宗教の考えは、日常、稀に触れる事があります。普段、考えてもない宗教でも、例えば縁起あるいは、慣用句だったり。
私達は何かしら神に問い質したり、願ったりしているんじゃないかと思われます。
じゃ、宗教は、どうあるべきなのか?どう関与すべきなのか?
それは、人それぞれ考えるべき事だと思います。
オウム真理教一連の事件が発生して以来、宗教は否定的になった人もいるだろうし、宗教に対して警戒感を強くする人も少なくないと思います。
全うに宗教に向き合っている人達には、否定的な言葉は出来ないかと思います。
さて、そこで千分の一でも、この文章を読んで心の片隅に置いてやって頂ければと。
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宗教は歴史、社会、文化、現代を理解するために必要な教養・・・。
宗教の世界は、歴史の蓄積によるたくさんの言葉、概念、人名などの固有名、特殊な用語にあふれています。
しかし、本質的にはかならずしも必要とはいえない情報も多いものです。
さまざまな宗教を比較して考え、本質に切り込んだ宗教論を解説した『教養として学んでおきたい5大宗教』から一部を抜粋して勉強し、生活の向上・糧に役立てて欲しいと思います。
宗教は矛盾に満ちたもの「宗教がわかってない人はこの4原則を知らない」
宗教とは霊や神などをめぐる想像世界です。
霊や神や理法のようなものが宇宙に潜在している。
人間はその力を頼り、その意志に従い、その教えを守り、その極意を悟ろうとする。
それらは歴史的に構築されてきた共同主観的な観念世界ですから、地域の差、文化の差、系譜の差によって、多種多様な内容になっています。
大宗教ともなれば、いずれもおおむね愛や慈悲を説き、平和を勧めるものになっていますが、ディテールはすべて異なっており、世界観も忠誠の対象も違うので、宗教間の軋轢も生まれます。
愛や平和を説く宗教が戦いを正当化することもあります。 宗教は矛盾に満ちたものです。
人間の論理はしばしば矛盾に突き当たります。それが天界に投影されたものである神の論理が矛盾だらけであるのはある意味仕方がないのかもしれません。
宗教は多様とはいえ、皆似たような役割を果たしています。
主な機能は次の3つです。
① 奇跡を起こす
世界中の宗教が、病気治しをうたい、招福除災をうたっております。イエスは病人を癒やし、死者まで復活させたと伝えられています。
密教の行者は加持祈祷を行い、護摩(浄化の火)をたいて悪霊を退散させます。 これらはもちろん非科学的な話です。非科学的な信念に基づく実践を呪術(マジック、魔術、魔法)と言います。
宗教の機能の大部分は呪術です。死者にお供物を捧げるのも呪術であり、天に向かって祈るのも、しばしば呪術的な意識で行われるものです(祈りによって福を天から呼び寄せるという呪術)。
こうした呪術には心理的な働きがあり、病気などの場合、それが絶大な効果を上げる場合があります(心理状態がある程度身体状態にフィードバックされる)。
それにそもそも、ビジネスの企画から政府の政策まで、事がつねに未来の予測(占い?)に関わる以上、完全には科学的といえない希望的な要素はつねに存在します。それと同様のことを宗教が象徴的に行っているとも言えます。
あらゆる個人が「希望」を原理として生きている以上、どんなに絶望的な状況の者にも「希望」を抱く権利があるでしょう。それが奇跡待望という形をとることがあるのです。
② 秩序をもたらす
人々が同じ神話を共有することで、仲間意識を高め、スムーズな協力関係に入り、相互に善行を施しあうユートピアを部分的に現出することができます。これは人々に人生の目的と誇りを与え、アイデンティティーーの感覚を与えます。
互助のシステムの創出は、奇跡と並ぶ宗教の重要な機能です。
人間は神話を共有して「仲間」をつくる
人間は神話を共有して「仲間」をつくる 人間が動物と異なる最大のポイントは、何であれ神話を共有することで「仲間」をつくることができる点であるとも言われます。
歴史的には大宗教の神話が何千万、何億という人々に同一のアイデンティティーを与え、社会の秩序と潜在的な協力体制を維持してきました。
そうした秩序を与えるために、宗教はしばしば戒律あるいは神の法で人々を拘束します。戒律は古代に生まれたものなので、必ずしも合理的ではありません(意味不明のタブー、階級差別、性差別、性指向差別などが残存している)。
しかし神の権威で守られていますから変更はままなりません。
ここに多大な問題があります。 また、同じ宗教の仲間だという意識は、外部に対しては排他的な意識を高めます。
これはナショナリストの国民意識が外国人排斥を呼び起こすのと似ています。
③ 説明を与える
宗教は「人間とは何か?」「世界はどのように始まったのか?」「なぜ善と悪があるか?」「死んだらどうなるのか?」といった、高度に哲学的な問いに答えようともします。
いわゆる神学です。
これは哲学や科学の原型のようなものですが、あくまで民衆を感覚的に納得させるものですから、発達した哲学や科学から見たらツッコミどころ満載の不確かな説明が多いことも否定できません。
しかし、芸術的には印象深い説明になっています。
例えば創世記にある6日間の天地創造の物語は、ビッグバン宇宙論から見ればナンセンスですが、1つの心理的ドラマとして堂々たる印象を与えます。
神学の究極的説明は、あくまで個人個人の気持ちを納得させるためのものです。ですから究極的と言いつつ、状況に応じて論点をズラしていく。
言い訳を重ねる、のが常です。
例えば神に祈れば病気が治ると言います。
しかし治らない。
そこで「病気は神の試練です」とロジックを変えます。
また、悟れば人生の問題は解決すると言います。しかしいくら坐禅しても人生の問題は晴れない。
そこで「真の悟りはブッダのみにある」とロジックを変えます。
言い訳というと聞こえが悪いのですが、こうした知的操作を重ねることで、信者は人生の奥深さに目覚めていくことができます。
人生には裏があり、裏にはまた裏がある……この経験的事実を、神学もまた教えてくれるのです。
しかしまた、こうしたロジックになじむことによって、信者はどんどん思考の深みに引っ張り込まれ、人生の解決というよりも自問自答に一生を費やすことになります。
このような探求に興味を抱くのは、一部の信者、リクツの好きな信者に限られるでしょうが、そうしたエリート信者が聖職者や神学者になることで、宗教は次世代に伝えられます。
現代における宗教の可能性と限界
宗教のこうした仕組みは、近代になって多大な挑戦を受けました。
科学が発展することで、呪術や奇跡が幻想であることが明らかになり、近代的法制度や種々の機関をもつ国家が発展することで、宗教的戒律や教団的アイデンティティーは社会全体の運営原理ではなくなりました。
神学の説明もまた説得力をどんどん失っています。
今日、先進国においては、宗教は社会の主流を動かす力にはなっていません。 それでもそれはおおむね次のような形で、今日でも機能を果たし続けています。
(1)文化の基礎として
社会が科学の成果を大々的に取り入れるようになってまだ数世紀もたっていません。宗教は思想、語彙、習慣の形で文化の基層を成しています。
日本人は仏教の教理を復古的な宗教はもはや絵に描いたモチ
(2)かっての宗教的機能の部分的供給
として
かつての宗教的機能の部分的供給として 重病や絶対の貧困など苦境にあえぐ人々は、精神的な最後の砦として奇跡に頼る権利があるでしょう。
また国家や企業経済がまともに機能していないところでは宗教の互助的な働きは今日でもありがたいと言えます。死んだらどうなるのか、人生の究極的意味は何かなど、合理的には答えを出すことのできない問いに関して、宗教の説明を受け入れる人がつねに存在し続けるでしょう。
伝統的宗教は、人間の生産性の低かった古代・中世に生まれ、その社会に適応したものですから、基本的に自制や犠牲の徳を説き、物質的な追求よりも心の平安を目指すことを提唱しています。そうした教えそのものは、今後も有効だと思われます。
とくに、地球の大改造を続けてきた近代社会が地球温暖化という大変な難題を抱え込む結果になった21世紀の今日、「欲望が本質的な解決をもたらさない」という宗教の本質的洞察は意味をもってくるはずです。
また、東洋宗教の瞑想技術などは、厳しい現実の冷静な観察には有効でしょう。
もちろん、宗教が今後とも有効であろうというのは、あくまでも部分的な話です。古代・中世の人々のような、宗教こそが―病気治しや雨乞いから日々の生活指針、社会秩序や王権などの正当化、自然や社会に関する学問的説明までの全体に及ぶ―包括的な真理であるという思考法は、この数百年の間に実質的にほとんど力を失いました。
過去の幻想にとらわれている過激な復古主義者(イスラム教やキリスト教などの宗教原理主義者)といえども、その幻想を復興するために、近代兵器を用い、ネットなど現代的情報テクノロジーで無知な若者の勧誘に狂奔しています。それによってさらに伝統宗教の供給してきた分別、知恵、精神的鍛練は損なわれつつあります。
復古的な宗教はもはや絵に描いたモチでしかありえないでしょう。
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上記の文章は、ある“本の広告プレゼン”です。