荷田春満の教えを受けた弟子の賀茂真淵。師匠、荷田春満に続く「国学」のビッグネーム。
遠江の実家岡部家は「賀茂神社」末社の神職を代々務める家柄なのだそうで。びっくりであるΣ(゚∀゚ノ)ノ
「賀茂」の名前は、いろんなことを想像させるに十分すぎるほど。「岡部」でなく「賀茂」を名乗るあたり、わざわざわかりやすくしているとも言える。どうしたって無視できるものではないですな( ・ิω・ิ)b
現在の浜松市伊場にある「賀茂神社」は、鎌倉時代文永の頃に創建され、上賀茂神社の流れを汲む、とか。岡部家はその神官を代々務められてきた家柄。
そして、荷田春満とはご縁が深すぎるほどに深い。
というのも、浜松には荷田春満の門人だった国学者、杉浦国頭が開いた私塾があり、幼い頃にそのお嫁さんに手習いを受けたというのだが、そのお嫁さんは荷田春満の姪っ子さんなのだそうでΣ(゚∀゚ノ)ノ
長じて、その私塾に通うことにもなる。ちなみに杉浦国頭は諏訪神社の神職でもあったとか。
後年、賀茂真淵は江戸に上り荷田春満の門人となるのだが、その11年前に、すでに浜松で会っていたりもする。
出来過ぎなくらい、運命的なご縁があったのですな(*´ω`*)
「国学」の祖と呼ぶべき二人の生まれを見ただけで、直接「伏見稲荷」、「賀茂神社」につながってしまうのには、あらためて驚いてしまう(´ε`;)
もっとも、本来なら「国学」の地道な研究成果をフォローすべき( ・ิω・ิ)bなのだろうけど、いろいろ性急に結論を急ぎたくなってしまう気持ちっていうのも、正直、ありまして(^ω^ゞ
よくないなぁと思いつつ、これをやり過ごすことは、まぁ、できるものではありません(^o^;)
「国学」はその基礎研究を「神社」サイドが精力的に進めていた。これは事実として考えるべき。
賀茂真淵が「和歌」「万葉集」の研究に特化して「古道」に至らんとしたことが、後の本居宣長による「万葉集」「古事記」研究を飛躍的なものにした、という話は聞いている。
ひと晩だけ、松坂に滞在していた賀茂真淵との邂逅を果たしたことで、本居宣長は賀茂真淵の門人になる。
といっても、会ったのは松坂での一度だけ。弟子入りはするのだけど、それは遠距離、というか通信門弟というか(・o・)
師弟関係は書状のやり取りで続いていく。
通信教育の元祖とか言われているけど、そういう言い方は、やや分かりづらい。というか、あまりあたっていない気がする。宣長の質問に真淵が答えるというカタチを取っているものの、実際には論争を戦わせているので、師匠との討論の場が「書簡」、「手紙」だったと言える。敢えて言うなら、通信上に立ち上がったゼミ。
とにかくしつこいまでの本居宣長の探求心は、書簡の数にも反映されている。
真淵宛の「書簡」がどれほどの数に及んだのかについては僕はわからないのだけど、現存する文書だけでも千通超え(・o・)!
生涯で優に数千通の書状をしたためているとか(¯ω¯٥)
筆まめなんてもんじゃない。
本居宣長の学問を成り立たせるのに「書簡」、すなわち「通信」は必要不可欠。これは同時に、一つ所の「場所」に拠らない「国学」の「場」が「通信」の上にあった。こうも言えるのではないか?
数千通とも言われる「書簡」は、六百人を超える宣長の弟子に宛てたものも、もちろん含まれる。
「神話」をめぐる「サロン」というか、「アカデミズム」の場として、宣長の屋敷「鈴乃屋」が象徴的に有名ではあるけれど、その実、バーチャルリアリティのように「書簡」、「通信」上において実現していた。
こう言ってみても、そんなに現実とはかけ離れていないような気もする。
遠江の実家岡部家は「賀茂神社」末社の神職を代々務める家柄なのだそうで。びっくりであるΣ(゚∀゚ノ)ノ
「賀茂」の名前は、いろんなことを想像させるに十分すぎるほど。「岡部」でなく「賀茂」を名乗るあたり、わざわざわかりやすくしているとも言える。どうしたって無視できるものではないですな( ・ิω・ิ)b
現在の浜松市伊場にある「賀茂神社」は、鎌倉時代文永の頃に創建され、上賀茂神社の流れを汲む、とか。岡部家はその神官を代々務められてきた家柄。
そして、荷田春満とはご縁が深すぎるほどに深い。
というのも、浜松には荷田春満の門人だった国学者、杉浦国頭が開いた私塾があり、幼い頃にそのお嫁さんに手習いを受けたというのだが、そのお嫁さんは荷田春満の姪っ子さんなのだそうでΣ(゚∀゚ノ)ノ
長じて、その私塾に通うことにもなる。ちなみに杉浦国頭は諏訪神社の神職でもあったとか。
後年、賀茂真淵は江戸に上り荷田春満の門人となるのだが、その11年前に、すでに浜松で会っていたりもする。
出来過ぎなくらい、運命的なご縁があったのですな(*´ω`*)
「国学」の祖と呼ぶべき二人の生まれを見ただけで、直接「伏見稲荷」、「賀茂神社」につながってしまうのには、あらためて驚いてしまう(´ε`;)
もっとも、本来なら「国学」の地道な研究成果をフォローすべき( ・ิω・ิ)bなのだろうけど、いろいろ性急に結論を急ぎたくなってしまう気持ちっていうのも、正直、ありまして(^ω^ゞ
よくないなぁと思いつつ、これをやり過ごすことは、まぁ、できるものではありません(^o^;)
「国学」はその基礎研究を「神社」サイドが精力的に進めていた。これは事実として考えるべき。
賀茂真淵が「和歌」「万葉集」の研究に特化して「古道」に至らんとしたことが、後の本居宣長による「万葉集」「古事記」研究を飛躍的なものにした、という話は聞いている。
ひと晩だけ、松坂に滞在していた賀茂真淵との邂逅を果たしたことで、本居宣長は賀茂真淵の門人になる。
といっても、会ったのは松坂での一度だけ。弟子入りはするのだけど、それは遠距離、というか通信門弟というか(・o・)
師弟関係は書状のやり取りで続いていく。
通信教育の元祖とか言われているけど、そういう言い方は、やや分かりづらい。というか、あまりあたっていない気がする。宣長の質問に真淵が答えるというカタチを取っているものの、実際には論争を戦わせているので、師匠との討論の場が「書簡」、「手紙」だったと言える。敢えて言うなら、通信上に立ち上がったゼミ。
とにかくしつこいまでの本居宣長の探求心は、書簡の数にも反映されている。
真淵宛の「書簡」がどれほどの数に及んだのかについては僕はわからないのだけど、現存する文書だけでも千通超え(・o・)!
生涯で優に数千通の書状をしたためているとか(¯ω¯٥)
筆まめなんてもんじゃない。
本居宣長の学問を成り立たせるのに「書簡」、すなわち「通信」は必要不可欠。これは同時に、一つ所の「場所」に拠らない「国学」の「場」が「通信」の上にあった。こうも言えるのではないか?
数千通とも言われる「書簡」は、六百人を超える宣長の弟子に宛てたものも、もちろん含まれる。
「神話」をめぐる「サロン」というか、「アカデミズム」の場として、宣長の屋敷「鈴乃屋」が象徴的に有名ではあるけれど、その実、バーチャルリアリティのように「書簡」、「通信」上において実現していた。
こう言ってみても、そんなに現実とはかけ離れていないような気もする。