ニケとミケ

捨て猫にゃん子2匹と、先輩捨てられ犬チョコの日々の記録

ようやく枕草子、読み終える。但しまだ上巻。

2011-08-03 22:29:10 | 
                                       

 ブログを調べたら、6月3日に「徒然草」を読み終えているので、多分その一週間くらいあと、6月10日くらいから、「枕草子」の上巻を読み始めたと思うのですが、昨日深夜にようやく、解説も含めて446ページを読み終えました。

 仕事が忙しいせいもあり、本の中身が今一興味が沸かなかったり、分らない(理解できない)部分が多かったりで、例えばこれが井上ひさしさんの小説みたいな(ちょっと古いな~)物であれば、普通で3日。早ければ、一日で読み終えるのですが・・・。

 古典文学の中でも、「枕草子」なんかは、完全な上流社会(というか、皇室および公家社会)の話だけなので、どうにも興が乗りません。トイレ書斎で毎日、チマチマとページを進めてきました。それでも、活字中毒の、禁断症状の緩和には役立ったようで、新聞を読む暇が無くても、トイレに入れば、老眼鏡とともに、そこに「枕草子」が有るので、つい、パラパラと読む、という仕儀な訳です。

 気になる言葉や文章などがあれば、付箋をつけますが、今回は僅かに5枚。先に読み終えた「徒然草」は14枚。「今昔物語集」に至っては、47枚(4巻でですが・・)。やはり、読後の感は今一でした。

 今日から下巻が待っています。他にも何冊か読みたくて買った本があるのですが、読み始めた本は全て読んで次の本、と自分で決めているので、また2月ほど我慢が続きそうです。

                     

徒然草

2011-06-03 22:39:21 | 
                    

 ようやく、「徒然草」が読み終わりました。随分時間がかかって・・・たぶん一月位かかったのでは、ないでしょうか。先月は本当に忙しくて、新聞やテレビを見ている暇も無かったので、本を読む、という時間も取れませんでした。(当然このブログの更新も途切れがちになってしまって・・・)

 それでも、活字中毒気味なので、一日に僅かでも、活字を読まずに居られません。ということで、必然トイレ書斎に持ち込んでいた「徒然草」を、チマチマと毎日何ページかずつ読み続けていたのでした。

 徒然草は、誰もがそうでしょうが、中学の古文でまずは「徒然なるままに・・・」という、余りに有名な書き出しの冒頭の序段を習います。よほど、勉強に余裕がある人間と物好きな人は、そののまま勉強したかもしれませんが、たぶん殆どの中学生(私もその中に入ります)は、「徒然草。吉田兼好」くらいしか覚えずに、通り過ぎます。

 再び「徒然草」を見るのは高校で、受験対策としてではないでしょうか。私はそうでした。中身がどうのこうのより、どの部分が受験に出やすいか、とかに重きを置いて読んでいるので、内容は、一向頭に残っていませんでした。

 ここのとこズーと、古典文学を読み直しているので(鑑賞としては、初めてといっていい位ですが)、その一環として「徒然草」を手に取ったのですが、今回読んだのは、「角川文庫 現代語訳つきの徒然草」でした。いまさら、古語の勉強をしたり、古文の味わいを知ったりなんていうのは、無理な話なので、現代語訳を読んでいました。

 驚いたことに、気になる箇所(面白いことや、示唆に富んでいたり、他の本などとの関連がありそうなものなど)が16ヶ所もあって、本自体の段落は(お話)、200段くらいなので、割合からすると、なるほど、昔の方が、教本として読み続けられたのもうなずけました。

 意外にどこかの本で読んだような話がそこかしこに有って、そのたびに、他の本(例えば、今昔物語や、宇治拾遺物語 なんかですね)を斜め読みして、探したりしているので、余計に時間がかかりました。ま~現代の考え方からすると、おかしいというか、そぐわない考え方も多数あって、いわゆる、上流人だった兼好の時代を感じるとともに、江戸時代ほどではないにしても、身分の違いが思考の主流を占めていた時代を感じました。(平安時代の話は、公家さんが主人公ですから、一般人(下司)はゴミ扱いです)

 徒然草の個別の話はまたの機会に書こうと思いますが、大変感心したのは、この本の現代語役を担当した、今泉忠義さんのあとがきが素晴らしくて、まさに的をえた解説(あくまで、あとがきなんですが)で、私が読みながら感じていたもろもろの感慨に、ある程度の答えを出してくれていて、最後に「どうせなら、枕草子も読んでみるといいよ」みたいなことが書かれていて(こんなにくだけた表現ではありません)思わず、読む気になりました。

 高校の時手にしたのも、同じ本だったように思うのですが、こんなあとがきが載っていた事は、頭の片隅にも残っていません。

 今月も、同じような忙しさになりそうな感じですが、トイレ書斎で、チマチマと本を読み続けようと思っています。
                   

責任転嫁。

2010-12-19 16:09:27 | 
                    

 昨日書いた漁師の話ですが、ちょっと書き足りない部分があったので、今日はその続きです。

 なぜ、漁師は奥さんと、さしたる口論もせずに、カレイ(神様かな)に、非常識なお願いをし続けたのか?

 たぶん答えは、今日の表題になっている「責任転嫁」だと思うんですよ。

 奥さんの注文は、どう考えても理にかなっていません。本来ならば、三段論法によるのかは、定かではありませんが、漁師が奥さんに、コンコンと話して我慢させるのが当たり前です。ところがお話では、二言三言、遠慮気味に「そりゃーまずいんじゃないかい」みたいなことを言うだけで、、ヒステリー気味の奥さんに「早くいってきて!」と言われると、すごすごと神様に頼みに行くのです。

 怖さからいえば、当然神様の方が怖いはずです。ですが嫌なのは、奥さんとの口論や、喧嘩のほうなんでしょうね。そして、奥さんが、理詰めの話を理解できる人ではないことを、漁師は分かっていたのでしょう。げに恐ろしきは「感情なり」です。

 こういう時どうするか・・・あなたならどうしますか?

 私なら・・・「さわらぬ神にたたりなし」言われた通りにしますね。間違えていてもそれは、私の責任ではありませんから。そしてこういう時、最も効果があるのが、他の人の意見なのです。

 私もそうなのですが、妻に「それは違うよ」みたいに言われても素直に聞き入れられない時があります。ところがそこで第三者が「やっぱり違うわ」みたいに言うと、素直に違いを認めるのです。
 話として、直で話すより、ワンクッションおいた方が丸く収まる事も多いですしね。

 このお話の漁師さんも、第三者に(この場合は神様ですね)「無理だよ」と言ってほしかったんだろうな~と思います。そうすれば、帰宅して奥さんに、「神様がダメって言ってるんだから、しょうがないだろう。我慢しようよ」みたいなことが言えて、そうすると、奥さんの怒りの矛先は神様に向かうわけで・・・いくら奥さんでも神様とは喧嘩しないでしょうし、神様から言われればしょうがない、と諦めるのではないでしょうか。

 「ダメだし」の責任を神様にお願いする。悪者を他人(第三者)にするというのは、日本的な知恵だと思っていたのですが、このお話を改めて読んでいる内に、洋の東西を問わないんだな~と感心しました。

 神様が元の状態に戻した時、漁師はきっと、ガッカリするより、ホッとしただろうなと思います。

                                    

グリム童話 漁師とその妻の話から

2010-12-18 21:49:01 | 


 みかんも少し元気になってきたようで、妻とニケとの猫じゃらし遊びに、手だけですが、参戦するようになりました。お腹がすくと「ニャ~ニャ~」とか弱そうに鳴いて催促します。すると、親ばかで、煮干を一本一本頭とお腹を取って、みかんの口に持っていって食べさせるのです。

 現在私が読んでいる本は、グリム童話集です。有名なお話の宝庫で、大抵の方が知っている話(たとえば、シンデレラ・靴を履いた猫・ヘンゼルとグレーテル・etc)数え上げればきりがない感じですが、全てドイツのお話で、おとぎ話の範疇に入ると思います。これは日本のおとぎ話(一寸法師や浦島太郎など)と同じく、子供だけでなく大人の読者も対象にした話ですが、話の採取の過程や、お話の完成度などからすると、今昔物語や、遠野物語に近いようにも思います。

 民俗学的研究も面白いのですが、グリム童話は、話自体面白いものが多くて好きです。そういえばよく勘違いしている方が多いようですが、グリム童話はグリム兄弟が作ったお話ではありません。ドイツで語り継がれていた昔話の類の話を蒐集して整理して編纂したものです。そういう意味で、遠野物語や、今昔物語・御伽草子・宇治拾遺物語などの古典の話と同質のものです。つまり、グリム兄弟は、遠野物語の柳田国男先生と同じなのです

 前振りが長くなりましたが、今日はそのグリムのお話の中で好きな「漁師とその妻の話」について書きたいと思います。

 話の筋は(知っている方は飛ばしてください)人のいい貧乏な漁師が海でカレイを捕まえます。カレイは魔法をかけられた王子様。命乞いする王子様のカレイを、純粋な気持ちで開放してあげた人のいい漁師は、あばら家に帰って奥さんに事の顛末を話します。

 すると奥さんは、「そんな良い事をしたんだから、カレイにお礼をしてもらっても罰は当たらんから、頼んでこい」と、ご主人のお尻を叩いて海に行かせます。青い空と穏やかな海で、奥さんの希望である小ざっぱりとした家を頼むと、カレイはすぐに希望を叶えてくれます。
 
 ところがご主人が家に帰ると、奥さんは「こんなんだったら、もっと大きな家が良かった。もう一度頼み直してきて」 と、ご主人を再び海に行かせます。再び希望を叶えてくれるカレイ。ですが奥さんの欲望は段々大きくなって、お城に住みたい、王様になりたい、法王になりたいとエスカレートしていきます。そのつど希望は叶えられますが、空の色が段々黒くなっていって、海の青さも失われて腐っていきます。

 とうとう奥さんは天子様になりたいという希望を出して、天の怒りで、元のあばら家に逆戻り(全てを失う)というお話です。


 この話は、すごく良くできていて 、人間の限りない欲望(特に女性のかな)と、天の(神様)報恩が見事に書かれています。 天の怒り方を、空と海の色や、風、波などの自然現象の変化で表しているのもすばらしいと思います。そして何よりいいのが、ご主人(人の良い漁師さん)です。小心者で人がいいだけのご主人が、本当は最も怖い天(神様)より、目の前の奥さんのほうが怖い、という現実。これは現実の世界でも有り、ですよね。私自身も・・・・有る、と思いますね。目の前の事で言い合いになって喧嘩はしたくないので、たいして理にかなって無くても我慢する。

 別の見方をすれば、家で嫌な事や意に沿わないことがあっても、家では何も言わず、外で発散する。という感じですかね。

 この話を読むたびに、この漁師が自分にダブってしまいます。幸いなのは、私の妻は欲深くない事ですね。