Journal de Cochon d'inde ♪こうそん日記♪

2013年10月1日に、娘の誕生日プレゼントとして我が家に来た、可愛すぎるモルモットのこうそん(♀)の日記です。

手を合わせる

2019-06-30 18:04:42 | こうそんとのお別れ
こうそんのケージは、お水は毎日かえ、牧草は一週間に一度の割合で替えているものの、基本的にはそのままにしている。

うんちなどはあらかたとって、綺麗になっている状態なので、特に問題ないと思われる。

そこに、朝と夕方、これまでと同じようにお野菜をお供えしている。と言っても量は少ない。モルのお食事から一部取ってこうそんにお供えして、それが終わったらモルがそれも食べる(=モルにとっては一食分)という形で、こうそんが大好きだったお野菜を無駄にしないような形でのお供えだ。

こんな感じで、こうそんがずっと使っていた食器に入れて出しています。
かなり前からテラスには上がれなくなってしまっていたので毛布はしまっていました。が、もう体が自由になったから、ここでおねんねしてね!と以前のように出しています。


お食事が終わると、こうそんにおいしかった?ごちそうさまでいいかな?と声をかけてからモルに上げます。
こうそんが元気だった時も、こうそんはトマトを残すことが多かったので、モルはこうそんのお残しを期待していました。逆に、モルは葉物があまり好きではないので、残すとこうそんに上げて・・・「とりかえっこ」していました。
こうそんの食器、そしてこうそんのケージにあったもの=モルにとってこうそんを感じられる貴重な瞬間かな?



カリカリミックスも、夜寝る前にかえている。前日出した分をモルにあげて(モルには、これに加えて朝や日中も新しいものをあげています)、そして新しいものをこうそんの食器に入れてお供えしている。

お別れしたのだから、無駄、という意見はあるかもしれないけれど、人間のお仏壇にもこうやって少しお供えしている。少なくとも私の実家では少なくとも毎夜(一日に一度は)やっている。こうそんは家族なのだから、私にとってはお供えしない方が不自然だ(6月12日は、さすがに動転していてなかったけれど…13日にスーパーの野菜売り場で涙があふれだし、人気のないところで泣きながら「そうだ、お供えすればいい」と思い、それからずっとお供えしている)。それに、どこかに「もちろん、魂になっているから食べることはできないけれど、魂の感覚で『におい』を感じ取り、食べたと同じような喜びがある」と書いてあったので、そうならいいな、と思って出している。

でもその時、なぜか手を合わせることはしていなかった。
以前のように「こうそ~ん、ごはんだよう」と言って、こうそんが好きなレタスとチコリーの葉っぱをとりやすいように整えておく、その日課を継続していた。

当たり前だけれど、水を飲みながら待っていて、お野菜が来ると大喜びで180度回転し、まずレタスを引き抜いてモグモグモグモグ…とやっていたこうそん、ニンジンの葉っぱなど、季節でないと出せない特別なものが入っているとそれからモグモグモグモグ…(今年も食べれて、よかったよね。こうそんに、大きい部分をあげていたよ→ごめんねモル)パセリとかを散らばせて、バリバリ食べていたこうそんはもういない。

悲しい。

しばらくたって食器を下げに行っても、当たり前だけれどすべて残っている。当たり前だけれど、以前と同じようにやっている分、肉体的な「いない」がきわだち、悲しく、さらに取り乱し、となった。

そんな中どこかで「動物の魂は、飼い主が悲しんでいると共鳴する。それまで幸せだったのかなと思っていても、飼い主があまりに自分を責め、悲しんでいたら「幸せではなかったのかな」と思う、 だとか、  なくなった後49日間くらいまでは家にいることがあるが、その後は本当は成仏しなければいけない。それなのに飼い主が悲しみ、自分を責め、執着していたらそれが動物の心残りとなって成仏できなくなってしまう。。。

など、読んだ。

こうそんは特に私の気持ちに共鳴してくれる子だ。私が願っているのはこうそんの幸せだ。
今、写真などを振り返ったりすると「こうそん大好き。ずーっとずーっと一緒にいようね。長ーく一緒にいようね」と言っていたから、ずっと頑張ってくれていたということがうかがえる。

頑張ってくれたのだから、今度は私がお返しする番だ。
というか、こうそんの石に出会わせてくれたり、新しい世界に飛び込んで、と背中を押してくれたり今だって私のために色々してくれている。

こうそんに執着して、こうそんを苦しめてはいけない。体がつらくても頑張ってくれていたんだ。

不思議な話だけれど、私がものすごく暗く、自分を責めていた時にはこうそんを感じたことがない。
逆に、心理士のところに行って前向きな気持ちになった時、娘と笑いあっていた時、娘やモルと笑っていた時 そういう時だけ、こうそんのケージから音が聞こえたり、鳴き声が聞こえたりした。
こうそんは、私たちが笑っている方がいいということが、ハッキリしている。

そこまで分かっていても、自分を責めた。

それが、4日前くらいか。

「そういえば、実家ではお仏壇にお供えする時に、手を合わせたっけ」と思い出した。
こうそんにも、同じことをして心で語り掛けようと思った。

第一回目の朝。

不思議と「ごめんね」が、心に浮かばなかった。
こうそん、最後に一緒に居なくてごめんね、とは思ったけれど、そのあとは自然に「ありがとう」がたくさんたくさん出た。

その後も、手を合わせてこうそんに心から語り掛ける時、やっぱり「ごめんね」じゃなくて「こうそん、大好きだよ、ありがとう」これが出る。
こうそん、今はまだお家にいるのかな?
いると嬉しいなあ。

でも、もし、虹の橋の方が楽しかったら、こうそん、ママとAちゃんとモルのこと、そこで待っていてね。
でもでも、こうそんが辛くないなら、時々遊びに来てね。

そんな感じだ。

こうそんの写真を前に手を合わせると、不思議と「ママがバカでした。ごめんなさい。辛い目に合わせた」というのが、出てこない。
会えなくって寂しいよ。これは出ても、やっぱりこうそんは見えない形で私たちといてくれていると本当に感じるので、こうそんが大丈夫なら、これからも楽しいこといっぱいしようね!と思うけれど。

手を合わせて目を閉じ、心から語り掛けるという文化は、良いなあとしみじみ思います。

それでも、もう会えないという悲しみは時に波のように押し寄せてきますね。。。
でもでも、以前のようにダーダー泣くということは少なくなり、娘と笑ったりすることもだんだん出てきました。
こうそんが、それを見て寂しいって思ったらその時ばかり「いるよ」って合図はしないと思うから、やっぱりこうそんも一緒に楽しんでくれていると思う、というか、こうそんのように立派に生き抜くにはそう思って最後の瞬間まで生き抜くしかないなあと。

そう思います。

-----

注・お仏壇(?)に上げた食べ物について、実家では「食べていい?」と聞くと、祖母が「いいよ、おじいちゃんにいただきます言って食べなよ」と言ってくれたりと、おさがりを頂くことはいいこととされていました。

そのため、当たり前のようにこうそんのお下がりをモルがいただく(本当は、モルの一食分にプラスアルファして分かち合っている部分が多いのですが)としていました。こうそんが大好きだったお野菜を、そのまま捨てるというほうが罰当たりな気がしていました。

が、それでいいのだろうかとふと気になり調べましたが、やはりそれでいいようです。
感謝していただくというのが大切なようです。

モルに上げる時、モルをなでながらいつも「こうそんのお姉ちゃんにありがとうって言おうね」「せーの、こうそん、ありがとう!」と声をかけ、モルは「プイプイ きゅるきゅる」言っておいしそうに食べています。
本当はいけなかったのですが、こうそんはほうれん草が大好きでした。でも、尿石ができてからはほうれん草はNGにしていました。一度だけ、2018年のクリスマスにほうれん草を「クリスマスのごちそうね」と言ってあげたのですが、その後・・・「ピーっ!」と痛がっているようでしたので、もしかして、もしかしたら尿石ができたかもしれません。1~2日しか出さなかったので、おそらく排出されたとは思いますが…

そんな痛みの心配もないから、ほうれん草(若い芽のようなもの)も出しています。おいしいからいっぱい食べてね!と。
でもそれはモルは食べてはいけません。だから、ほうれん草だけは私が頂いています。
生で食べられるもの(サラダ用)ですので、おいしくいただいています。こうそんに「おいしいね、知らなかったよ」と感謝しながら…。