祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

技術

2014-09-13 21:19:02 | 練習日記

戴氏心意拳の「無足の法」 投稿者:k 投稿日:2012年11月 4日(日)14時58分45秒 返信・引用 編集済


大分以前のことですが、練拳仲間のSさんから貸してもらった本の中で「無足の法」という術理が説明されていました。
内容は「刀を振り下ろす時膝を抜いて(浮身という)一瞬身体(の両足)が浮いた状態を作ると、刀を振り下ろす推進力で足で地面を蹴ること無く前に進める」と言った内容です。
これを読んだ時、戴氏の歩法は「戴氏心意六合拳技撃精要」にもあるとおり、「足は地をしっかりと掴む」と指導されていたので「足の裏が浮いた状態」になる無足の法とは違うなぁ と思っていました。

ところが最近になって「無足の法」の本質は「足の裏を浮かせることではなく(これは浮身)、足の筋肉を使わないで足を動かす」ことだと理解できました。
甲野先生(←ご存知ですね)は「無足の法」を「水鳥の足」呼んでいます。この名称は「浮身の状態で腰を回転させると両足が同時に動く(甲野先生は回転と言う言葉を嫌って腰の切れと表現されています)」ところに由来しているそうです。
確かに、地面を蹴ることで足に力を入れる場合は「このように両足を同時に動かす」ことはできません。

その意味では片足で行なう丹田功も「丹田の回転」で「足を動かす」のですから、「刀の振り下ろし」や「腰の切れ」で足を動かす「無足の法」の一種と考えてもよいかもしれません。
「丹田の回転」で「足が動いている」かどうかは、来週Sさんに受けを取ってもらって確かめたいと思っています。

ちなみに、甲野先生の本や水鳥の足について教えてくれたのもSさんでした。私より武術歴も長く情報通なのですが先輩風を吹かすことも無く、謙虚な態度で色々教えて頂いております。





無足・・・ 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年11月 4日(日)19時38分55秒 返信・引用


 無足の法、回って回らず、順体、四方輪、井桁の術理・・・・など彼らが表現する言葉には、武術をする私たちには、参考になることが多いですよね。
 無足の法、回って回らず、順体、四方輪、井桁の術理・・・・どの理論も戴氏心意拳と異なることは何もないと思っています。
 戴氏心意拳では、「先練重動、後練軽動、然後練霊動」(先ず、重動を練り、次に軽動を練る。しかる後に霊動を練る)と言われるように、無足の方も軽動から霊動に昇華される時に無足になっていきます。「足は地をしっかりと掴む」のは、重動、明勁を練っていくときに必須です。重動、明勁を練る中で爆発力が養成されてくると、その安定した、どっしりとした動きから、足で勁を作っていく方法から丹田から発せられる勁力に変わっていく。足は自由になり、施歩(施は手へん)すっと移動する方法へと変わっていく。
 「回って回らず、順体」というのは、まさしく「斜正」の理論と同じですよね。「斜正」を斜めを向く、正面を向くといった説明しかできないレベルだといつまでたってもうまくならないと思います。
 「四方輪、井桁の術理」などで言っていることは、戴氏では波のたとえだとか、「呑吐」だとか様々なところで言われていると思います。
 戴氏が面白いなと思うところは、彼らが何十年かけて見つけたことが、しっかりと理論としてあるし、そこに行く道筋としてしっかりと位置づけられていることだと思います。





Re: 無足・・・ 投稿者:k 投稿日:2012年11月 8日(木)19時48分20秒 返信・引用


> No.161[元記事へ]

うさぎさんへ

無足の法に関しての投稿ありがとうございました。

>  無足の法、回って回らず、順体、四方輪、井桁の術理・・・・など彼らが表現する言葉には、武術をする私たちには、参考になることが多いですよね。

実は甲野先生の本は「表の体育裏の体育」と「武術を語る」を読んだだけなので「回って回らず、順体、四方輪、井桁の術理」は初めて聞きました(^_^;)。
甲野先生の本には「身体各部の別々の動きを合成して、より有効な技とする感覚を「多方向多要素同時運行把握」と呼んでいる」と言う記述があり「有効な技」として「接触面の圧力を徐々に少なくする溶暗技法」と言うものが紹介されていますが、「井桁の術理」と言うのはこれの発展系なのでしょうか。

>  無足の法、回って回らず、順体、四方輪、井桁の術理・・・・どの理論も戴氏心意拳と異なることは何もないと思っています。

実はこの点に関しては私は「戴氏心意拳の無足の法」は「振武館(でよかったのでしょうか(^_^;))の無足の法」とは本質的に異なっているのではないかと思っています。

どう異なっているかと言うと「振武館の無足の法」は書籍の中でも述べられているように「術理」だと思います。それに対して「戴氏心意拳の無足の法」は術理ではないと認識しているのです。

「じゃ、何なんだ」と言うことに関しては今週末回数を分けて投稿しようと思っています。

特にうさぎさんのコメントに対する反論ではないので新しい投稿で書いてみたいと思います。





術理と摂理 投稿者:k 投稿日:2012年11月 9日(金)21時12分43秒 返信・引用 編集済


下の投稿の続きです。実はこの内容は三つ下の「戴氏心意拳の「無足の法」」の続きとして投稿するつもりでした。
うさぎさんの投稿が間に入ったのでより論点が明確になりました。

先ず、術理とは何かと言うことですが、これは「術(を構成する身体の動作原)理」ではないかと思います。
つまり、術理としての無足の法は「腰の回転で前後の足を同時に入れ替える」という動作原理ですから、滑り易い床の上で滑りやすい靴下を履いていれば浮身と言う動作原理がなくても単独で使えることはできると思います。現実に武術として使用する場合は浮身との併用になると思いますが、甲野先生の本では無足の法(水鳥の足)に「溶暗技法」の術理を併用した技が紹介されています。これに対して、黒田先生の本では「最小最大化原理(だったと思います(^_^;)」と言う別の術理が併用された技が紹介されています。つまり、「術理」とは「術、つまり技を構成する(単独で実現できる)動作原理」だと思います。

これに対して「戴氏心意拳の無足の法」は摂理の具現だと解釈しています。

摂理の本来の意味は「「すべては神の配慮によって起こっている現象」ということ。」らしいのですが、ここではそれから派生した「(神の配慮ではなく)自然の法則によって必然的に起こる現象」と言う意で使っています。私は決して「危ない宗教オヤジ」ではありません(^_^;)。

つまり、戴氏心意拳の無足の法とは「丹田の回転によって必然的に起こる足の動きの中に含まれる要素のひとつ」と解釈しているのです。「丹田の回転によって必然的に起こる足の動きの中に現れる別の要素」は「戴氏心意拳の浮身」と言う要素になります。具体的に記述すると「虎歩の状態で丹田が回転する時、(腰の回転ではなく丹田の回転によって)足がくの字に動き(無足)、同時に土踏まずが上がる、つまり(膝の抜きでなく丹田の回転によって足が丹田の方に引っ張られる、つまり)足が浮く(浮身)」となります。この場合は「丹田の回転によって起こる足の動きが無足と浮身と言う要素で構成されている」のですから、これらの要素を別々に取り出して具現することは不可能と言うことになります。

YouTubeでは解りにくいので可能ならばビデオで観て頂きたいのですが、霍先生はこの浮身を使って地面を蹴ることで技撃の威力を増しています。





練法というテキスト 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年11月10日(土)23時33分5秒 返信・引用


kさん kさんの言われる「摂理」が中国武術にあるのは、練法がしっかりと確立していることが大きいと思います。
例えば丹田功という、練法を学び熟練することによって、かつての達人たちが学び得たものを、同じように学び取って行く。「恋愛は論じるものではなく、するものだ。」と同じように、術理を言葉を尽くして説明はできて、納得はできても、武術することとはまた別だということは、肝に命じなければ、武術はその人のものにはなっていかない。
中国武術は、練法というかつての達人が、学び得てきたものを、自分たちも追体験、追学習できる、壮大なるテーマパークなのだよと考えていいのではないでしょうか?





戴氏の思想性 投稿者:k 投稿日:2012年11月11日(日)06時32分55秒 返信・引用 編集済


人間は「自分、そして人間とは何か」を追求したがる動物なのでしょう。この興味を満たす方法は人それぞれだと思います。
哲学的に答えを求める人もいるでしょう。陸上選手になり「どれぐらい速く走れるか」という「自分(の一面)」を探す人もいると思います。オリンピックが人々を魅了するのもそこに「人間の可能性」をみるからでしょう。

本能的に「幸せになりたい。よりよい人生を歩みたい」という願いが「自分探し」と結びついた時は人は何を探すのでしょうか。
「社会的成功」の観点から「自分にとって一番大切なもの、つまり本質」を追求する場合は「どれぐらい速く走れるか」よりも「どれくらい頭を良くすることが出来るか」を追求する人の方が多いと思います。学歴主義から「頭の良い子に育てよう」までと言った感じですね。
養老孟司が注目されたのも「(よりよい人生を生きるための)人間の本質は頭なので、大脳生理学の権威者の意見を聴こう」といった側面もあったのではないでしょうか。ちなみに養老孟司の前に注目されていた文化人も名前は忘れてしまいましたが東大の大脳生理学の教授でした。
医学を志す人も優秀な人は東大を目指し、その中でも特に優秀な人は脳の研究を目指すそうです。まぁ、神戸大学を卒業して整形外科医からノーベル賞を目指すかもいるわけですか(^_^;)。

戴氏の動きは、「丹田の回転によって必然的に起こる動き」であり、これは「人間にとって大切なものはお金ではなく、お金で買うことの出来ない不老長寿である。これを授けてくれる丹田こそが人間の本質」という思想性をよく反映かつ具現しており、正に「静なれば道」が(程度の差こそあれ)実感できる動きだと思います。





唯脳論 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年11月11日(日)08時17分36秒 返信・引用


養老孟さんが、以前、唯脳論という話をされていました。最近彼の著作を読んでいないので、引用もできませんが、「私たちは、脳が感じ得た世界しか見ることができないし、私たちが脳で考えたものが世界になって行く。」といったようなとを言われていた気がします。面白いことを言いますよね。私は世界って私とは全く別の所に存在するのだとばかり思っていました。人と世界がつながっているというか、人は、世界と人、人と人、人と自然といったものがつながっているんだよといった優しいメッセージを送っている人のように当時の私には思えました。
「戴氏心意六合拳 技撃精要」の中に一貫して通底しているテーマの一つは、「つながり」だと思っています。天地人の三才は、人と世界がつながっていく方法であるし、重動の重さは「つながる」ことから生まれ、その重さが内面化し、軽くなり広がって行くのが霊動であること、三節は分断されるのではなく、互いにつながり協調一致して、同時に進行して行くこと。。。。。つながっていく具体的な戴氏心意拳というボディーワークの方法を書いているのだと思っています。






極真空手の浮身と無足 投稿者:k 投稿日:2012年11月12日(月)16時26分35秒 返信・引用


浮身とか無足は古流の術理として語られることが多いようです。
ただ私の個人的な経験では格闘技の中にも同じような感覚で技を使っている人も多いのではないかと思います。

高校生の頃少林寺拳法を練習していた時の話ですが、同じ道院(少林寺の道場のことです)で極真会の人も練習していました。経緯は忘れましたが練習後に飛び蹴りを見せ合ったことがありました。
少林寺の飛び蹴りは足が地面と平行に蹴りだされますが、この人の飛び蹴りは臀部というか足の付け根が上向きに回転して足と頭の位置がほぼ同じになります。スゴいとは思ったのですが足が地面に対して斜め上に蹴りだされるのでサンドバックを蹴るとあまり威力はでません。そこでこの角度だとあまり威力はでないのではないかと質問しました。その時の彼の答えは「腰を入れて蹴るためにこの練習をしている」と言うことでした。その後、通常の横蹴りでミットを蹴ったのですが、その威力は本当に凄まじかったです。通常の横蹴りは威力を出そうとすると軸足を使って腰を入れて蹴ることになります。これに対して彼の蹴りは腰を入れる動作はなかったのですが、威力自体は腰を入れて蹴った場合を凌駕しておりました。コツを聞いたのですが「飛び蹴りの要領で蹴る」とか「軸足を意識しないで蹴る」と言うことでした。当時浮身とか無足と言う言葉は知りませんでしたが、「軸足があっても無いものと考え、飛び蹴りの要領で蹴る」のですから、蹴った当人はこの軸足にある種の浮身、無足の感覚があったのではないかと思うのです。

何故このような昔話を書いたかというと「術理と摂理」と言う投稿で「この浮身を使って(浮いた足で)地面を蹴ることで技撃の威力を増しています。」という書き方がもしかしたら言葉不足だったのではないかと思っているからなのです。
つまり、「束身で縮まって浮身がかかった状態で丹田を中心とし展身する」時の状態が極真の方が見せてくれた「空中で腰を上方向に回転させる飛び蹴り」に(確信はありませんが)似ているような気がするのです。勿論、極真の方の場合とでは足の使い方が異なって入ると思いますか、気になったので投稿してみました。







浮身で人を浮かそう! 投稿者:k 投稿日:2012年11月16日(金)17時52分35秒 返信・引用


怪しげなタイトルですが、現在の私の目標です。

ただし、あの麻原彰晃も成功しなかった「人を抱いたまま空中浮揚を行なう」ことを目指しているわけではありません(^_^;)。

丹田功の時は「足が上に引き上げられ土踏まずが上がる時がある」のですが、Sさんに受けをとってもらう時(つまり飛んでもらう時)はこの感覚がないのです。

うさぎさんの投稿と少し違うかもしれませんが、私の予想では「土踏まずが強く上がるようになると足の指(と、もしかしたら踵)で地面を強く押せるようになり、丸い力がより安定する、つまり、強くなるのではないか」と期待しているのです。

現在の段階では「土踏まずが何とか少し上がる時がある」と言う程度なので、どうやってこのような状態にするかを考えているわけです。一つにはやはり「繰り返し練習する」と言うことだと思いますが、これだけでは不十分で頭が悪いなりに考えることも大切でしょう。

このヒントが「技撃精要」の63ページの図にあるのではないかと思っています。

実は袁天輝さんの大阪での講習会にお邪魔した時、この本の原本である「戴氏心意拳拳譜に見る技法とその根幹?基礎理論」で膝関節が回っている同じ図を見た時「膝の関節も回すのですか」と質問したことがありました。何故このような質問をしたかというと霍先生が休憩時間に膝小僧を回しているのを見たことがあったので、もしかしたら膝(小僧)関節の使い方も大切なのかなぁ と思ったのです。大阪の講習会から帰ってきて暫くの間は東京の練習会でも膝小僧を回していました(^_^;)。

結局その時は変化が感じられなくて止めてしまったのですが、土踏まずか上がってくるに従って膝小僧の関節が締まってくるので、もう一度この関節の閉め方(と緩め方)を検証してみようと思っているのです。前の投稿で極真空手の方の話からも「膝を柔らかく使う」ことが有効なのではないかと思っているのですが、どうなるでしょうか。






太極拳 投稿者:k 投稿日:2012年11月18日(日)14時39分19秒 返信・引用 編集済


以前太極拳の安田先生の講習会に参加したことがありました。

慢練を主体としているので 戴氏と共通した部分があるかなぁ と思っての参加だったのですが、体験させて頂いた感じでは霍先生の丸い力とは違っている印象でした。

久しぶりに安田先生のホームページを訪れたら、動画もアップされていました。懐かしい と思ってみてみたのですが、中国伝統武術研究会の太極拳の部(でいいのでしょうか)の動画もUpされてました。

安田先生の講習会は体験的な参加だったのでよく判らなかったのですが、戴氏と共通している部分もあるのでしょうか。

それにしても安田先生の太極拳は動きも頸も華麗でした。
霍先生が「戴氏心意拳の欠点はかっこが悪いことだ」と嘆いていたことかありました。その時は実感がなかったのですが、安田先生の動きを見て霍先生の発言が理解できたような気がしました(^_^;)。






美しさ 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年11月18日(日)20時27分34秒 返信・引用


太極拳は美しいですよね。人気も高い。
以下は私の持論ですから、笑いながら読んでください。(´▽`)
美人って、不幸だなあと思うことがあるんです。
不幸の始まりは、美しさを求めて、いろんな人が集まってくる。私もそうだけど、綺麗な人がいいに決まってますから!
だけど、一生を共にする人というのは、その人と合うとか、内面から美しい人とかそういう交わりの中で幸せになっていくのだと思うのです。
もし表面的な美しさだけに惹かれてやってきた人であれば非常に薄っぺらで、ある場合は不幸せになってしまうというのもよく見ることであったりします。
 美しくない人と一緒になるというのは、美しさではなく内面的な何かを求めていたり、一緒にいて居心地がいいとか、一緒に一生生きていけそうだとか感じるとか外見的な美しさではない何か魅力を感じるからこそ、惹かれていく。
 戴氏心意拳もそんな魅力だなと感じています。長拳みたいにカッコよくないし、太極拳のように美しさもない。戴氏心意拳は、いくらがんばたってアイドル的な人気者になっていくことはないと思うのです。美しさやかっこよさを求めてやってくる人はいない。
 私は戴氏心意拳は、魅力的な武術だと思っています。「実戦」武術ですし、「実践」哲学でもある。道でもあり芸術でもある。追求され熟練された動きには機能美とも言える美しさも持っていると思っています。
 一般に美人だと言われる人は、一目見て美しい。戴氏心意拳の美しさは、時間をかけ、努力し実践する中でしか生まれてこない美しさです。
表面的な美しさに人はすぐ集まる。だけど幸せを築いていくには、時間もかかるし努力もいる。
 戴氏心意拳は、外見上美しくもかっこよくもないですから、ハナから集まる人は少ないです。だけど、集まってくる人は、ほとんど戴氏心意拳に本質的なものを求めやってきているようです。太極拳や八極拳を求めてやってくる人は、続く人は少ないんです。だけど戴氏を始めた人は、やめていく人はほとんどいない。不思議なくらいです。外見的な美しさって、すぐに飽きちゃう。戴氏心意拳は、やればやるほど、追求していくものがあるし、だから続いていくのではないかと感じています。
たぶんkさんもそういう魅力にとりつかれている一人なのではと思いますがどうでしょう!?








うさぎさんへ 投稿者:k 投稿日:2012年11月18日(日)20時46分53秒 返信・引用


はい、その通りだと思います(^_^;)。


明勁から暗勁へ

2014-09-13 19:27:46 | 理論―陰陽五行、名言集
明勁から暗勁へ 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年10月28日(日)12時57分49秒 返信・引用


明勁から暗勁へと戴氏心意拳ではよくいわれる。
よく暗勁を短勁と同じ意味に誤解し、寸勁を単独で練習する人がいるが、暗勁は明勁の結果であり、明勁の修練のもとに生まれてくるものである。
寸勁は単独で練習しても力技の延長にしかすぎない。
明勁は、身体内部では、丹田から梢に達する勁を練り、外には前後に進む、相手に達する途切れのない勁力を形作る。
暗勁は、よく狭義に見えないところから繰り出される技と理解されてしまいがちだが、暗勁は、明勁が内在化されたものである。「起落は水の中の波浪がうねる」(戴氏心意六合拳 技撃精要P107)ように内は動いても外からは見えないものになっていく。
暗勁は、明勁を基礎に成り立ったもので、明勁の鍛錬なしには養成されない。
明勁は、伸びやかで長い姿勢、動作から作られる。勁が途切れない練習をしていかなけばならない。勁が途切れることを断勁という。断勁がどこで生じるのか、初心の頃は特にそれがわからない。断勁を消していくには、かなりの熟練が必要だし、しっかりとした師に教えてもらわなければ、知るとこはできない。
私たちは、まだまだ明勁の練習をして練っていかなければならないとつくづく思う。

心と意

2014-09-13 18:57:12 | 理論―陰陽五行、名言集
心意 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年10月20日(土)18時21分59秒 返信・引用


kさん 心意の心は日本の「こころ」とは、少し違います。むしろ、想いとかイメージとかいった静的なものですね。意はその想いにこうしよう、ああしようといった方向性が加わる。私なりの表現ですが。そういう意味では、心が右脳的で、意は言語との関連が強いですから、左脳的だと言えるかもしれません。脳の話をすると、人間の脳の奥の部分は原始脳ですよね。生きるための最低限の呼吸をするとか、心臓を動かすとか。人間的な高度な思考をするのは、むしろ脳の外側の部分です。本を読むとか、武術をするというのは、脳の外側の部分でしょうけれども、武術で身につけたものというのは、脳の奥の部分に記録されると思うんです。だから、忘れない。武術の動作が自然になっていくのは、頭で覚えたものでやっているうちは、不自然なものです。息をする、歩くと行った。自然にできるもの、忘れても自然にできるものって脳の奥深くにあるものだと思うのです。私の年になると、人の名前が、あれ?出てこないってことがよくある。しばらく良く考えると出てくるんですけど、しばらくあってない人だったりするとちょっと出てこないことってよくある。しばらくあっていない人は、脳のちょっと奥にしまいこんでいるんだろうなって思うんです。その引き出しがどかなあなんて探しているのに時間がかかったりします。息するのは、心意とはほとんど関係ない。もちろん不安になったら、息が浅くなったり、リラックスすると、呼吸が豊かになったりという関連性はある。歩くって、生まれて一年ぐらいかけてやっと身につけて行くわけですが、ぼけても、歩くことは忘れない。脳のかなり奥まで記録された行動だと思うのです。ローレンツが「人間は本能の壊れた動物だ」といったそうですが、人間が本能を獲得していくためには、多くの時間や努力、言語といったものが必要なのだと思います。心意拳が動物の形を真似て学んで行くものは、その動物が持っている本能を、人間が再構築して行く営みといっていいのかもしれません。おっとまた話がずれてしまってまた戻れなくなってしまいました。。。。。。。
武術を学ぶのは、言語や身体を使って脳の深層の部分を開拓して行く営みなのかもしれません。


Re: 心意 投稿者:k 投稿日:2012年10月20日(土)21時32分30秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> ローレンツが「人間は本能の壊れた動物だ」といったそうです

ウィキペディアに「ローレンツの最も大きな功績は、動物行動の観察という当時は軽視されていた古典的な手法を厳密に用い、科学の名に値するものに仕立てたことである。」と言う記述があります。

記憶違いかもしれませんが、狼の決闘で片方が瀕死の状態になると、勝った方は留めをささない という事実を観察し、「牙を持っているために本能的に同種の相手を殺すことができない」と結論付け、「自身の牙を放棄し、武器を選んだ動物がこの地球上に一種類だけいる。それは、人間である。これが人間が他の人間を殺すことができる唯一の動物である理由である」と推論した学者でしょうか

> 武術を学ぶのは、言語や身体を使って脳の深層の部分を開拓して行く営みなのかもしれません。

「本能的に同種の相手を殺すことができない」という狼の崇高さに少しでも近づけるといいのですが。まぁ、私の場合は夢のまた夢 なのですが(^_^;)。





本能を学ぶ 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年10月22日(月)23時58分22秒 返信・引用


人が「本能が壊れた動物である」なら、動物たちが本能として持っていることをひとはまなぶことによってしかえることはできない。「人是学而知之、不是生而自知」(人は学ぶから知るのであってもともと知っているわではない。)し、学んで本能を得ていくからこそ、(「人是万物之霊」)人は万物の霊長なのであろう。戴氏は、動物の本能的な動きから、武術の動きを学ぶ。学ぶことによって人は自由になり、自然になっていく。



セミナー感想

2014-09-13 16:51:20 | 練習日記
感謝 投稿者:水晶 投稿日:2012年10月15日(月)22時15分18秒 返信・引用


初めて書き込みさせて頂きます。

先日は長居公園において王老師より十月四日より三日間の講習を受けさせて頂き、本当にありがとうございました。

私は今回が初めての戴氏心意拳の体験でしたが、本当に素晴らしい体験をさせて頂き、心より感謝しております。

王老師の懇切丁寧な御指導と、先輩方の親切なアドヴァイスによって、何とか基本の丹田功が練習できるようになりました。

これからコツコツと少しずつ修練を重ねて行きたいと思っています。

またDVDができたら是非とも御願いします。


調和 投稿者:うさぎ 投稿日:2012年10月20日(土)18時43分37秒 返信・引用


水晶さん。3日間の講習、お疲れ様でした。戴氏心意が目指しているものは、「調和」であると思います。私たちが生きている社会は、とかく発展とか発達だとかといった、より高く、より強く、より速くという右肩上がりのものがよいという価値が組み込まれている社会だと思うのです。知らないうちに、効率的に無駄のないように生きるとが良いことなんだと焦っている自分に気づかされたりします。
「調和」というのは陰陽や五行の調和です。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といわれる、ように陰陽はバランスを保つように練拳する。根性主義とは違いますし、怠けとも違います。王老師が「休まなければならない」という話をされたのは、調和の中で伸びて行くということなのです。五行の話をすれば、木が伸びて行くのは土や水、土、金(この場合は栄養そ)がバランス良くあるからこそ伸びて行く。そんな考え方の中に戴氏心意拳の練拳もあると思うのです。





鍛錬知・身体知

2014-09-13 16:42:36 | 理論―陰陽五行、名言集
鯨の山に登る
投稿者:k 投稿日:2012年10月13日(土)19時39分29秒 返信・引用

ちょっと目を引く題名をつけてみました。ただし、初めの数行でネタはばれてしまいます(^_^;)。

大分前なので名前は失念してしまいましたが、東大で鯨の研究をされている先生がテレビに出演されていました。
当時鯨の肉と言えば「安いけれども固く不味い肉」ということで給食でこれが出るとみんながっかりしたものです。
そのな背景もあったのでしょうか。アナウンサーが「鯨の研究をして何の役に立つのか」といった無礼な質問をしていました。それに対する先生の答えが、「知能の高さを考えると哺乳類には二つの山がある。一つは人間の山で、もう一つは鯨の山です。人間を理解する一つの方法は人間の山に登る、つまり人間を研究することです。もう一つの方法は別の山に登って、その山から人間の山を観ることです。つまり、鯨を理解すると言うことは、違う角度から人間を理解すると言うことなのです。」と反論されていました。

当時小学生(か中学生)だった私は「なるほど」と思って聞いておりました。

時は流れ、霍先生の戴氏心意拳が理解できないで悩んでいた私は「もう一つの山に登ってみよう」と思い、心意倶楽部と言う王英海先生系の「戴氏心意拳 東京講習会」に参加しました。

ネット上での主催者の評価は色々あるようですが、「霍先生系の戴氏心意拳を練習している者ですが、講習会への参加は可能でしょうか」と言う申し出に対して、寛容な心で快諾して頂いたばかりでなく、おそらく門人の中で最高の実力を持つ方とのペアを組んで頂きました。

王英海先生系の基本技である「不来顧手」を体験させて頂いた時、「同じ要素と違う要素がある!!」と感じましたが、それ以上のことは判らず、何度も「もう一度お願いします」となってしまいました。その時、嫌な顔一つせず、私の身体を気遣って両手を腹の前でガードする形に直してから、「こんなものでも役に立てば」と何度も拳を打って頂いた高弟の方には今もって感謝しています。

このおかげて後日、「もしかしたら違うものかもしれない」と感じて参加した袁天輝さんの東京講習会でも、体験させて頂いた技は別物でしたが「全く同じものだ」と確信でき、その後の練拳の貴重な経験となりました。

鍛錬知・身体知
投稿者:うさぎ 投稿日:2012年10月14日(日)00時04分2秒 返信・引用

kさん いつもいろいろなご指摘ありがとうございます。
 本の方もいつもこの掲示板で評価してくださってありがたく思います。
 もちろん、一番の方法は、師について学ぶということだと思います。本はあくまでも手段にしか過ぎません。著者の方でも、練拳しながら、何度も何度も読んで欲しい。外国語を身につけるときに、わからない言葉や深めたい言葉を何度も何度も辞書で引きながら言葉を身につけていくように、線を引いたり、書き込みをしたりしながら、練拳の助けにして欲しいというのが願いです。
 「鍛錬知」という勝手な造語をしてしまいましたが、インターネットや書籍、人伝えで聞いた知識というのは、ただそれだけであれば、とても浅はかな表面的な知識です。
 師につき、門人になり、学ぶということは、自らを家族の一員として、さらけ出し、練拳し、あるときは「好い」と言われ、ある時はダメだと修正され得ていく知識というのは、具体的で鍛え抜かれ、身につけられた知なのだろうと思います。それは頭で考えたり理解した知識とは、異なる知なのだと思います。
 私たちが、戴氏心意拳という武術に出会い、はじめは強くなりたいとか、健康になりたいとか趣味の一つになればいいなとか、何か自分にとってのプラスアルファの部分として、体験してみようかなとやってみたものだったものが、いつの間にか戴氏の道を歩いていく間に
人生を歩いていくこととシンクロしていく。それは、知識を得ようといった外から見ている自分でなく、自らを師にさらけ出し、自分ができないということが分かり「好」「不好」を常に突きつけながら謙虚に学び、身につけていくこと、それが本当の意味で後になっていくような気がするのです。
 私も、いろいろな武道武術を学び、戴氏心意拳の各流派の調査もしてきました。
面白いなと思いました。温曲の心意拳には、12形があって、戴氏に間違いはなくても形意拳と共通する動作がある。とかいろんなことを知るのは、興味深いことだたし、ロマンだなと思いました。だけど、私自身は、それって私ではないなと思ったんです。知識欲であったり、人と違うことしてるぞ、人が知らないこと知ってるぞっていう顕示欲であったり、人が持っていない拳譜を持っているぞという所有欲であったり。私の役割は、日本人に武術の内容を紹介することではないと思ったのです。
 はじめは、欲の塊でした。戴氏の資料を持って行って、「この技法はどうするんですか?」「これはどう?」と質問責めにしました。しっかりと学び始めた初回の時は、15日間
一日6、7時間つきっきりで師父に教えていただきました。その間、手法は、diu把だけをひたすら教わりました。その時は正直言って、なんで他の物を教えてくれないのだろう。保守的だと思いました。それまで受けた他派の中国武術の講習会では、一回の参加で套路をひとつ教えてくれることは珍しくもなかったし。そういうものが中国武術を習得することだと考えていたんです。「少而精」の意味がわかっていなかったんですね。
遅くなりましたので中断!おやすみなさい。

Re: 鍛錬知・身体知 投稿者:k 投稿日:2012年10月20日(土)08時55分22秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

大分前にも同じ趣旨の投稿をしたのですが(^_^;)。

>  「鍛錬知」という勝手な造語をしてしまいましたが、インターネットや書籍、人伝えで聞いた知識というのは、
>ただそれだけであれば、とても浅はかな表面的な知識です。

確かにその通りだと思います。インターネット発達する遥か以前、まだ本の流通すら発展していたかった時代から、「一知半解」は戒められていたので、「浅はかな表面的な知識」で解ったつもりになってしまうのは凡人の本質かもしれません。

前の投稿にも書きましたが、練拳の「感覚」を拳譜(や拳譜が解らない人は書籍(^_^;))で「理解」していくことが大切でしょう。

今風に言えば右脳で練拳をイメージを通して捉え、そのイメージを左脳で言語を通して再認識する と言った感じでしょうか。
私の場合は理解したことを練拳に生かして、より良い練拳ができると更にイメージが膨らみます。

その意味でもこの書籍からの恩恵は大きいです。改めて本の著者には感謝です。

あまり自信はないのですが右脳が戴氏で言う「心」、左脳が「意」と関係しているかもしれません