中心に従う
投稿者:出水の鶴 投稿日:2012年 4月14日(土)15時12分54秒 返信・引用
> No.36[元記事へ]
最近の練習ではもしかして丹田で打つと言うのはこういうことかなと思う事が有りました。力まないで打つ事とはこういうことかな、こんな感じかなと思いました。間違えていたら恥ずかしいですけど。
でも虎歩は中心に従い中心を打つのにもかかわらず逆らってしまいますので17日はご指導お願いいたします。
丹田で打つ
投稿者:k 投稿日:2012年 4月14日(土)18時24分52秒 返信・引用
出水の鶴さんが「丹田で打つと言うのはこういうことかなと思う事が有りました。」と投稿されています。返信として投稿しようかとも思ったのですが、私の戴氏心意拳とは系列が違うので、個人的な体験、感覚として述べてみたいと思います。
私の先生の言い方では「丹田の動きに技を乗せる」ということになります。
私の経験では先ず丹田が回るようになります。
これは感覚的にもはっきりと判りますし、自分の手で触って確認することもできます。実際初期の頃は丹田功にしろ虎歩にしろ手で触りながら今は巧くできた、できなかったと反省しながら行なっておりました。初期の頃と書いたのは段々下腹部が大きくなっていき手で触って内部の動きを感じることが難しくなってきたからです。第三者の方に動きを確認してもらったのは2008年に私の先生の来日講習会で助手を勤めた時が最後となりました。
ただ今も動いていると言う感覚はあります。
丹田の回転を続けていると丹田を中心として腰回りや足に力が入ってくるようになります。つまり僅かですが、丹田を中心として力が出てくるような感覚が生まれてきます。
先生の言い方を借りれば「戴氏心意拳の力は丹田から出る」ということになります。
私の場合はこの時点での停滞が長く、背中に力が入る、いわゆる岳建祖老師が著作の中で述べられている「背にも盛んに現れ」という状態にはなりませんでした。
それでも一年くらい前から「背にも時々少し現れ」という状態になり暮れにかけて「背にも安定してそこそこに現れ」る状態になりました。
二週間前に突然「丹田の動きに引気法の手法(手の動き)が辛うじて乗った」状態が感じられ、いよいよ老師の言う「私の身体は球体だ。だから拳を打つのもボールで遊んでいるようなものだ。」となったと喜んだのですが、週末の練習では全く駄目で今週になって多少戻ったかなという状態です。
最後の状態については記述できる程解っていないのですが、何か参考になるものがあればと思い投稿させて頂きました。
系列は違いますが同じ拳ということでお互いに刺激し合い得るものがあればと思って投稿させて頂きました。
丹田で打つ2
投稿者:袁天輝 投稿日:2012年 4月15日(日)08時48分6秒 返信・引用
本書「戴氏心意六合拳 技撃精要」は、技法編のところは、「丹田を練る」「丹田で進む」「丹田で打つ」の三本柱で構成しました。それぞれが身法、歩法、手法(技法)と対応しています。身法、歩法、手法は戴氏心意拳の練拳の構成ですし、「丹田を練る」「丹田で進む」「丹田で打つ」という表現は、戴氏心意拳の特徴をよく表している表現だと思っています。丹田を練るは、「養丹田」という言葉もありますが、王映海師父は高いレベルの丹田の養成という意味で使っていることが多かったです。煉丹田という表現もありますが意味合いをとらえてもらう時に使ったりもします。「丹田で進む」は「搬丹田」の意訳です。丹田を運ぶという直訳も使えるわけですが、指導の場に応じて、進むなのか、すすめるなのか、運ぶなのか、とか言ったことは使い分けています。「丹田で打つ」という表現は、直訳ではなくこれも私なりの意訳です。戴氏は丹田からの勁力を梢に伝えることを強調される武術ですし、それがなければ戴氏心意拳ではないとも言えます。そういう意味で「丹田で打つ」という表現がピッタリくるのではないかと思ったのです。
感覚をつかむ
投稿者:袁天輝 投稿日:2012年 4月15日(日)10時33分51秒 返信・引用
出水の鶴さん、
「丹田で打つ」と一言で言っても、人それぞれの感覚や練拳者のレベルによっても違ってくる。
戴氏心意拳の伝人たちにしっかりとしたものを学びながら、練拳を続けていることで生まれてくる感覚は、
我流の感覚ではなく、確かな感覚です。
「失敗するとを恐れてはいけない。立ち止まることを恐るべきだ」と王喜成老師は私たちによく語ります。
その時々の感覚をこの掲示板でも、こんな感じでした。とレポートしてください。みんなでそれぞれの感覚を出し合い共有し合うって自分自身も他のみんなも高め合っていけることだと思います。
投稿者:出水の鶴 投稿日:2012年 4月14日(土)15時12分54秒 返信・引用
> No.36[元記事へ]
最近の練習ではもしかして丹田で打つと言うのはこういうことかなと思う事が有りました。力まないで打つ事とはこういうことかな、こんな感じかなと思いました。間違えていたら恥ずかしいですけど。
でも虎歩は中心に従い中心を打つのにもかかわらず逆らってしまいますので17日はご指導お願いいたします。
丹田で打つ
投稿者:k 投稿日:2012年 4月14日(土)18時24分52秒 返信・引用
出水の鶴さんが「丹田で打つと言うのはこういうことかなと思う事が有りました。」と投稿されています。返信として投稿しようかとも思ったのですが、私の戴氏心意拳とは系列が違うので、個人的な体験、感覚として述べてみたいと思います。
私の先生の言い方では「丹田の動きに技を乗せる」ということになります。
私の経験では先ず丹田が回るようになります。
これは感覚的にもはっきりと判りますし、自分の手で触って確認することもできます。実際初期の頃は丹田功にしろ虎歩にしろ手で触りながら今は巧くできた、できなかったと反省しながら行なっておりました。初期の頃と書いたのは段々下腹部が大きくなっていき手で触って内部の動きを感じることが難しくなってきたからです。第三者の方に動きを確認してもらったのは2008年に私の先生の来日講習会で助手を勤めた時が最後となりました。
ただ今も動いていると言う感覚はあります。
丹田の回転を続けていると丹田を中心として腰回りや足に力が入ってくるようになります。つまり僅かですが、丹田を中心として力が出てくるような感覚が生まれてきます。
先生の言い方を借りれば「戴氏心意拳の力は丹田から出る」ということになります。
私の場合はこの時点での停滞が長く、背中に力が入る、いわゆる岳建祖老師が著作の中で述べられている「背にも盛んに現れ」という状態にはなりませんでした。
それでも一年くらい前から「背にも時々少し現れ」という状態になり暮れにかけて「背にも安定してそこそこに現れ」る状態になりました。
二週間前に突然「丹田の動きに引気法の手法(手の動き)が辛うじて乗った」状態が感じられ、いよいよ老師の言う「私の身体は球体だ。だから拳を打つのもボールで遊んでいるようなものだ。」となったと喜んだのですが、週末の練習では全く駄目で今週になって多少戻ったかなという状態です。
最後の状態については記述できる程解っていないのですが、何か参考になるものがあればと思い投稿させて頂きました。
系列は違いますが同じ拳ということでお互いに刺激し合い得るものがあればと思って投稿させて頂きました。
丹田で打つ2
投稿者:袁天輝 投稿日:2012年 4月15日(日)08時48分6秒 返信・引用
本書「戴氏心意六合拳 技撃精要」は、技法編のところは、「丹田を練る」「丹田で進む」「丹田で打つ」の三本柱で構成しました。それぞれが身法、歩法、手法(技法)と対応しています。身法、歩法、手法は戴氏心意拳の練拳の構成ですし、「丹田を練る」「丹田で進む」「丹田で打つ」という表現は、戴氏心意拳の特徴をよく表している表現だと思っています。丹田を練るは、「養丹田」という言葉もありますが、王映海師父は高いレベルの丹田の養成という意味で使っていることが多かったです。煉丹田という表現もありますが意味合いをとらえてもらう時に使ったりもします。「丹田で進む」は「搬丹田」の意訳です。丹田を運ぶという直訳も使えるわけですが、指導の場に応じて、進むなのか、すすめるなのか、運ぶなのか、とか言ったことは使い分けています。「丹田で打つ」という表現は、直訳ではなくこれも私なりの意訳です。戴氏は丹田からの勁力を梢に伝えることを強調される武術ですし、それがなければ戴氏心意拳ではないとも言えます。そういう意味で「丹田で打つ」という表現がピッタリくるのではないかと思ったのです。
感覚をつかむ
投稿者:袁天輝 投稿日:2012年 4月15日(日)10時33分51秒 返信・引用
出水の鶴さん、
「丹田で打つ」と一言で言っても、人それぞれの感覚や練拳者のレベルによっても違ってくる。
戴氏心意拳の伝人たちにしっかりとしたものを学びながら、練拳を続けていることで生まれてくる感覚は、
我流の感覚ではなく、確かな感覚です。
「失敗するとを恐れてはいけない。立ち止まることを恐るべきだ」と王喜成老師は私たちによく語ります。
その時々の感覚をこの掲示板でも、こんな感じでした。とレポートしてください。みんなでそれぞれの感覚を出し合い共有し合うって自分自身も他のみんなも高め合っていけることだと思います。