緊急報告
恩師の村松謙一弁護士が出演された
「プロフェッショナル 仕事の流儀」が
1月27日にNHKで再放送決定!
~どん底の会社よ、よみがえれ~
末期ガン企業をも救う再建弁護士の人間愛溢れるドキュメント
コラムの著作権は村松弁護士本人に帰属します。
このブログ以外での引用等は固くお断りいたします。
私の体験
サンデー毎日 2005.8.14号
再建専門弁護士・村松謙一弁護士の特集記事
会社、蘇生します -「再建」弁護士が行く -
第3回 会社清算の経験を「第二の人生」に生かす
ノンフィクション作家 石村博子氏著
再建指導弁護士・村松謙一氏は、危機に陥った
会社を甦らせるのは、何としても立ち直ろうとする
経営者の熱意であるという。どん底をかいくぐった
元経営者が、今度は危機にある会社を救う側に立つ。
人生をリセットした彼が伝えるものは「諦めるな、
私はここにいる」という伴走者としての呼びかけ
である。
午前10時、店が開くのとほとんど同時に、2台の
トラックが横付けになり、男たちが入ってきた。
大阪市西成区にある酒専門の大型ディスカウント
ショップ・オーナー中逵努さんに、消費税滞納による
差押が告げられる。弁解する間もあらばこそ、8人の
国税庁の税務官たちは整然と数珠つなぎとなり、
ビールケースを手渡しでトラックに積み込み始めた。
酒店から酒がなくなれば今日にも店は潰れてしまう。
南無三、という気持ちで電話をかけると、週の半分
は地方に出かける村松謙一弁護士は、事務所にいて
くれた。
「ぼくが説明するから、担当者を電話に出して」
が、税務官はその必要などないとつっぱねる。
「じゃ、ぼくのいうことをそのまま伝えて」
ここから東京ー大阪間の遠距離で、電話による
口伝えという綱渡り的な法的攻防戦が行われるので
ある。
「先生は条文を確かめたり、税理士に問い合わせたり、
そのたびに電話をかけてくれました。でも税務官は
高圧的で、このまま倒産しても構わないというんです」
事態が急転したのは、昼を相当回ってから。
譲渡担保権の設定が国税の納付時期よりも前になされて
いるとの証明文書が、中逵さんの手元にあることが
分かったのだ。それが証明されれば、商品は中逵さんの
ものではないことになる。
「今後の差押は劣後することをはっきり言ってください。
強制すれば取り戻しの裁判をやりますよと」
ここで税務官ははじめて動揺した様子をうかがわせた。
夕刻、いったん商品は戻すとの決定が下ろされる。
8人の国税庁員は、憮然とした表情で黙々と、トラック
に積み込んだ商品を、また元の場所に戻しにかかった
のである。まるで白昼夢のような光景。後日、この一件
は債権回収場面のギリギリの攻防戦として、国税庁
内部でも話題になったという。
間一発で倒産を免れたこの事件は、03年11月の
こと。が、それまでの8年間、もうだめだと思った
ことが何度あったことか。
この事件の翌年、中逵さんは祖父母の代から続いた
酒屋の幕を閉じ、第二の人生に向かうことになるのだ。
「地獄を見た経験を活かせば人を勇気付けられるよ」
という村松弁護士の言葉に力づけられ、倒産に怯える
人を助ける側に回っていくのである。
ある意味で中逵さんは、時代の波ともろにぶつかった
人である。
最先端の並行輸入で得た資金と勢いをもとにして、
西成区に敷地150坪、3階建ての大型店をオープン
させたのは91年、弱冠28歳のときだった。全国的
にも珍しい酒専門の大型ディスカウントショップに、
人々は殺到した。
勢いに乗り、尼崎にもさらに充実の2号店を立ち上げる。
オープンしたのは94年12月2日。銀行からの融資
は、2店あわせて13億円にも及んだが、中逵さんは
強気に構えた。どちらも千客万来で、大量の商品が
あっという間にさばけていく。広い高級マンションに
住み、BMWを乗り回す日々。が、一抹の不安はない
ではなかった。借金の上に建つ砂上の楼閣が、時折
すうっと姿を見せた。
絶望の淵で出会った”一冊の本”
若き経営者の夢を砕いた一撃は、95年1月17日に
起った大震災だった。棚のすべては倒壊し、床は一面
酒の海に化している。涙も出ないと立ち尽くすなか、
まだ地震保険に入っていなかったことを思い出す。
大阪の店は無事で、被害の尼崎店も2週間後には再開
となった。が、人々は酒どころではない。客足は遠のき、
少し落ち着き始めたところで競合店が現れて、売上は
一気に4分の1にまで落ち込んでしまう。
それからはジェットコースターで下るようだったと
いう。月数千万円という、銀行への返済が重くのし
かかる。営業利益が伸びぬなか、手持ちのお金を
かき集めて支払いに充てるような日に追い込まれて
いったのである。
銀行への返済はどうしてもしなければならない。
従業員の給料も絶対に遅らせることは許されない。
乏しくなる資金は勢い仕入れに影響し、棚はすかすか、
倉庫は空っぽ。店としての体はなさなくなるのだった。
親戚たちから担保の提供も受けた。が、96年も
半ばになると、自分の給料もだせないくらいになって
くる。公共料金も払えず、短期間だが、自宅の電気も
ガスも止められた。家に戻ると、ろうそくの前で妻が
独り泣いている。胸が潰れる思いだった。
八方塞がりのなか、中逵さんはしばしば自分の身体が
炎に包まれている夢を見たという。それが自殺の思いに
つながっていることを知り、愕然とする。本当に何度
そう思ったか分からないのだ。
96年7月、1億円近い手形の決済を控え、弁護士の
ところに相談に行くと、自己破産しかないというのだ。
死刑宣告を受けたように頭の中は真っ白になる。
ふらつく足どりで、それでも駅前の書店に立ち寄った
のは、今では偶然とは思えない。ぼうっとしたまま
眺めていくと、飛び込んできた本があった。
村松謙一著「こうすればゼッタイ倒産しない(株式・
有限)会社になる」。タイトルに惹かれ、数ページ
めくっているうち、抜け殻の身体に電流が走った。
「会社を再びよみがえらせることこそが”正義”なの
です」とのメッセージに震え、その場に突っ立ったまま
最後まで読み通し、家に戻ってまた3度続けて読み
返した。
「満身創痍の状態で東京の事務所に駆け込んで、先生の
笑顔を見たとき、やっと人心地ついたと思えました。
で、こちらの資料をばーっと見ると、開口一番”今まで
よく頑張ったね”と言っていただいたんです。思わず
涙が溢れました。」
村松弁護士はさらに続けた。
「この状態なら倒産しないよ。君は若くて、やる気が
みなぎっているじゃないか」
実際は店に行くと、商品はポツポツ、埃は目立つという
痛ましさだ。しかし酒屋という既得権、現金商売の強み
に加え、手形は振り出していない、何より33歳の若さが
村松弁護士に一肌脱がせる気持ちにさせたのだった。
96年8月、村松弁護士と一緒に金融機関の担当者と
会う中逵さんの心臓は、音が聞こえるほど高鳴っていた。
まるで刑期を聞く囚人の気分だ。銀行の担当者は、硬い
表情を露にしている。
「弁護士さんが?何しに来たんですか?」
警戒する相手に、村松弁護士は中逵さんの会社の窮状を
率直に伝え、「ですからしばらく返済できません。一時
停止をお願いします」と理路整然と訴えた。
「そんなこをするんじゃ、会社を競売にかけますよ」
競売になったら一巻の終わりだ。中逵さんは息が止まる。
間髪入れず、村松弁護士は言ってのける。
「いいですよ。どうぞ競売してください」
うっとつまる担当者。
「ボク、それ聞いていて、オシッコちびりそうになり
ましたわ」
法律に精通した経営者を目指し
外に出て驚嘆する中逵さんに、村松弁護士は諭すのだった。
「競売は銀行にとっても最後の手段だし、決して怖いもの
じゃないですよ。今のあなたのやるべきことは、在庫を
増やすことです。命のお金を今は一円たりとも銀行に
払ってはいけません」
大口の取引先も、弁護士が来たと仰天する。
村松弁護士は事業計画書を差し出すと、滞っている仕入れ
金は銀行より優先して返していくことを確約し、中逵さん
と一緒に頭を下げる。
すると最初は感情的だった相手も、次第に取引再開に
応じる意向を見せてくれるのだった。
返済先を一緒に回りながら、中逵さんは奥から沸き立つ
ものを感じだす。中逵さんは法学部の出身である。
大学時代は無味乾燥の言葉の連なりにしか思えなかった
条文の数々が、こうして自分を守り、人を動かし、現実と
したたかに落としどころを探りあうものとして機能して
いる。
これ以後、中逵さんは法律の勉強を始めるのである。
金融機関側の理屈を知るため、家族や従業員を説得する
ため、時折襲う底知れぬ不安や罪悪感につぶされない
ため・・・。
手元から専門書を離さず、わずかの間隙を縫っては読み、
少しずつ少しずつ理解を深めていった。
その日々は、今の中逵さんの腰骨を作ることになるので
ある。
「ぼくのやり方をよく見ておきなさい。自分の会社を
立て直すこともできるし、他の人の相談に乗ることも
できるようになるから」
村松弁護士も、中逵さんが法律に精通する経営者になる
ことを期待した。
銀行の返済をストップし、支払いも分割にしてもらい、
村松弁護士の協力を得ながら、店は少しずつ立ち直って
きた。空っぽだった倉庫にも、ビールケースがいっぱい
積み込まれる。
が、競合店は増える一方で、売上は全盛期の数分の一と
いうところで伸び悩み続けた。
99年、銀行返済のため自宅を競売。移った先は、4畳半
が三部屋という家賃6万円のささやかな借家だった。
ほとんどの家具はマンションに残してきた。
「引っ越したときはほっとしました」中逵さんはしみじみ
そう言う。
「これが自分の収入にあった本当の暮らしだ。今の自分を
正直に見せている家だと」
奥さんも「やっとこれで落ち着ける。狭くても安心だね」
と、肩の荷を下ろしたようにつぶやいた。
「村松先生にも報告しました。そうしたら、モノはなくても
生きていける。命さえ無事で、事業が残ればいいと言って
くれました」
01年、今度は店の競売を銀行から要求される。
「それでも諦めちゃダメだ」と村松弁護士は叱咤する。
「知ってる人に落札してもらって、人から借りながらやれば
いい」
尼崎の店は完全に手放したが、大阪の店は村松弁護士の指示
どおり、知人に売って、賃貸で店を続けていくことになった。
もうこの時期は、法的な理解も深まって、無闇な不安に襲わ
れたりはしなかった。
03年から売上がまた少しずつ落ち始めた。
酒類販売免許の規制緩和はさらに進み、免許制から届出制
へと変更になる。
とっくに、酒はスーパーでもコンビニでも、手に入るように
なっていた。ディスカウントショップの使命はもう終わった
のかもしれない----。
消費税滞納の騒動が起ったのは、そんな時期だ。中逵さんは
腹を固めた。だましだまし続けるよりも、新天地で頑張った
ほうがいいのではないか。
40歳。まだ切り替えはできるはず。
04年7月。ついに閉店。
そして会社は清算した。十数年に及ぶ長い闘いだった。
ボロボロに打ちひしがれたなか、二人の娘の寝顔を見ている
うち、以前村松弁護士に言われた言葉が甦った。
「君は倒産の淵に立っている人の気持ちが誰より分かるから、
コンサルタントにもなれると思うよ」
倒産回避の専門家として活動を
現在、中逵さんは都内に単身赴任。大手コンサルタント会社
の企業再生コンサルタントとして、不況に苦しむ中小企業の
再建の活動を行っている。
不渡り確実を訴える企業からのSOSがあれば、全国どこに
でも飛んでいく日々。村松弁護士から伝授された人間救済の
流儀にのっとり、金融機関とも対等に渡り合う。
絶望的な気持ちを訴える経営者に、中逵さんは自分を体験を
さらけ出す。
「大丈夫です。そんな目にあった私でも今、ここにいるん
ですよ」
一念発起して今の会社に応募したとき、村松弁護士は
心からの推薦状を提出してくれた。
”企業再生を通じて人のお役に立てることに、彼としての
人生の役割を見出すべく・・・・”。
そして04年11月から倒産回避の専門家として動き始めた
のである。
「泥沼を這いずるような日々の中で、分かったことが
ひとつあります。人間は、失敗するから人間なんだという
ことです」
深夜、ときおりケータイが鳴る。
不安に襲われた経営者が、たまらずかけてくるものだ。
「中逵さん。食も喉を通りません。私は周囲の人たちに、
罪を作っているんじゃないでしょうか」
過去の自分に向き合いながら、中逵さんは答える。
「あなたが今、精いっぱいされていること。それが
あなたにとっての良心なんです、あなたは力の限りに
走っている。私はあなたが精いっぱい走ろうとする限り、
とことんお手伝いするつもりです」
連絡先
consul-n@goo.jp
中逵 努(なかつじ つとむ)
恩師の村松謙一弁護士が出演された
「プロフェッショナル 仕事の流儀」が
1月27日にNHKで再放送決定!
~どん底の会社よ、よみがえれ~
末期ガン企業をも救う再建弁護士の人間愛溢れるドキュメント
コラムの著作権は村松弁護士本人に帰属します。
このブログ以外での引用等は固くお断りいたします。
私の体験
サンデー毎日 2005.8.14号
再建専門弁護士・村松謙一弁護士の特集記事
会社、蘇生します -「再建」弁護士が行く -
第3回 会社清算の経験を「第二の人生」に生かす
ノンフィクション作家 石村博子氏著
再建指導弁護士・村松謙一氏は、危機に陥った
会社を甦らせるのは、何としても立ち直ろうとする
経営者の熱意であるという。どん底をかいくぐった
元経営者が、今度は危機にある会社を救う側に立つ。
人生をリセットした彼が伝えるものは「諦めるな、
私はここにいる」という伴走者としての呼びかけ
である。
午前10時、店が開くのとほとんど同時に、2台の
トラックが横付けになり、男たちが入ってきた。
大阪市西成区にある酒専門の大型ディスカウント
ショップ・オーナー中逵努さんに、消費税滞納による
差押が告げられる。弁解する間もあらばこそ、8人の
国税庁の税務官たちは整然と数珠つなぎとなり、
ビールケースを手渡しでトラックに積み込み始めた。
酒店から酒がなくなれば今日にも店は潰れてしまう。
南無三、という気持ちで電話をかけると、週の半分
は地方に出かける村松謙一弁護士は、事務所にいて
くれた。
「ぼくが説明するから、担当者を電話に出して」
が、税務官はその必要などないとつっぱねる。
「じゃ、ぼくのいうことをそのまま伝えて」
ここから東京ー大阪間の遠距離で、電話による
口伝えという綱渡り的な法的攻防戦が行われるので
ある。
「先生は条文を確かめたり、税理士に問い合わせたり、
そのたびに電話をかけてくれました。でも税務官は
高圧的で、このまま倒産しても構わないというんです」
事態が急転したのは、昼を相当回ってから。
譲渡担保権の設定が国税の納付時期よりも前になされて
いるとの証明文書が、中逵さんの手元にあることが
分かったのだ。それが証明されれば、商品は中逵さんの
ものではないことになる。
「今後の差押は劣後することをはっきり言ってください。
強制すれば取り戻しの裁判をやりますよと」
ここで税務官ははじめて動揺した様子をうかがわせた。
夕刻、いったん商品は戻すとの決定が下ろされる。
8人の国税庁員は、憮然とした表情で黙々と、トラック
に積み込んだ商品を、また元の場所に戻しにかかった
のである。まるで白昼夢のような光景。後日、この一件
は債権回収場面のギリギリの攻防戦として、国税庁
内部でも話題になったという。
間一発で倒産を免れたこの事件は、03年11月の
こと。が、それまでの8年間、もうだめだと思った
ことが何度あったことか。
この事件の翌年、中逵さんは祖父母の代から続いた
酒屋の幕を閉じ、第二の人生に向かうことになるのだ。
「地獄を見た経験を活かせば人を勇気付けられるよ」
という村松弁護士の言葉に力づけられ、倒産に怯える
人を助ける側に回っていくのである。
ある意味で中逵さんは、時代の波ともろにぶつかった
人である。
最先端の並行輸入で得た資金と勢いをもとにして、
西成区に敷地150坪、3階建ての大型店をオープン
させたのは91年、弱冠28歳のときだった。全国的
にも珍しい酒専門の大型ディスカウントショップに、
人々は殺到した。
勢いに乗り、尼崎にもさらに充実の2号店を立ち上げる。
オープンしたのは94年12月2日。銀行からの融資
は、2店あわせて13億円にも及んだが、中逵さんは
強気に構えた。どちらも千客万来で、大量の商品が
あっという間にさばけていく。広い高級マンションに
住み、BMWを乗り回す日々。が、一抹の不安はない
ではなかった。借金の上に建つ砂上の楼閣が、時折
すうっと姿を見せた。
絶望の淵で出会った”一冊の本”
若き経営者の夢を砕いた一撃は、95年1月17日に
起った大震災だった。棚のすべては倒壊し、床は一面
酒の海に化している。涙も出ないと立ち尽くすなか、
まだ地震保険に入っていなかったことを思い出す。
大阪の店は無事で、被害の尼崎店も2週間後には再開
となった。が、人々は酒どころではない。客足は遠のき、
少し落ち着き始めたところで競合店が現れて、売上は
一気に4分の1にまで落ち込んでしまう。
それからはジェットコースターで下るようだったと
いう。月数千万円という、銀行への返済が重くのし
かかる。営業利益が伸びぬなか、手持ちのお金を
かき集めて支払いに充てるような日に追い込まれて
いったのである。
銀行への返済はどうしてもしなければならない。
従業員の給料も絶対に遅らせることは許されない。
乏しくなる資金は勢い仕入れに影響し、棚はすかすか、
倉庫は空っぽ。店としての体はなさなくなるのだった。
親戚たちから担保の提供も受けた。が、96年も
半ばになると、自分の給料もだせないくらいになって
くる。公共料金も払えず、短期間だが、自宅の電気も
ガスも止められた。家に戻ると、ろうそくの前で妻が
独り泣いている。胸が潰れる思いだった。
八方塞がりのなか、中逵さんはしばしば自分の身体が
炎に包まれている夢を見たという。それが自殺の思いに
つながっていることを知り、愕然とする。本当に何度
そう思ったか分からないのだ。
96年7月、1億円近い手形の決済を控え、弁護士の
ところに相談に行くと、自己破産しかないというのだ。
死刑宣告を受けたように頭の中は真っ白になる。
ふらつく足どりで、それでも駅前の書店に立ち寄った
のは、今では偶然とは思えない。ぼうっとしたまま
眺めていくと、飛び込んできた本があった。
村松謙一著「こうすればゼッタイ倒産しない(株式・
有限)会社になる」。タイトルに惹かれ、数ページ
めくっているうち、抜け殻の身体に電流が走った。
「会社を再びよみがえらせることこそが”正義”なの
です」とのメッセージに震え、その場に突っ立ったまま
最後まで読み通し、家に戻ってまた3度続けて読み
返した。
「満身創痍の状態で東京の事務所に駆け込んで、先生の
笑顔を見たとき、やっと人心地ついたと思えました。
で、こちらの資料をばーっと見ると、開口一番”今まで
よく頑張ったね”と言っていただいたんです。思わず
涙が溢れました。」
村松弁護士はさらに続けた。
「この状態なら倒産しないよ。君は若くて、やる気が
みなぎっているじゃないか」
実際は店に行くと、商品はポツポツ、埃は目立つという
痛ましさだ。しかし酒屋という既得権、現金商売の強み
に加え、手形は振り出していない、何より33歳の若さが
村松弁護士に一肌脱がせる気持ちにさせたのだった。
96年8月、村松弁護士と一緒に金融機関の担当者と
会う中逵さんの心臓は、音が聞こえるほど高鳴っていた。
まるで刑期を聞く囚人の気分だ。銀行の担当者は、硬い
表情を露にしている。
「弁護士さんが?何しに来たんですか?」
警戒する相手に、村松弁護士は中逵さんの会社の窮状を
率直に伝え、「ですからしばらく返済できません。一時
停止をお願いします」と理路整然と訴えた。
「そんなこをするんじゃ、会社を競売にかけますよ」
競売になったら一巻の終わりだ。中逵さんは息が止まる。
間髪入れず、村松弁護士は言ってのける。
「いいですよ。どうぞ競売してください」
うっとつまる担当者。
「ボク、それ聞いていて、オシッコちびりそうになり
ましたわ」
法律に精通した経営者を目指し
外に出て驚嘆する中逵さんに、村松弁護士は諭すのだった。
「競売は銀行にとっても最後の手段だし、決して怖いもの
じゃないですよ。今のあなたのやるべきことは、在庫を
増やすことです。命のお金を今は一円たりとも銀行に
払ってはいけません」
大口の取引先も、弁護士が来たと仰天する。
村松弁護士は事業計画書を差し出すと、滞っている仕入れ
金は銀行より優先して返していくことを確約し、中逵さん
と一緒に頭を下げる。
すると最初は感情的だった相手も、次第に取引再開に
応じる意向を見せてくれるのだった。
返済先を一緒に回りながら、中逵さんは奥から沸き立つ
ものを感じだす。中逵さんは法学部の出身である。
大学時代は無味乾燥の言葉の連なりにしか思えなかった
条文の数々が、こうして自分を守り、人を動かし、現実と
したたかに落としどころを探りあうものとして機能して
いる。
これ以後、中逵さんは法律の勉強を始めるのである。
金融機関側の理屈を知るため、家族や従業員を説得する
ため、時折襲う底知れぬ不安や罪悪感につぶされない
ため・・・。
手元から専門書を離さず、わずかの間隙を縫っては読み、
少しずつ少しずつ理解を深めていった。
その日々は、今の中逵さんの腰骨を作ることになるので
ある。
「ぼくのやり方をよく見ておきなさい。自分の会社を
立て直すこともできるし、他の人の相談に乗ることも
できるようになるから」
村松弁護士も、中逵さんが法律に精通する経営者になる
ことを期待した。
銀行の返済をストップし、支払いも分割にしてもらい、
村松弁護士の協力を得ながら、店は少しずつ立ち直って
きた。空っぽだった倉庫にも、ビールケースがいっぱい
積み込まれる。
が、競合店は増える一方で、売上は全盛期の数分の一と
いうところで伸び悩み続けた。
99年、銀行返済のため自宅を競売。移った先は、4畳半
が三部屋という家賃6万円のささやかな借家だった。
ほとんどの家具はマンションに残してきた。
「引っ越したときはほっとしました」中逵さんはしみじみ
そう言う。
「これが自分の収入にあった本当の暮らしだ。今の自分を
正直に見せている家だと」
奥さんも「やっとこれで落ち着ける。狭くても安心だね」
と、肩の荷を下ろしたようにつぶやいた。
「村松先生にも報告しました。そうしたら、モノはなくても
生きていける。命さえ無事で、事業が残ればいいと言って
くれました」
01年、今度は店の競売を銀行から要求される。
「それでも諦めちゃダメだ」と村松弁護士は叱咤する。
「知ってる人に落札してもらって、人から借りながらやれば
いい」
尼崎の店は完全に手放したが、大阪の店は村松弁護士の指示
どおり、知人に売って、賃貸で店を続けていくことになった。
もうこの時期は、法的な理解も深まって、無闇な不安に襲わ
れたりはしなかった。
03年から売上がまた少しずつ落ち始めた。
酒類販売免許の規制緩和はさらに進み、免許制から届出制
へと変更になる。
とっくに、酒はスーパーでもコンビニでも、手に入るように
なっていた。ディスカウントショップの使命はもう終わった
のかもしれない----。
消費税滞納の騒動が起ったのは、そんな時期だ。中逵さんは
腹を固めた。だましだまし続けるよりも、新天地で頑張った
ほうがいいのではないか。
40歳。まだ切り替えはできるはず。
04年7月。ついに閉店。
そして会社は清算した。十数年に及ぶ長い闘いだった。
ボロボロに打ちひしがれたなか、二人の娘の寝顔を見ている
うち、以前村松弁護士に言われた言葉が甦った。
「君は倒産の淵に立っている人の気持ちが誰より分かるから、
コンサルタントにもなれると思うよ」
倒産回避の専門家として活動を
現在、中逵さんは都内に単身赴任。大手コンサルタント会社
の企業再生コンサルタントとして、不況に苦しむ中小企業の
再建の活動を行っている。
不渡り確実を訴える企業からのSOSがあれば、全国どこに
でも飛んでいく日々。村松弁護士から伝授された人間救済の
流儀にのっとり、金融機関とも対等に渡り合う。
絶望的な気持ちを訴える経営者に、中逵さんは自分を体験を
さらけ出す。
「大丈夫です。そんな目にあった私でも今、ここにいるん
ですよ」
一念発起して今の会社に応募したとき、村松弁護士は
心からの推薦状を提出してくれた。
”企業再生を通じて人のお役に立てることに、彼としての
人生の役割を見出すべく・・・・”。
そして04年11月から倒産回避の専門家として動き始めた
のである。
「泥沼を這いずるような日々の中で、分かったことが
ひとつあります。人間は、失敗するから人間なんだという
ことです」
深夜、ときおりケータイが鳴る。
不安に襲われた経営者が、たまらずかけてくるものだ。
「中逵さん。食も喉を通りません。私は周囲の人たちに、
罪を作っているんじゃないでしょうか」
過去の自分に向き合いながら、中逵さんは答える。
「あなたが今、精いっぱいされていること。それが
あなたにとっての良心なんです、あなたは力の限りに
走っている。私はあなたが精いっぱい走ろうとする限り、
とことんお手伝いするつもりです」
連絡先
consul-n@goo.jp
中逵 努(なかつじ つとむ)