私はパソコンの前に座っている。
夫は国会中継を見たり映画を見たりとチャンネルをまわしている。
私は朝からやっと高麗美術館の案内の原稿を作ってセットアップした。昨日は天理大学の雅楽の案内をした。
チケットが入っているので本来は観賞に行きたいがいつも仕事と主婦で忙しくつい仕事のない時は家で過ごしている。
高麗美術館は1988年10月に開館した。
当時は日刊紙の新聞社にいた。京都が担当だったのでこの取材が上から入ってきた。創設者がどんな人ともしらない。発行しておられた季刊誌のことも何もしらなかった。1987年の9月日刊紙の在日韓国人新聞社の新聞記者になった。
日本の出版社、雑誌記者から転職して1年、まだまだ分からないことばかり、そして同僚の理不尽ないじめにもあい何度も、もとの古巣、地方紙の記者に戻ろうかと思った。
地方紙の関係者たち「辛かったら戻ってくれば受け入れる」という暗黙の了解があったが足が向かなかった。
辛くて苦しくて悲しい時は何度も何度も踵を返して地方紙に戻っていこうかと思った。
しかしいつも脳裏をかすめたのは「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」そして地方紙はいくら受け入れる気持ちを持ってくれていても周りの目が怖かった。「やっぱりでけへんから戻ってきたんや」という特に女性たちの口が怖かった。そして信用をなくすことが1番怖かった。
そんなころに高麗美術館開設に取材で現場に入った。
在日コリアンのことはまだまだ知らないことばかりだった。
現場での皆さん、心の中で「そんな知識で在日韓国人の新聞記者によくなったな」と思っておられただろうに皆、親切に対応して下さった。
知らないことばかりだった。資料を受け取ると何度も何度も読むが分からないことが多かった。
デスクからFAXでもらったインタビューの項目を見て取材をした。
それでも取材をしていてこれは必要と思うことは取材したが時には書いてもらった項目の中で1つや2つ忘れていることもあった。
そのたびに電話取材をしたものだった。
そうして慣れるのに3年はかかった。
4年目に入ると理不尽ないじめに時には意見をして抗議もした。いろんなことがあった。また様々な出会いに様々な事柄や人間関係に私を少しずつだが成長させてもらった。ある程度在日コリアンの現場をデスクに迷惑をかけない程度になるのには10年はかかった。
在日コリアンの中の現場で21年、ある程度現場の中で次の企画記事も探せるようになったがまだまだ先輩から比べると足りない。まだまだ教わることばかりである。
今日、高麗美術館の原稿を作っていて当時43歳の初めのころを思い出していた。当時、高麗美術館の開館は画期的だった。韓日の報道関係者で館内はあふれていた。
創設者の思い、韓国の宝物、日本に散らばっていたものをまた散在したくない思いがあった。2世の子息に残すとまたどこかに散らばりそうな予感をした1世の創設者、そのためには資料館を作った。私財を投じて作った美術館。今もそうかもしれないが館長は日本国籍者でないといけないという。そこで学識者が支援して学識者の名前で美術館の開館にこぎつけたことを思い出していた。
あれから20年、もうそんな年月になったのか。
私の仕事の履歴を見るとなるほどと頷ける。
当時の高麗美術館の事務局長にもよくしてもらった。
今は退職されてどうしておられるのだろうか。
私ががむしゃらに駆け抜けていた40代をまた思い出していた。
がむしゃらの影に多くの編集者や周りの同胞に助けてもらったことか。
がむしゃらだった。一途に仕事に邁進していた。その分、家庭はおざなりだった。夫の食生活は義理で作っていたみたいだった。夫との摩擦もたえなかった。いろんなことがあった。
夫は当時よく言った。「朝も昼も夜も働いて休みもない。俺の給料の3分の1はどういうことや」
そして父親の身内の叔母たちには「いいかげにん仕事しておき。もうキンスバン(韓国で夫の呼び方)のごはんどうしているのや。あんた、まともに作ってへんやろ」とどこかで見ているようなことをしょっちゅう、電話がかかってきて言われた。最後は「まあ好きな仕事しているからしやないけどな」と言って電話を切った。
忙しくても好きな仕事だったがそれでも編集局と何度か意見をしたものだ。
2つのかけもちは日常茶飯事だった。それでも物理的に無理なこともあった。取材が終わると会社に帰って記事を書いた。当時はまだパソコン作業ではない。手書きの原稿をFAXで流していた。写真は日通便にのせて発送していた。
今みたいにまだ宅急便ではなかった。コンビニができて宅急便にすると価格高でできなかった。
さて今日でやっと2つの案内のセットアップが終わった。
夫は今、近所の大型スーパーに出かけた。何かしら衣類を買いたいか言って出かけた。私はこのブログの後「電車の中」をもう1本完成させよう。
それに木曜日連載も作っておかないといけない。
明日はネットの会合がある。
いつもあわただしい毎日である。
夫は国会中継を見たり映画を見たりとチャンネルをまわしている。
私は朝からやっと高麗美術館の案内の原稿を作ってセットアップした。昨日は天理大学の雅楽の案内をした。
チケットが入っているので本来は観賞に行きたいがいつも仕事と主婦で忙しくつい仕事のない時は家で過ごしている。
高麗美術館は1988年10月に開館した。
当時は日刊紙の新聞社にいた。京都が担当だったのでこの取材が上から入ってきた。創設者がどんな人ともしらない。発行しておられた季刊誌のことも何もしらなかった。1987年の9月日刊紙の在日韓国人新聞社の新聞記者になった。
日本の出版社、雑誌記者から転職して1年、まだまだ分からないことばかり、そして同僚の理不尽ないじめにもあい何度も、もとの古巣、地方紙の記者に戻ろうかと思った。
地方紙の関係者たち「辛かったら戻ってくれば受け入れる」という暗黙の了解があったが足が向かなかった。
辛くて苦しくて悲しい時は何度も何度も踵を返して地方紙に戻っていこうかと思った。
しかしいつも脳裏をかすめたのは「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」そして地方紙はいくら受け入れる気持ちを持ってくれていても周りの目が怖かった。「やっぱりでけへんから戻ってきたんや」という特に女性たちの口が怖かった。そして信用をなくすことが1番怖かった。
そんなころに高麗美術館開設に取材で現場に入った。
在日コリアンのことはまだまだ知らないことばかりだった。
現場での皆さん、心の中で「そんな知識で在日韓国人の新聞記者によくなったな」と思っておられただろうに皆、親切に対応して下さった。
知らないことばかりだった。資料を受け取ると何度も何度も読むが分からないことが多かった。
デスクからFAXでもらったインタビューの項目を見て取材をした。
それでも取材をしていてこれは必要と思うことは取材したが時には書いてもらった項目の中で1つや2つ忘れていることもあった。
そのたびに電話取材をしたものだった。
そうして慣れるのに3年はかかった。
4年目に入ると理不尽ないじめに時には意見をして抗議もした。いろんなことがあった。また様々な出会いに様々な事柄や人間関係に私を少しずつだが成長させてもらった。ある程度在日コリアンの現場をデスクに迷惑をかけない程度になるのには10年はかかった。
在日コリアンの中の現場で21年、ある程度現場の中で次の企画記事も探せるようになったがまだまだ先輩から比べると足りない。まだまだ教わることばかりである。
今日、高麗美術館の原稿を作っていて当時43歳の初めのころを思い出していた。当時、高麗美術館の開館は画期的だった。韓日の報道関係者で館内はあふれていた。
創設者の思い、韓国の宝物、日本に散らばっていたものをまた散在したくない思いがあった。2世の子息に残すとまたどこかに散らばりそうな予感をした1世の創設者、そのためには資料館を作った。私財を投じて作った美術館。今もそうかもしれないが館長は日本国籍者でないといけないという。そこで学識者が支援して学識者の名前で美術館の開館にこぎつけたことを思い出していた。
あれから20年、もうそんな年月になったのか。
私の仕事の履歴を見るとなるほどと頷ける。
当時の高麗美術館の事務局長にもよくしてもらった。
今は退職されてどうしておられるのだろうか。
私ががむしゃらに駆け抜けていた40代をまた思い出していた。
がむしゃらの影に多くの編集者や周りの同胞に助けてもらったことか。
がむしゃらだった。一途に仕事に邁進していた。その分、家庭はおざなりだった。夫の食生活は義理で作っていたみたいだった。夫との摩擦もたえなかった。いろんなことがあった。
夫は当時よく言った。「朝も昼も夜も働いて休みもない。俺の給料の3分の1はどういうことや」
そして父親の身内の叔母たちには「いいかげにん仕事しておき。もうキンスバン(韓国で夫の呼び方)のごはんどうしているのや。あんた、まともに作ってへんやろ」とどこかで見ているようなことをしょっちゅう、電話がかかってきて言われた。最後は「まあ好きな仕事しているからしやないけどな」と言って電話を切った。
忙しくても好きな仕事だったがそれでも編集局と何度か意見をしたものだ。
2つのかけもちは日常茶飯事だった。それでも物理的に無理なこともあった。取材が終わると会社に帰って記事を書いた。当時はまだパソコン作業ではない。手書きの原稿をFAXで流していた。写真は日通便にのせて発送していた。
今みたいにまだ宅急便ではなかった。コンビニができて宅急便にすると価格高でできなかった。
さて今日でやっと2つの案内のセットアップが終わった。
夫は今、近所の大型スーパーに出かけた。何かしら衣類を買いたいか言って出かけた。私はこのブログの後「電車の中」をもう1本完成させよう。
それに木曜日連載も作っておかないといけない。
明日はネットの会合がある。
いつもあわただしい毎日である。
天理大学雅額部の演奏は韓国霊岩王仁文化祭で
披露されたのを観賞しました。