7月28日は午後から夜にかけて、『K.G.F』にどっぷりと浸かってきました。場所は川崎のチネチッタ。36℃の日でしたが、チッタの中庭はミストが出ていて多少涼しく、生き返る思い。こんな日は映画館にこもるに限りますねー、というわけで、チッタでの最終上映を『K.G.F:CHAPTER1』&『2』と、連続で楽しんで来た次第です。チッタは音がすごくよくて大満足でしたが、嬉しいことに予告編の中にシャー・ルク・カーン主演作で9月1日公開の『PATHAAN/パターン』のもあって、それもラッキーでした。『2』の上映時は予告編に登場する作品が『1』とはまったく違っていたので、「あー、『PATHAAN/パターン』の予告編は1回だけか~」と思っていたらちゃんと『2』の前にも上映され、チッタの粋なはからいに拍手パチパチ。映画館の鑑ですね、チネチッタ。
しかし、今回入館時に一瞬「アカンがな~」と思ったことがあって、それは入場者プレゼントの『K.G.F』ポスカ(上写真&下写真)の残量が結構あったこと。上映2週目の終わりになっても、まだあんなに余っているのは悲しい限り。こんな面白い映画をスクリーンで見ておかないなんて、インド映画ファンなら一生後悔するでしょうに。宣伝が足りなかったということなのかしらん、とか、いろいろ考えてしまいました。
そして始まった『K.G.F:CHAPTER1』。さすがに何度も見ているせいか、途中で寝落ちしてしまいました。しかも、私が一番好きなシーンで眠ってしまっていて、ハッとしたあと後悔しきり。私が一番好きなのは、ガルダ暗殺のためロッキーが像の除幕式にやってくる場面で、銃を現場に持ち込めないため、鉱山マフィアの一人アンドリュースの手下ダヤが手配して銃の各パーツをいろんな所に隠し、現場でそれを回収して銃を組み立てていくシーンです。最初に見た時、「お前はゴルゴ13か!」と思わずつぶやいてしまったのですが、長身のダヤがまるでダンスシーンのようにあちこちをロンドしながら、銃に部品をはめ込んでいくシーンは眼を楽しませてくれました。
そして、『2』も見た後、いくつかの疑問がわいてきました。それを3つに集約してみようと思います。
【疑問:1】あまりにも大きすぎ、かつ作為的すぎる、ロッキーの母親の影
最初に『K.G.F』を英語字幕で見た時思ったのは、「また、南インドのマザコン映画か」ということでした。『バーフバリ』二部作(2015&2017)の中で、シヴァガミ、デーヴァセーナという二人の母親像が大きな存在となっていることから、『バーフバリ』はマザコンの主人公の映画とも読めるな、と思ったのが始まりで、その後も気をつけていると、北インドの映画以上に南インドの映画は「母」の存在を大きく描くことが目に付くようになりました。最近の作品ではテルグ語映画『Pushpa:The RiseーPart 1(プシュパ:立身篇第1部)』(2021)もそうで、主人公をマザコンとして描くことがヒット要因の一つ? と思ったりしていたのです。あらためてスクリーンで見ると、ロッキーの母シャンタンマ(アルチャナ・ジョーイス)の、「貧しく、か弱い女」が母になることによって「強靱で雄弁な女」に変身していくさまが、見る者に強烈に迫ってきます。
そこで疑問が湧いてきたのですが、①シャンタンマの人生訓というか、強烈な主張「どのように生きてもいい、死ぬ時は支配者でありなさい」「千の兵士の勇気を引き出すことができたら、必ず勝てる。千の兵士を導き、千の勇気を率いたら、世界制覇できる」等々は、どうやって彼女が自らの口で語ることができたのか。彼女は一体、どこでどのようにしてこんな知恵を身につけ、それを語る言葉を紡ぎ出せたのか? さらには、ロッキーにしか語らなかったこれらの母の言葉は、どうやって老ジャーナリストのアナンド・インガラギに伝わったのか? 後者の疑問については、若きアナンドが情報収集のためインタビューに赴いた男、カラゴラのナーガラージュ(モーハン・ジュネージャ)が幼いロッキーを知っているようなので、彼がロッキーの言葉を伝えたと考えることは可能です。とはいえ、母に関するエピソードやその表現の仕方は、ちょっと作りすぎという感じが否めません。
【疑問:2】『2』で本格的に登場する敵アディーラ
『1』ではシルエットだけが登場し、『2』で本格的に登場するのが、女性首相ラミカ・セン(ラヴィーナー・タンダン)と、スーリヤワルダンの弟、つまりガルダの叔父に当たるアディーラ(サンジャイ・ダット)です。ラミカ・センの方は、当初から『2』でロッキーの敵にまわる人物として設定されていたように思いますが、アディーラに関してはどうも『1』のヒット後に「汎インド映画」としてのスケールアップを考えて、ボリウッド・スターであるサンジャイ・ダットの起用が決まり、リローデッドされたキャラクターのような感じがしてなりません。とはいえ、このアディーラがいなかったら、『2』はこれほどまでにヒットしていなかったであろうことも事実です。
サンジャイ・ダットは『ムンナー兄貴』シリーズ(2003&2006)で往年の人気を取り戻しましたが、その後は本作のような印象的な悪役としての活躍が光り、『火の道』(2012)でも名演技を見せています。また、軍人や警官役も多く、本作でも中世の騎士のような衣装で大ぶりの剣を持つという、威厳を持たせた人物像を造形しています。ですが、左額から頬にかけては入れ墨された文字が走っており、カーヴェーリ川長治さんによれば、「サンスクリット語の刺青、解読した人がいて、意味は”I am the place of Death. You will never expect mercy or sympathy from me. War is the only way of this World”らしい、とのこと」だそうで、ロッキーにとっても死神的存在であるわけですね。
【疑問:3】『2』における語り部の交代
『1』ではロッキーの物語の語り部として、老ジャーナリストのアナンド・インガラギ(アナント・ナーグ)が登場します。若い頃K.G.Fに入り込んで取材し、「エル・ドラド(黄金郷)」という本を書き上げたものの、政府の「ロッキー&K.G.F」の存在抹殺作戦により、その本もすべて焼かれてしまった、という人物です。ところが、1日ロッキーの半生を語り、ガルダ暗殺まで述べたのに、その夜脳溢血を起こし、ICUに入ってしまいます。その後の続きは、ずっと疎遠だった息子ヴィジャエンドラ・インガラギ(プラカーシュ・ラージ)が話し始めるのですが、大物俳優アナント・ナーグが続編に出演しなかったのはなぜか、というのが、私の疑問です。
考えられるのは、製作側、あるいは監督とアナント・ナーグとの間で何らかの行き違いがあり、アナント・ナーグが降りてしまった、ということです。当時の記事をググってみると、「監督との見解の相違があり、アナント・ナーグは役を降板した」という説明が出てきました。あくまで推測ですが、完成した作品を見てみると、アナント・ナーグとしてはその編集処理等に不満があったのでは、という気がします。もっとじっくりと物語を見せてくれる作品だと考えていたのでは、と思うのですが、慣れてみるとこの短いカットの積み重ねスタイルも、ロッキーといういわば漫画的というか劇画的というか、そういうヒーローを形象するにはピッタリのタッチであるとも思えてきます。
【疑問:オマケ】『K.G.F:CHAPTER 3』はあるのか?
先日のトークショーでは、池亀彩さんは「『CHAPTER 3』はある、作られる」というご意見でした。海に沈んだ、という設定は、遭難した人間がどこかに流れ着くという結果に繋がりやすいのですが、問題は沈んだ全財産の方で、これはウルトラC級の飛躍がないと、ロッキーの手には戻りません。さて、どうするサンダルウッド、ですが、ロッキー復帰待望論がカンナダ語映画界だけでなく、全インド的にあるのは理解できます。ロッキーが甦り、「サラーム、ロッキー・バーイー!」という挨拶が再びできるのか。ですが、プラシャーント・ニール監督が現在作っているプラバース主演作『Salaar(将軍)』は、最近タイトルを『Salaar:Part 1ーCeasefire(停戦)』と改め、シリーズものにすることにしたようです。こうなると、『K.G.F:CHAPTER 3』の目はないのでは...。ま、とりあえず、9月28日公開予定の『Salaar』を待ちましょう。