きみの靴の中の砂

今時の『エリア随筆』




 1950年代まで、我が国の英語高等教育の重要なテキストであったチャールズ・ラム(Charles Lamb 1775 - 1834)の『エリア随筆(Essays of Elia)』も、今となっては、その知名度も含め、随分様変わりしたものだ。理由は、その文体に負うところも多かろう。

 『エリア随筆』中、珠玉の一篇とされる『古陶器(Old China)』の文末近くの例えばこの一文.....、

Yet could those days return -- could you and I once more walk our thirty miles a-day -- could Bannister and Mrs. Bland again be young, and you and I young to see them -- could the good old one shilling gallery days return -- they are dreams, my cousin, now -- but could you and I at this moment, instead of this quiet argument, by our well-carpeted fire-side, sitting on this luxurious sofa -- be once more struggling up those inconvenient stair-cases, pushed about, and squeezed, and elbowed by the poorest rabble of poor gallery scramblers -- could I once more hear those anxious shrieks of yours -- and the delicious Thank God, we are safe, which always followed when the topmost stair, conquered, let in the first light of the whole cheerful theatre down beneath us -- I know not the fathom line that ever touched a descent so deep as I would be willing to bury more wealth in than Croesus had or the great Jew R----- is supposed to have, to purchase it.

 日本語訳にしたら一頁近くにもなる、この一文-----これでワン・センテンスという典型的な古い英語の書き言葉である。戦後、『米語』が日本の英語教育の中心に据えられた瞬間から、こういった一文を含む文章は、我が国では次第に廃れゆく運命となった。

 『エリア随筆』の日本語への名訳は何種かあり、どれも苦心の翻訳と言える。すべて戦前の仕事で、漢語にも精通した世代の作業であることから、その訳文理解には漢語の素養もいささか不可欠である。また、いずれの訳本を手にする場合でも、遅かれ早かれ、今、入手し得る唯一の解説書とも言える福原麟太郎の『チャールズ・ラム傳』を繙読しないわけにはいくまい。それ程までに、今となっては理解するに時間のかかる、奥の深いエッセイである。

 特徴的なのは、日本語訳に取り組んだそれぞれの翻訳者(英文学者)が、その影響下、自らも立派なエッセイの制作に励んだところである。模倣を試みたくなる程、原典が魅力的な文学の領域に達していることは、誰に教わることなく、読む者に明快である。

 なお、『エリア随筆』でいう『随筆』は、『エッセイ』『論文』と同意であり、我が国で一般的に用いる、『随筆』『随想』『漫筆』『雑文』とは一線を画す。


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