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諸葛孔明南蛮征伐2

2017年09月17日 | 日記
 諸葛孔明はなぜ南蛮遠征を企てたのか。
 南方からゴムを入手しようとしたという説があるが、これは完全に時代考証を誤っている。我々はもっとまっとうな議論をしようではないか。
 入蜀第一世代にとって、大陸反攻は至上命題であったろう。しかし、姜維、鄧芝といった新世代がもっと自由に新天地をもとめたとしても不思議ではない。南蛮遠征は、魏との決戦のための布石、といったものではなく、四川を起点に南方へと大帝国を築くという、それ自体が目的の大事業であったのだ。
 四川から雲南。そこから?ラオス、タイ方面か。あるいはビルマ方面か。…諸葛孔明が手塩にかけた新世代がそれで満足するわけがない。
 インドである。
 四川からビルマを経て、ガンジス河の下流地域にいたるルートはとっくの昔にひらけていた。時代考証がおかしいとは言わせぬ。史記大宛列伝をよく読めば分かることだし、近年は仏教についても、このルートから長江沿いに伝わっていたことが知られている。ビルマから険しい山脈と深い密林を越えると、大河と大平原がひらけていることぐらい、蜀や呉の物識りには周知のことであった。
 魏や呉に対して蜀が劣勢であることは、火を見るよりも明らかだ。東方に活路はない。しかし四川に逼塞していても将来はない。
 南進、である。道は険しい。しかしそれが突破できない孔明ではないはずだ。援蒋ルートもインパール作戦も、諸葛孔明が先鞭をつけるのだ。
 インドは暑いぞ、孔明。その服装では相当無理がある。ここで、かつて趙の国で胡服騎射をめぐってくりひろげられたような、服装をめぐる大論戦がおこるのであった。あいにく史記世家のようにこれを伝える文献が残っていないのが残念だ。
 ところで、四川から出て新天地をひらくというなら、西方、というのはどうだろう。チベット方面だ。
 これについては、ひとつの伝説がなにかを語っているかもしれない。こんな話である。劉備玄徳があるとき単身車に馬を二頭つなぎ、西に向かった。馬の名はハヤタとハヤト。風のように走り、やがて崑崙山にいたった。玄徳はそこで西王母に出会い、彼女の歌に合わせて舞った。成都に帰ってからしばらくの間、玄徳はものも言わず魂の抜けたようなありさまだったという。この話は列子に残されている。