古い新聞記事を整理していて、ちょうど1年ほど前の2007年2月4日の朝日新聞朝刊12版15面読書欄の『お笑いの本棚』という特集欄に、お笑い芸人《アリ to キリギリス》の石井正則が感銘を受けた本として、吉田健一の『時間(同タイトルのエッセー所収・講談社文芸文庫)』を挙げていたのを見つけて以外な気がした。今時、こんな本を読む人がいるのだろうか...。
吉田健一は、戦後、日本が世界の表舞台に復帰する《サンフランシスコ講和条約》調印時の日本側首席全権・吉田茂の長男である。戦前、父・吉田茂が駐英大使だったので、教育は英国-----幼少時から英国人の家庭教師が付き、ケンブリッジ大学中退-----で受けたため、母国語は英語、日本語は外国語のようであったと言われている。よって、手紙などのような簡単な文章なら日本語でも考えられたらしいが、《文学の領域》のものを書く時は《まず英語で考え、それを頭の中で日本語に翻訳》して執筆したらしい。だから、高尚なことを真っ当に書いているのは解るのだが、その特殊な執筆手順のせいか、日本語が堪能な日本人の書いた文章と比べ、行間の呼吸がどこかしらおかしい-----ヨーロッパ系言語が関係代名詞・関係副詞でセンテンスをつなげていくのと同じように日本語を書くからだ。
金田一京助先生だったか、春彦先生だったか、あるいは大野晋先生だったかに、日本文学史上最高の《悪文》であると認定されている。
誰にでも解る顕著な現象としては、長いセンテンスを常用するにも関わらず、句読点が異常に少なく、日本語らしいリズムのない文体なのである。
誤解のないように説明しておくと、著作に目を通して頂ければ解るのだが、《日本文学史上最高の悪文》と認定されているとは言っても、私達素人が書く《悪文》とは悪文なりが違っている。吉田健一と私達素人の間には、《良い悪文》と《悪い悪文》という決定的な差があるのだ。
というわけで、吉田健一のその『時間』に関するエッセーも、彼ならではの奇妙な文体で書かれている。それに感銘を受けた《アリ to キリギリス》の石井正則が、吉田健一を真似た文体で、自分の『時間』に関する考察を書いたのがその記事であった。要約すると...
東京で生活している自分が生まれ育った横浜に帰ると、『時間』が自分に合った正しい速度で流れているのを感じる。ところが今年の元旦、母の雑煮を食べ、それにまつわる話を聞いた時、その『時間』が、実は自分だけのものではなく、自分と母の様々なものが絡み合った美しく複雑な『時間』であることに気付いた、と言うのだ。
お笑い芸人の看板をあげながら、以外とスマートなところを見せた石井正則の読書趣味と一文であった。
FINIS
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