山の稜線
パソコンを入力している部屋からたかまど山から三笠山の山稜線が見える。さやかな今日は玄関の扉も網戸にした。そしてベランダ側の部屋も網戸にした。
気持ちのよい風が入っている。朝の10時半である。
8時45分ごろから始まるテレビ番組、張本勲さんらがでている1週間のスポーツダイジェストだが私はプロ野球の阪神の解説というのか「カツ」「あっぱれ」が聞きたくてこの2・30分を見ている。これが終わるとサッカーやメジャーなどである。日曜日の番組も見るものがないの日本のテレビ、電源を切って新聞を読む。椅子に腰掛けて読んでいるとさやかな風がはいってくる。
夫は腰痛の薬で眠たいのか、朝定番のラーメンとビールを取ってまた布団の中で寝ている。
そんなとき1人で山の稜線を見ているとなにかしら雑誌記者時代のことを思い出す。奈良県内を飛び回ったころだったころを思い出す。
ある日、私は橿原に取材ででかけた。
桜井市朝倉に祖母が父の兄弟、一番下の弟家族と暮らしていた。
橿原市から桜井朝倉はすぐ近くである。
当時、たぶんまだ国鉄の時代だった。国鉄で桜井にでて近鉄に乗り換えて橿原に行ったように思う。5月の終わりごろだった。記者になってもうすぐ1年に来ようとしていた。
取材を終えると無性に祖母が住む朝倉の家に行きたくなった。
虫の知らせのようだった。
そして私が祖母の家にいくと祖母はテッシュを切り裂いてはゴミ箱にいれていた。
そして私は通名で「○○子」と言ったが韓国語で「ヌグヤ(誰や)」と言ってまたテッシュを引き裂いていた。もう年齢は90歳だった。日本の植民地支配と戦後の混乱期を生き抜いてきた。上品な品格に豪放な祖父とはけっして性格が合わなかっただろう。祖父は他所に女の人もたくさん作った。2人の女の子は自分の子どもとして育てた。
男の子1人は韓国に帰らした母親が連れて行った。欲の深い祖父は男子児に「取り返してこい」というのでその女の人たちの整理した私の父が釜山まですぐ下の弟と取り返しに行った。そして下関から京都に向かう列車の中でその男子児は肺炎で亡くなった。
そんな精神的な苦労をしてきたのに私たち孫の前では品を備えていた。
私が突然訪ねると「ヌグヤ」と言う。
叔母は「ボケが始まっている」と言っていた。
仕事の途中だったので顔を見ただけで奈良に戻った。
それからしばらくして祖母は入院した。乳がんだったというが---。
1度、病院に見舞いにいったものの年齢は90歳、6月の終わりに祖母は亡くなった。
あんなに祖母の家に行きたいと思ったのはボケが始まっていても元気な祖母の顔のみおさめとなった。虫が知らせた。
祖母は腰につけていた「チュモニ(巾着袋)」自分で作ったもの。なぜかいつも白のチュモニ、たぶんシーツの痛んだところをとってうまく工夫をしていたのだろう。
そのチャモニからきちんと折りたたんだハングルの新聞を出して読んでいた。
成人した私の前でも読んでいた。あれは祖母なりの私に対する「民族教育」だったのかもしれないと最近ようやくわかってきた。
山の稜線に年齢を重ねて祖父母の心情が理解できるようになったとふと祖父母の顔が山の稜線に重なる。
また祖母は私の家にくると韓国のラジオ放送をよく聞いていた。何をきいていたのだろうか。まったく私は当時、祖国のことに関心がなかったのでラジオのダイヤルを回すと韓国語の放送なら何でもいいと思って合わすと「アイダ、アイダ(違う、違う)」と言ってダイヤルをまた変更させた。やっとダイヤルが合うと「テッタ(それでいい)」と言って座ってじっと聞いていた。
今から考えるとKBSのラジオ放送だったのだろう。私の父は短波放送の入る性能のいいラジオをもつていたので少しでも韓国のニュースを聞いて韓国で暮らしていた弟のことを思い浮かべていたのだろうか。
まだ韓日国交正常化していない時代だった。
どんな思いできいていたのだろうか。もっともっと故郷についてきけばよかったとまた山の稜線を見て思う。
弟は韓国で暮らしていた。文学学者で朝鮮時代の男子の髪型を絶対に変えないで固辞したと聞いている。
祖母になぜそうしたのか。どんな文学を書いていたのか。もっともっと聞けばよかったと後悔がのこる。
韓国の山々にも似た低い山の稜線にふと祖母を思い出している。
パソコンを入力している部屋からたかまど山から三笠山の山稜線が見える。さやかな今日は玄関の扉も網戸にした。そしてベランダ側の部屋も網戸にした。
気持ちのよい風が入っている。朝の10時半である。
8時45分ごろから始まるテレビ番組、張本勲さんらがでている1週間のスポーツダイジェストだが私はプロ野球の阪神の解説というのか「カツ」「あっぱれ」が聞きたくてこの2・30分を見ている。これが終わるとサッカーやメジャーなどである。日曜日の番組も見るものがないの日本のテレビ、電源を切って新聞を読む。椅子に腰掛けて読んでいるとさやかな風がはいってくる。
夫は腰痛の薬で眠たいのか、朝定番のラーメンとビールを取ってまた布団の中で寝ている。
そんなとき1人で山の稜線を見ているとなにかしら雑誌記者時代のことを思い出す。奈良県内を飛び回ったころだったころを思い出す。
ある日、私は橿原に取材ででかけた。
桜井市朝倉に祖母が父の兄弟、一番下の弟家族と暮らしていた。
橿原市から桜井朝倉はすぐ近くである。
当時、たぶんまだ国鉄の時代だった。国鉄で桜井にでて近鉄に乗り換えて橿原に行ったように思う。5月の終わりごろだった。記者になってもうすぐ1年に来ようとしていた。
取材を終えると無性に祖母が住む朝倉の家に行きたくなった。
虫の知らせのようだった。
そして私が祖母の家にいくと祖母はテッシュを切り裂いてはゴミ箱にいれていた。
そして私は通名で「○○子」と言ったが韓国語で「ヌグヤ(誰や)」と言ってまたテッシュを引き裂いていた。もう年齢は90歳だった。日本の植民地支配と戦後の混乱期を生き抜いてきた。上品な品格に豪放な祖父とはけっして性格が合わなかっただろう。祖父は他所に女の人もたくさん作った。2人の女の子は自分の子どもとして育てた。
男の子1人は韓国に帰らした母親が連れて行った。欲の深い祖父は男子児に「取り返してこい」というのでその女の人たちの整理した私の父が釜山まですぐ下の弟と取り返しに行った。そして下関から京都に向かう列車の中でその男子児は肺炎で亡くなった。
そんな精神的な苦労をしてきたのに私たち孫の前では品を備えていた。
私が突然訪ねると「ヌグヤ」と言う。
叔母は「ボケが始まっている」と言っていた。
仕事の途中だったので顔を見ただけで奈良に戻った。
それからしばらくして祖母は入院した。乳がんだったというが---。
1度、病院に見舞いにいったものの年齢は90歳、6月の終わりに祖母は亡くなった。
あんなに祖母の家に行きたいと思ったのはボケが始まっていても元気な祖母の顔のみおさめとなった。虫が知らせた。
祖母は腰につけていた「チュモニ(巾着袋)」自分で作ったもの。なぜかいつも白のチュモニ、たぶんシーツの痛んだところをとってうまく工夫をしていたのだろう。
そのチャモニからきちんと折りたたんだハングルの新聞を出して読んでいた。
成人した私の前でも読んでいた。あれは祖母なりの私に対する「民族教育」だったのかもしれないと最近ようやくわかってきた。
山の稜線に年齢を重ねて祖父母の心情が理解できるようになったとふと祖父母の顔が山の稜線に重なる。
また祖母は私の家にくると韓国のラジオ放送をよく聞いていた。何をきいていたのだろうか。まったく私は当時、祖国のことに関心がなかったのでラジオのダイヤルを回すと韓国語の放送なら何でもいいと思って合わすと「アイダ、アイダ(違う、違う)」と言ってダイヤルをまた変更させた。やっとダイヤルが合うと「テッタ(それでいい)」と言って座ってじっと聞いていた。
今から考えるとKBSのラジオ放送だったのだろう。私の父は短波放送の入る性能のいいラジオをもつていたので少しでも韓国のニュースを聞いて韓国で暮らしていた弟のことを思い浮かべていたのだろうか。
まだ韓日国交正常化していない時代だった。
どんな思いできいていたのだろうか。もっともっと故郷についてきけばよかったとまた山の稜線を見て思う。
弟は韓国で暮らしていた。文学学者で朝鮮時代の男子の髪型を絶対に変えないで固辞したと聞いている。
祖母になぜそうしたのか。どんな文学を書いていたのか。もっともっと聞けばよかったと後悔がのこる。
韓国の山々にも似た低い山の稜線にふと祖母を思い出している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます