今朝、更新したフエイスブックをはりつけておきます。
9月5日(水)晴れいるのか。雲っているのか。冷房を入れないで今の7時50分の室温は28度で湿度は60%である。台風一過。関西の各地で被害がでている。台風も水もなんやかんやと、人間が作った温暖化にお仕置きしていくように思えてならない。
私は子どもの頃に水と台風の怖い体験をしている。水は昭和28年8月15日未明、南山城大水害、そして高校2年の時の昭和37年9月の第2室戸台風。水は、笠置、大河原、和束、加茂など水害になった。木津は堤防が切れそうになったが明け方、水は引いた。しかし上流の笠置などから流れてきた家の壊れたものや大木、人に牛など下流の木津川に流れ着いた。凄まじい山崩れの被害をまのあたりにした。
台風は高校2年、父親は京都の会社に行っていた。家にいたのは母親と私と妹と弟(まだ3歳か4歳)、風が激しくなってきた。母親は畳2枚を上げた。それを裏の部屋の廊下のガラス戸にあてた。それをしっかりと押さえという。母親と私と妹は必死に押さえた。風で畳は私の前に倒れそうになるくらいに風が強い。必死でおさえた。母親は風が家に入ると家が飛ぶといっていた。本当に必死でおさえた。台風が通り過ぎるまで必死でおさえた。家は何事もなかった。翌日、京都府立木津高校に行くと古い下駄箱がぺしゃんこに崩れていた。何日か過ぎて同級生たちと奈良公園に行った。奈良公園の大木の何本かが倒れていた。台風の怖さを実感していた。
今はマンション暮しで少し油断している。風の音を聞きたいと思ってベランダ3センチほど開けていると。午後2時ごろから3時過ぎまでの風が吹いていた。しかし音を聞いたのはほんの少し、夫は怖いのか、ベランダの戸を閉めてしまった。
夕方、雨も風もやんでいたが、夜半、トイレに行き、外をみるとまた、暴風雨になっていた。明けがたにはやんでいた。
今朝、たべたものはご飯、玉子焼、ざあさいと塩昆布、みそ汁は
薄揚げとわかめ、ゴボウ天、朝食は440カロリーにもなってしまった。卵焼きは1個でいいというのに夫は2つ使っている。1個で80カロリー。何度も夫に注意をするが、いっこうにきいてくれない。テーブルにあると食べてしまう。また昼と夕食、抑えないといけない。カロリーの少ない食材にしないといけない。
こんにゃくとか、サンド豆のたいたものとか。
話しは変わるが、私のもう1つのブログ「鄭容順の直言」のアクセスが、最近いつも倍になっている。最初の何日間は気にとめていなかった。昨日は介護支援者がこないのでぼんやりと考えていた。そして気が付いた。先日、民団京都左京支部のある男性の電話で文集のお手伝いをしたこと、喜ばれていることを話して下さった。この方かもしれない。私のこと話して下さっているのだろう。もう30年も前のことである。若かった私は恥かしいことと反省ばかりである。そのかたが私の現在の介護支援生活は知っておられる。退院してきてまだ寝たきりのときに固定電話がかかってきた。夫が私の病状を話していた。まだこのころはパソコンの前で座って作業をしていなかった。退院してきて10月からだった。約半年以上過ぎてからだった。ケアマネジャーとリハビリの先生がパソコンの作業をしやすいところまで移動して下さった。そしてパソコン業者にきてもらって長いこと使用していないパソコンを点検してもらってから、リハビリと思って1日1回、パソコンの前に座るようにした。
京都の友人たちが私のブログをいって下さっているのだろうか。アクセスが倍になっている。フエイスブックを貼り付けている。
「鄭容順の直言」は2006年から、ほぼ毎日書きこんできた、現職の頃は現場の地域のことなどかいたものだが、今は介護支援者。毎日平凡な書きこみである。面白くも何もない。同級生は忌憚なく「このごろ全然面白くないから何日かに1度みているだけ」という。人権擁護問題も心で思うことがあっても書かないことにしている。いろんな考え方の人がおられる。バッシングが怖いので、普通に暮していることにして平凡な文書に心がけている。
かつて30年前は京都の同胞や多くの日本人のお世話になってたくさんの仕事をすることができた。特に婦人会京都本部の皆さん、そして民団京都、京都韓国学校の関係者ら、たくさんお世話になった。在日同胞のことを知らない私を丁寧に指導して下さった左京支部のある男性に感謝です。そして商工会議所の皆さんにたくさんの取材情報を頂きたくさん、紙面に掲載することができた。いろんなことがあった40代。多くの人に助けて頂き仕事ができた。とても感謝をしている。皆さん、本当にありがとうございます。心より感謝しています。今日はこのへんで。
9月5日(水)晴れいるのか。雲っているのか。冷房を入れないで今の7時50分の室温は28度で湿度は60%である。台風一過。関西の各地で被害がでている。台風も水もなんやかんやと、人間が作った温暖化にお仕置きしていくように思えてならない。
私は子どもの頃に水と台風の怖い体験をしている。水は昭和28年8月15日未明、南山城大水害、そして高校2年の時の昭和37年9月の第2室戸台風。水は、笠置、大河原、和束、加茂など水害になった。木津は堤防が切れそうになったが明け方、水は引いた。しかし上流の笠置などから流れてきた家の壊れたものや大木、人に牛など下流の木津川に流れ着いた。凄まじい山崩れの被害をまのあたりにした。
台風は高校2年、父親は京都の会社に行っていた。家にいたのは母親と私と妹と弟(まだ3歳か4歳)、風が激しくなってきた。母親は畳2枚を上げた。それを裏の部屋の廊下のガラス戸にあてた。それをしっかりと押さえという。母親と私と妹は必死に押さえた。風で畳は私の前に倒れそうになるくらいに風が強い。必死でおさえた。母親は風が家に入ると家が飛ぶといっていた。本当に必死でおさえた。台風が通り過ぎるまで必死でおさえた。家は何事もなかった。翌日、京都府立木津高校に行くと古い下駄箱がぺしゃんこに崩れていた。何日か過ぎて同級生たちと奈良公園に行った。奈良公園の大木の何本かが倒れていた。台風の怖さを実感していた。
今はマンション暮しで少し油断している。風の音を聞きたいと思ってベランダ3センチほど開けていると。午後2時ごろから3時過ぎまでの風が吹いていた。しかし音を聞いたのはほんの少し、夫は怖いのか、ベランダの戸を閉めてしまった。
夕方、雨も風もやんでいたが、夜半、トイレに行き、外をみるとまた、暴風雨になっていた。明けがたにはやんでいた。
今朝、たべたものはご飯、玉子焼、ざあさいと塩昆布、みそ汁は
薄揚げとわかめ、ゴボウ天、朝食は440カロリーにもなってしまった。卵焼きは1個でいいというのに夫は2つ使っている。1個で80カロリー。何度も夫に注意をするが、いっこうにきいてくれない。テーブルにあると食べてしまう。また昼と夕食、抑えないといけない。カロリーの少ない食材にしないといけない。
こんにゃくとか、サンド豆のたいたものとか。
話しは変わるが、私のもう1つのブログ「鄭容順の直言」のアクセスが、最近いつも倍になっている。最初の何日間は気にとめていなかった。昨日は介護支援者がこないのでぼんやりと考えていた。そして気が付いた。先日、民団京都左京支部のある男性の電話で文集のお手伝いをしたこと、喜ばれていることを話して下さった。この方かもしれない。私のこと話して下さっているのだろう。もう30年も前のことである。若かった私は恥かしいことと反省ばかりである。そのかたが私の現在の介護支援生活は知っておられる。退院してきてまだ寝たきりのときに固定電話がかかってきた。夫が私の病状を話していた。まだこのころはパソコンの前で座って作業をしていなかった。退院してきて10月からだった。約半年以上過ぎてからだった。ケアマネジャーとリハビリの先生がパソコンの作業をしやすいところまで移動して下さった。そしてパソコン業者にきてもらって長いこと使用していないパソコンを点検してもらってから、リハビリと思って1日1回、パソコンの前に座るようにした。
京都の友人たちが私のブログをいって下さっているのだろうか。アクセスが倍になっている。フエイスブックを貼り付けている。
「鄭容順の直言」は2006年から、ほぼ毎日書きこんできた、現職の頃は現場の地域のことなどかいたものだが、今は介護支援者。毎日平凡な書きこみである。面白くも何もない。同級生は忌憚なく「このごろ全然面白くないから何日かに1度みているだけ」という。人権擁護問題も心で思うことがあっても書かないことにしている。いろんな考え方の人がおられる。バッシングが怖いので、普通に暮していることにして平凡な文書に心がけている。
かつて30年前は京都の同胞や多くの日本人のお世話になってたくさんの仕事をすることができた。特に婦人会京都本部の皆さん、そして民団京都、京都韓国学校の関係者ら、たくさんお世話になった。在日同胞のことを知らない私を丁寧に指導して下さった左京支部のある男性に感謝です。そして商工会議所の皆さんにたくさんの取材情報を頂きたくさん、紙面に掲載することができた。いろんなことがあった40代。多くの人に助けて頂き仕事ができた。とても感謝をしている。皆さん、本当にありがとうございます。心より感謝しています。今日はこのへんで。
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