり思っていた。
翌日、日曜日も同じ状態だった。
パソコンの相談者、K氏に電話すると私の言っていることもパソコンの対応が分からない。そりゃ。壊れているんだから。電話ではわからない
見るとすぐ壊れていると判断しただろう。そして買い替えを言っただろう。
それがK氏は1週間ほど出張である。
翌日、月曜日、女友達とのコーヒータイムで外出した。その日の朝は画面がでてくるのは30分以上かかったのでこんなしんどい作業はかなん。K氏が出張までもどってくるまで電源をつけたままにしておこうと考えた。
電源をつけたままにしていると落ち着かないがK氏が出張からもどってくるまでの我慢と思った。
そして外出をしょうと支度をしているとパソコンが電源ついたままである。音は小さいがパソコンから発している音が気になった。出かける寸前にマウスで電源をきる作業すればいいのにモニターの電源ボタンを押して切った。このときはこれでまたパソコンが開けられると思った。
そして夕方、自宅に戻って夕食の支度をした後、夫が帰るまでパソコンを開けてみようと思ったらもうパソコンはフラッシュしたままである。
そのままにパソコンをしていた。夕食のしていても開かない。
このとき、モニターの電源の切り方を間違ったからこんなことになった。電源を切らないでそのままにしとけばよかったと後悔した。
寝るときもそのままにして寝たが夜中、起きてみるとパソコンはフラッシュしたままだった。電源を切った。コンセントの電源も切った。
翌日、19日、病院の予約は10時、急いで行ったのでパソコンは開けなかった。午後3時ごろ自宅に戻ってパソコンの故障にパソコンの本体を購入した販売店に電話をした。自宅に来ていただくことになった。それが12月23日の訪問と言う。本体を持ち込みしてもらうとすぐ見ることができるといわれたが線のはずし方など分からないので23日まで待ちますということでやっと今日、訪問して下さった。
長かった。指折り数えて待った。午後2時にこられた。
(もうパソコン全部買いなおしといわれたらどうしょうと心配していた。息子はもう壊れていると言っていた。私の電源ボタンの誤作動で壊れているという)
こられてパソコンを見て1回ぐらい電源ボタンの誤作動では壊れないと言われてモニター画面の故障だと言われた。
そして本体を持って帰られた。販売店まで車で20分ほどのところである。
電話が入ってやはりモニターの故障で本体は故障していないということだった。
そしてモニターの購入になった。2万3千円払って10円のおつりを頂いた。
出張費用も支払った。
が、パソコン画面が明るく起動し始めて使用できるようになった。
これで私の顔はほころんだ。
そしてK氏の善意に改めてまた感謝していた。
今回、K氏の出張でどうすることもできなくてパソコンを購入したところに自分で電話をして対応した。もしK氏が出張していなかったらまた私はK氏の善意に甘えていた。これも私の何かの人生にお返しするための出費だったのだろう。勉強させてもらった。
私はめったに外で大きい声を出して喧嘩しないのに今年は年明けから嫌なことがあった。ある会合の場所でペングループの仲間だった人も一緒になった。
この人の近くにぜったいに座らないようにしているのにたまたまくじ引きで向かい合わせになった。
そしたら案の定、昔の言葉遣いで私に言葉のいじめをした。最初私はそ知らん顔していたが周りのいたペングループと関係のない人まで私に言葉のいじめをした。本人たちはそんなことを気にしないでいっているだろうがペングループの仲間の1人にはさんざんにいじめられたのでこの会に顔を出さなくなった要因の張本人である。彼女1人なら我慢したが周りの2人も調子に乗って私を軽く見て(PTAのOB会、PTAの役員をしていたころの私はまだまだ世間知らずで国籍差別があってもそんなものと思って軽くみられても何も言わず辛抱していた。まだ私をそんな風にみていることに腹が立ってきた)
ペングループの彼女がいなくなっても周りの2人は私に軽口を叩く。私はとうとう大きい声で「いいかげんにしてよ」と言って怒った。
そして今度は11月の初め、韓国料理のレストランで駐在職員に大きい声で怒った。偉い要人がいるのに怒った。とうの8月にすんでいる話をまた私に言ってきた。あんなところでするもまのではないし関西担当の記者、私が記者生活は長い。そしてもう1人の記者はまだ3年、年も私より20歳若い。誰が見ても私の方が役職はなくても上なのである。
この駐在職員は電話をかけてきたときにも私に向って最初の電話のかけてきた言葉遣いも失礼だったが20歳下の記者のことを私に上かということも聞く。失礼である。
それでもまだ私は笑って「そんなことは周りが決めることです」と言った。
これで終わっていると思ったらまた11月の初めに私にまた失礼な無礼な言葉遣いをした。これまで駐在職員は女性の私が年上でと分かるとけっしてぞんざいな言葉遣いをしなかった。まだまだ儒教文化が残っていた。それなのにこの方は違った。
在日韓国人をバカにする韓国・本国人の気性に心底腹が立った。
私は要人もいる前でなんと言う言葉遣いするのですかと怒った。そしてまた嘘ぶいた発言にまた腹が立って怒った。
この日、また同胞の女性記者が私に対して何度もある面と向って言葉の暴力に彼女に初めて意見をして怒った。
こんなことが続いて私は我慢すればよかったのかと反省した。
こんなことをするとコツコツしている私の努力の「運」が飛んでいってしまうと反省していた。
そんなときに怒った今年暮になってからのパソコンの故障だった。
「パソコン」の寿命といいながら、口は災いの素、我慢できることは我慢をしなければならないのに今年は年明けから終わりまで我慢できなくて3度、意見をして怒ってしまった。
こんなことでパソコンも使う人にあわしていくのだろうか。
パソコンも突然、故障したりした今年だった。
こんなことでK氏の善意に甘えてはいけないと思ったのだろうか。K氏の出張のときにパソコンは動かなくなった。
これもK氏がいなくても自分で対応しなさいというお叱りだったのか。
そのK氏から今日、夕方電話が入った。パソコンのことだった。
「パソコンを購入したところから来てもらって動いている」と言った。まさかいくらなんでも出張しているK氏に戻ってきては言えなかった。
またK氏の善意の電話にうれしくなった。そしてその善意にあらためて感謝していた。
そして私の怒り心頭した今年のつけはパソコン故障で支払うことになった。
こんな年がくれていく。
なにわともあれ。仕事が全部、片付けてからパソコンが故障した。
夫は「不幸中の幸い」と慰めてくれた。仕事に理解がないと思っていた夫の言葉にまた驚いた。
鄭女史宅の夕食(おかず)や冷蔵庫の内容が何日も判らない日々が続きました。
ブログ不通の間にEメールに(裏話)をカキコミしときました。
いるんですよ。みんなに、ワープロをしてんのと笑われて
いますが、セキュリティのこととか、もしも、ハードが壊れた
ら・・・と。PCで作った文書は、必ずディスクへ。
怖がりなんです。
そうそう、かわやんにも言ったのですが、「トラックバック」は
ブログ情報の設定で、書き込み禁止なり、許可を要するの
方がいいと思います。
もちろん、今の分も消去できますよ。
最後のかわやんの話されたこと、パソコンの技術に長けているK氏に聞いてみます。