今日は南海線の堺東まで。ここから タクシーに乗って現場に向かう。
暑いな。それにしても。
けれどずっと冷房の中にいるので風邪をひいている。
昨日は奈良市内の鴻池体育館(運動場)で「まほろば総合高校体育大会」というものが行われた。名称が間違っているように思うが調べている時間がない。
私が雑誌記者をしているときに「わかくさ国体」が行われた。
もうそれから30年以上も経っていたのか。
早いです。年月の経つのが早いです。
あの頃もせっせっと県庁に通って「わかくさ国体」に関係するものを取材して記事にしていた。もう何をしたのかすっかりと忘れているが1つだけはっきり記憶している。
「わかくさ国体に出される食事」と題して毎月、食事を紹介して必ず記事の中に奈良の地場産業のものを取り入れた食事を紹介した。
この内容の記憶は薄れているが「生駒の竜田揚げ」「桜井三輪の三輪素麺」「吉野の葛料理」「奈良の茶粥」などだった。懐かしい。
「わかくさ国体」にものすごく燃えていたのが地方紙のMさんだった。
昼ごはんを一緒に食べたりコーヒーを飲んだりしているときに「わかくさ国体」に対する熱い思いを聞き、今度は終るとその模様を写真グラフにしての販売の宣伝など熱い仕事の思いを聞いたものだった。
そんな彼も今はこの世にいない。
写真にものすごく熱かった彼がまったく違う部署になって腐っていた心を写真グラフやわかくさ国体だった。またさらに部署は変わって今度は大きい肩書きがついたが彼の人間性から行くとまだまだ大きいポジションだった。
会社人間で生き残るにはそれしかなかっただろう。しかし何事も出世欲の強い男性たちの性なのか、業なのか。社内の人とはしのぎを削る男の社会があった。
こんなとき男に生まれなくてよかったと思ったものだった。
仕事の重圧が命を縮めたかもしれない。
何も肩書きがなくても与えられた場所で仕事だけ積み重ねていけば今も元気に仕事をしていたと思う。
ただ彼の傲慢さとプライドの高い性格はそれができなかった。
この性格にいつもなんとかならんものかなとはたから見ていてそう思った。
しばらくして私は転職して会う機会も少なくなったので傲慢な気性に合うこともなく気にする必要もなくせいせいしていた。そんなときに飛び込んできたのが訃報だった。
51歳という若さだった。もう亡くなってかれこれ7年に入るのだろうか。
社屋も移転して社員も何人か変わり新しい地方紙が動いている。
私が雑誌記者していた頃、地方紙の社風、もうカケラぐらいしかないかもしれない。しかし同僚だった人たちは会社を背負う肩書きになって活躍をしておられる。傲慢な彼のことはどこかの片隅に残っているかもしれないが会社経営のために奔走している彼らたち、みんな50代をとうに越えて60代になりつつある。1960年代、70年代に大学時代や青春を過ごした人が会社経営の中心になっている。
ふと思う。肩書きがなくてもタンタンとカメラを持って撮影している彼の姿がふと浮かぶ。そんな彼であってほしかったなとふと思う。そんなほうが彼にあっていた。
肩書きの重圧、いつもよりお酒の量も増えていただろうし----。
しかしこれは私の想像で真意は分からない。
今度、もしおっさんにあったら私は言うだろう。
「あんたは肩書きより平社員でカメラを担いでいるほうが似合っている」と。
「わかくさ国体」の時、カメラの話しになると目を輝かせて多弁になった彼だった。
しかし彼はただ1ついいことを私にしてくれた。
正義の味方だった。非があれば徹底的に追求した。ともすればこれも命とりになるが私はあることで1つ助けてもらった。あることは絶対に口外できないが今もこのことに感謝している。
わかくさ国体に熱く燃えていたMさん。まほろば総合高校体育大会を迎えて32・33年前のことを思い出している。
もう8時1分、パソコンを閉じて外出の支度です。
暑いな。それにしても。
けれどずっと冷房の中にいるので風邪をひいている。
昨日は奈良市内の鴻池体育館(運動場)で「まほろば総合高校体育大会」というものが行われた。名称が間違っているように思うが調べている時間がない。
私が雑誌記者をしているときに「わかくさ国体」が行われた。
もうそれから30年以上も経っていたのか。
早いです。年月の経つのが早いです。
あの頃もせっせっと県庁に通って「わかくさ国体」に関係するものを取材して記事にしていた。もう何をしたのかすっかりと忘れているが1つだけはっきり記憶している。
「わかくさ国体に出される食事」と題して毎月、食事を紹介して必ず記事の中に奈良の地場産業のものを取り入れた食事を紹介した。
この内容の記憶は薄れているが「生駒の竜田揚げ」「桜井三輪の三輪素麺」「吉野の葛料理」「奈良の茶粥」などだった。懐かしい。
「わかくさ国体」にものすごく燃えていたのが地方紙のMさんだった。
昼ごはんを一緒に食べたりコーヒーを飲んだりしているときに「わかくさ国体」に対する熱い思いを聞き、今度は終るとその模様を写真グラフにしての販売の宣伝など熱い仕事の思いを聞いたものだった。
そんな彼も今はこの世にいない。
写真にものすごく熱かった彼がまったく違う部署になって腐っていた心を写真グラフやわかくさ国体だった。またさらに部署は変わって今度は大きい肩書きがついたが彼の人間性から行くとまだまだ大きいポジションだった。
会社人間で生き残るにはそれしかなかっただろう。しかし何事も出世欲の強い男性たちの性なのか、業なのか。社内の人とはしのぎを削る男の社会があった。
こんなとき男に生まれなくてよかったと思ったものだった。
仕事の重圧が命を縮めたかもしれない。
何も肩書きがなくても与えられた場所で仕事だけ積み重ねていけば今も元気に仕事をしていたと思う。
ただ彼の傲慢さとプライドの高い性格はそれができなかった。
この性格にいつもなんとかならんものかなとはたから見ていてそう思った。
しばらくして私は転職して会う機会も少なくなったので傲慢な気性に合うこともなく気にする必要もなくせいせいしていた。そんなときに飛び込んできたのが訃報だった。
51歳という若さだった。もう亡くなってかれこれ7年に入るのだろうか。
社屋も移転して社員も何人か変わり新しい地方紙が動いている。
私が雑誌記者していた頃、地方紙の社風、もうカケラぐらいしかないかもしれない。しかし同僚だった人たちは会社を背負う肩書きになって活躍をしておられる。傲慢な彼のことはどこかの片隅に残っているかもしれないが会社経営のために奔走している彼らたち、みんな50代をとうに越えて60代になりつつある。1960年代、70年代に大学時代や青春を過ごした人が会社経営の中心になっている。
ふと思う。肩書きがなくてもタンタンとカメラを持って撮影している彼の姿がふと浮かぶ。そんな彼であってほしかったなとふと思う。そんなほうが彼にあっていた。
肩書きの重圧、いつもよりお酒の量も増えていただろうし----。
しかしこれは私の想像で真意は分からない。
今度、もしおっさんにあったら私は言うだろう。
「あんたは肩書きより平社員でカメラを担いでいるほうが似合っている」と。
「わかくさ国体」の時、カメラの話しになると目を輝かせて多弁になった彼だった。
しかし彼はただ1ついいことを私にしてくれた。
正義の味方だった。非があれば徹底的に追求した。ともすればこれも命とりになるが私はあることで1つ助けてもらった。あることは絶対に口外できないが今もこのことに感謝している。
わかくさ国体に熱く燃えていたMさん。まほろば総合高校体育大会を迎えて32・33年前のことを思い出している。
もう8時1分、パソコンを閉じて外出の支度です。
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