よく降った。まとまった雨が降った。
昨日は雨が降って仕事の原稿がないので久しぶりにゆっくりと過ごした。
縫い物もすることがなく落ちついて過ごした。
また日々、忙しくなりそうだ。
今日は生駒市内のある小学校に訪問しての取材、教師の一段落するのは午後4時あたりなので午後4時の現場となった。
12時にはパソコンを閉めて昼食をして身支度をしないといけない。
昨日は雨がふっているのに夏に着る半袖のインナーを出した。
どうしてもシワになってしまう。
以前は1枚1枚、アイロンをかけたがこの頃は手抜きの方法を覚えた。
1度、水にぬらして水を少しだけ絞ってハンガーにほしていく。
暑い時はすぐ乾くのに昨日は雨で乾くはずがない。
水のしたたり落ちはなくなったがまだ乾いていない。
それでもベランダは洗濯を干さないといけない。
とりあえず生乾きのインナーは取り込んでクローゼットのある部屋にもちこんでここに干した。ハンガーのまま干しておくとアイロンがけをしはなくてもいいようにシワがとれている。
昨日は雨がふっているのにそんなことをした。
ムシムシと蒸し暑い。
ジャケットの下に着るインナーは半袖にしないと暑いと思いかけた。
化繊物のインナーは2枚出してある。が、蒸し暑いときはこれも暑い。
新しく購入した木綿ものが2枚ある。
けれど他の物、ジャケットによってインナーも違ってくるので思いきって全部出して水にぬらした。
雨の日にこんなことをした。けれどすることをしたので気持ちがすっきりした。
雨の中、鳩が来ないと思っていたら3羽が向かいの屋根に飛んできたのは3時半ごろ、その時はカメラを出さなかった。そして4時、夕食の支度を済ませて風呂に入ろうと思ったら2羽が向かいの屋根に雨の中でとまっている。
鳩たち、体を膨らませて空気を入れて温めて保護している。
そして今度は遅くなってきたので網戸をガラス戸に変えようとしてベランダに行くとまた2羽とまっている。日没が遅くなったので鳩たちも6時半ごろまで空を飛んだりしているが昨日は雨、それでも向かいの屋根にとまって顔を見せてくれた。
写真は2011年5月11日、午後5時45分、向かいにとまっていたチビたちの2羽、雨の中をぬれながらとまっている。
今朝、8時半頃、また向かいの屋根にチビたちが飛んできた。
雨が降っている。
瓦屋根を歩いて高いところに上ろうとして滑った。
それでも何とか高いところにとまることができた。
もう1羽はチビと同じ羽をしている。まだ小さい。
子どもかな。チビはその小さい鳩を追いかけていく。
子ども鳩は高いところを器用に下に下りていくがチビは生まれた時から慎重だった。高いところからまた一段ぐらい高い瓦屋根に上がらないといけない。
チビは慎重、高いところから広い瓦屋根に降りて今度は広い瓦屋根から高い瓦屋根、屋根の頂点に取り付けてある鬼瓦の上に飛び乗った。
チビは慎重派だったので大人になってもこうして慎重に飛んで入ることがわかった。最初は「鳩は賢い」と思ったがよく考えてみると慎重派のチビがしていることと思った。巣立ちまでなかなか飛べなくてモタモタしていたことを思い出した。
それで鳩も性格が出るのかと思った。
今朝はそんな一面を見せてもらった。
今は晴れている。
暑いな。蒸し暑い。しかし大雨注意報がでているが----。
午後には雨がやむとも予報では言われているが------。
すこしインターネットで新聞を見てパソコンを消してテレビをみよう。
9時55分から始まる「よーい ドン」を見ることにしよう。
昨日は五木ひろしが出演していた。
おすすめ料理と思い出ごはん。思い出ごはんはお袋の味、カレーライスである。
母親の苦労話に始めて五木ひろしはいった。
「離婚して母が女手1人で子どもを育てたので苦労しました」と----。
デビューの頃は関係者がそんな風にしたのか父親は死亡したことになっていた。
しかし父親はまだその時は生きていた。
父親は「よこはまたそがれ」のレコード盤を背中に背負って福井県の県境、京都府の美山町まで行商していたという。他の地域にも行商していたのだろう。やはり子どもを思う父親である。
父親は在日韓国人の1世、たぶん言葉も韓国語訛りの日本語だっただろう。
そんな言葉を聞いて五木ひろしは育っているはずである。
母親は日本人だった。こんな証言、取材を通して何度も聞いた。
五木ひろしさんの上のお姉さんも五木ひろしをデビューさせるために苦労されたことも聞いている。
五木ひろしはけっして自分の親のことは忘れていないと思っている。
芸能界で在日コリアンが生きる術として自分の父親のことは語らないのだろう。
韓国から呼び寄せる俳優やタレント、歌手には本名を名乗らせている。
しかし日本ではまだまだ本名を名乗って活動できない厳しい現実がある。
最近、和田アキ子がパチンコのCM、マルハコーポレーションのスポンサー、パチンコ「マルハン」に出るようになった。マルハンの創設者は京都府の1世、韓国慶尚南道生まれ。本名で日本国籍に切り替えた。現在は息子も経営に参加している。
和田アキ子は日本国籍を取ったことで踏ん切りがついたのか。カミングアウトして踏ん切りがついたのか。元在日韓国人経営者のCMにでている。
日本国籍にもなかなかならなかった。日本国籍を取るのにずいぶんと時間がかかった。
北朝鮮に帰国した生野区出身の高英姫、後に最高指導者の妻になって何年か前に死亡した。今、権力を握っている1人が高英姫の息子である。
高英姫の父親は柔道の指導者だった。指導者で北朝鮮に帰国してその待遇は帰国した一般のものより待遇がよかったのかもしれないと思っているが見たわけでもないので-----。
和田アキ子のお父さんも柔道家、道場をもっていたという。
どちらかというと北朝鮮支持者だっただろう。
一般の帰国者が北朝鮮に帰国してよかったという便りが届いていれば北朝鮮に帰国しただろう。和田アキ子の弟の誰かが朝鮮銀行に勤務していた。
同じ人かどうかわからないが弟の1人が韓国に留学した。
大学で北朝鮮を崇拝する歌を授業中に歌った。
そしてその弟は韓国国家機関に逮捕された。隣にいつも一緒に座っていた○○○もソウルの町を逃げ回ったが捕まった。
その調査は拷問に近い。
ソウル大学の卒業まであとわずかだった。
やっと解放されて釜山から船に乗って福岡に着いた。
日本に帰っても行くあてもない。高校卒業するまで過ごした関東に帰るまでに傷心を埋めないといけなかったのだろう。
福岡の町をブラブラしていると民団福岡本部の建物を見つけた。
この建物には在日韓国人が経営する新聞社の福岡支社があった。
ここにフラフラと入っていったのがここで勤務する縁となった。
大阪支社に来て私は何年か一緒に勤務をした。
この人に関しては楽しいことは何もなかった。
少々歪んだ性格に翻弄されたことしか記憶にない。
51歳の若さで亡くなった。生きていれば昨年あたりに還暦を迎えている。
この人にも少し捕まるまでの話を聞いた。
和田アキ子の弟のこと、そしてソウルの町、夜の町を逃げまわったことを聞いた。聞いた時はまだ現実に実感することがなかったが他の人たちから少しずつ聞くに連れて南北国家という分断は在日韓国人にも多くの悲劇をもたらしたことがわかってきた。
和田アキ子の日本国籍になかなかできなかった。
しかし韓国の大統領が変わってそれから日本国籍に切り替えることができた。
ひょっとしたら和田アキ子も------。
和田アキ子も歌が上手かったので人生が変わった。
子どもの頃に北朝鮮に帰国していった同級生たちを知っているかもしれないと思っている。体内には韓国人の血が流れているが1部ではそれを拒否している。鶴橋界隈は北か南か----。騒がしい町だった。
お金のある人は当時、住宅開発された学園前に移ってきた人もいた。
また他に引越しもした人もいただろう。
日本列島はそういう意味で日本植民地支配下の残像が散在している。
このことを日本人は知らないといけない。また在日コリアンも知らないといけない。1世が日本で生きたのも在日コリアン史、2世が共生を唱えたのも在日コリアン史、そして3世たちが地域との共生を実践している。
まだまだ在日コリアンの歴史を続いていく。
また---。このへんで。
昨日は雨が降って仕事の原稿がないので久しぶりにゆっくりと過ごした。
縫い物もすることがなく落ちついて過ごした。
また日々、忙しくなりそうだ。
今日は生駒市内のある小学校に訪問しての取材、教師の一段落するのは午後4時あたりなので午後4時の現場となった。
12時にはパソコンを閉めて昼食をして身支度をしないといけない。
昨日は雨がふっているのに夏に着る半袖のインナーを出した。
どうしてもシワになってしまう。
以前は1枚1枚、アイロンをかけたがこの頃は手抜きの方法を覚えた。
1度、水にぬらして水を少しだけ絞ってハンガーにほしていく。
暑い時はすぐ乾くのに昨日は雨で乾くはずがない。
水のしたたり落ちはなくなったがまだ乾いていない。
それでもベランダは洗濯を干さないといけない。
とりあえず生乾きのインナーは取り込んでクローゼットのある部屋にもちこんでここに干した。ハンガーのまま干しておくとアイロンがけをしはなくてもいいようにシワがとれている。
昨日は雨がふっているのにそんなことをした。
ムシムシと蒸し暑い。
ジャケットの下に着るインナーは半袖にしないと暑いと思いかけた。
化繊物のインナーは2枚出してある。が、蒸し暑いときはこれも暑い。
新しく購入した木綿ものが2枚ある。
けれど他の物、ジャケットによってインナーも違ってくるので思いきって全部出して水にぬらした。
雨の日にこんなことをした。けれどすることをしたので気持ちがすっきりした。
雨の中、鳩が来ないと思っていたら3羽が向かいの屋根に飛んできたのは3時半ごろ、その時はカメラを出さなかった。そして4時、夕食の支度を済ませて風呂に入ろうと思ったら2羽が向かいの屋根に雨の中でとまっている。
鳩たち、体を膨らませて空気を入れて温めて保護している。
そして今度は遅くなってきたので網戸をガラス戸に変えようとしてベランダに行くとまた2羽とまっている。日没が遅くなったので鳩たちも6時半ごろまで空を飛んだりしているが昨日は雨、それでも向かいの屋根にとまって顔を見せてくれた。
写真は2011年5月11日、午後5時45分、向かいにとまっていたチビたちの2羽、雨の中をぬれながらとまっている。
今朝、8時半頃、また向かいの屋根にチビたちが飛んできた。
雨が降っている。
瓦屋根を歩いて高いところに上ろうとして滑った。
それでも何とか高いところにとまることができた。
もう1羽はチビと同じ羽をしている。まだ小さい。
子どもかな。チビはその小さい鳩を追いかけていく。
子ども鳩は高いところを器用に下に下りていくがチビは生まれた時から慎重だった。高いところからまた一段ぐらい高い瓦屋根に上がらないといけない。
チビは慎重、高いところから広い瓦屋根に降りて今度は広い瓦屋根から高い瓦屋根、屋根の頂点に取り付けてある鬼瓦の上に飛び乗った。
チビは慎重派だったので大人になってもこうして慎重に飛んで入ることがわかった。最初は「鳩は賢い」と思ったがよく考えてみると慎重派のチビがしていることと思った。巣立ちまでなかなか飛べなくてモタモタしていたことを思い出した。
それで鳩も性格が出るのかと思った。
今朝はそんな一面を見せてもらった。
今は晴れている。
暑いな。蒸し暑い。しかし大雨注意報がでているが----。
午後には雨がやむとも予報では言われているが------。
すこしインターネットで新聞を見てパソコンを消してテレビをみよう。
9時55分から始まる「よーい ドン」を見ることにしよう。
昨日は五木ひろしが出演していた。
おすすめ料理と思い出ごはん。思い出ごはんはお袋の味、カレーライスである。
母親の苦労話に始めて五木ひろしはいった。
「離婚して母が女手1人で子どもを育てたので苦労しました」と----。
デビューの頃は関係者がそんな風にしたのか父親は死亡したことになっていた。
しかし父親はまだその時は生きていた。
父親は「よこはまたそがれ」のレコード盤を背中に背負って福井県の県境、京都府の美山町まで行商していたという。他の地域にも行商していたのだろう。やはり子どもを思う父親である。
父親は在日韓国人の1世、たぶん言葉も韓国語訛りの日本語だっただろう。
そんな言葉を聞いて五木ひろしは育っているはずである。
母親は日本人だった。こんな証言、取材を通して何度も聞いた。
五木ひろしさんの上のお姉さんも五木ひろしをデビューさせるために苦労されたことも聞いている。
五木ひろしはけっして自分の親のことは忘れていないと思っている。
芸能界で在日コリアンが生きる術として自分の父親のことは語らないのだろう。
韓国から呼び寄せる俳優やタレント、歌手には本名を名乗らせている。
しかし日本ではまだまだ本名を名乗って活動できない厳しい現実がある。
最近、和田アキ子がパチンコのCM、マルハコーポレーションのスポンサー、パチンコ「マルハン」に出るようになった。マルハンの創設者は京都府の1世、韓国慶尚南道生まれ。本名で日本国籍に切り替えた。現在は息子も経営に参加している。
和田アキ子は日本国籍を取ったことで踏ん切りがついたのか。カミングアウトして踏ん切りがついたのか。元在日韓国人経営者のCMにでている。
日本国籍にもなかなかならなかった。日本国籍を取るのにずいぶんと時間がかかった。
北朝鮮に帰国した生野区出身の高英姫、後に最高指導者の妻になって何年か前に死亡した。今、権力を握っている1人が高英姫の息子である。
高英姫の父親は柔道の指導者だった。指導者で北朝鮮に帰国してその待遇は帰国した一般のものより待遇がよかったのかもしれないと思っているが見たわけでもないので-----。
和田アキ子のお父さんも柔道家、道場をもっていたという。
どちらかというと北朝鮮支持者だっただろう。
一般の帰国者が北朝鮮に帰国してよかったという便りが届いていれば北朝鮮に帰国しただろう。和田アキ子の弟の誰かが朝鮮銀行に勤務していた。
同じ人かどうかわからないが弟の1人が韓国に留学した。
大学で北朝鮮を崇拝する歌を授業中に歌った。
そしてその弟は韓国国家機関に逮捕された。隣にいつも一緒に座っていた○○○もソウルの町を逃げ回ったが捕まった。
その調査は拷問に近い。
ソウル大学の卒業まであとわずかだった。
やっと解放されて釜山から船に乗って福岡に着いた。
日本に帰っても行くあてもない。高校卒業するまで過ごした関東に帰るまでに傷心を埋めないといけなかったのだろう。
福岡の町をブラブラしていると民団福岡本部の建物を見つけた。
この建物には在日韓国人が経営する新聞社の福岡支社があった。
ここにフラフラと入っていったのがここで勤務する縁となった。
大阪支社に来て私は何年か一緒に勤務をした。
この人に関しては楽しいことは何もなかった。
少々歪んだ性格に翻弄されたことしか記憶にない。
51歳の若さで亡くなった。生きていれば昨年あたりに還暦を迎えている。
この人にも少し捕まるまでの話を聞いた。
和田アキ子の弟のこと、そしてソウルの町、夜の町を逃げまわったことを聞いた。聞いた時はまだ現実に実感することがなかったが他の人たちから少しずつ聞くに連れて南北国家という分断は在日韓国人にも多くの悲劇をもたらしたことがわかってきた。
和田アキ子の日本国籍になかなかできなかった。
しかし韓国の大統領が変わってそれから日本国籍に切り替えることができた。
ひょっとしたら和田アキ子も------。
和田アキ子も歌が上手かったので人生が変わった。
子どもの頃に北朝鮮に帰国していった同級生たちを知っているかもしれないと思っている。体内には韓国人の血が流れているが1部ではそれを拒否している。鶴橋界隈は北か南か----。騒がしい町だった。
お金のある人は当時、住宅開発された学園前に移ってきた人もいた。
また他に引越しもした人もいただろう。
日本列島はそういう意味で日本植民地支配下の残像が散在している。
このことを日本人は知らないといけない。また在日コリアンも知らないといけない。1世が日本で生きたのも在日コリアン史、2世が共生を唱えたのも在日コリアン史、そして3世たちが地域との共生を実践している。
まだまだ在日コリアンの歴史を続いていく。
また---。このへんで。
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