きみの靴の中の砂

イチ子、アンダルシアへ





 先週の日曜の午前中、水口イチ子が、
「実は海外旅行専門誌の電子版が、内容は任せるから、三千二百字でエッセーを書いてくれって言うんだけど、困っているのは、アイデアがないんじゃなくて、どれを書くかで迷っているのよ」と言う。
「持てる者の悩みってわけだね。アイデアがない悩みよりはだいぶ楽観的な問題だ。締め切りが来週っていうんなら兎も角だけど、そうやって潜在意識で揉んでいれば、そのうちに噴火するよ。最初の一行の切っ掛けさえつかめたら、その先は簡単なんじゃないか、きみなら」とぼく。

「ところで、今日のランチは何にしましょうか」とイチ子が心配する時間。

「横浜で洋酒の輸入商をしている友達がいるっていうの覚えてるよね。決算でストックヤード・セールをやるっていうんで先週行ってきた。アモンティリャードのめずらしいのを見つけたから、在庫四本全部買った。さっき宅配で届いたやつだよ。税込で、だいたい売価の6割引きくらいだったかな。夜まで待ちきれないから、お昼に少し飲んじゃおうよ」
「アモンティリャードってシェリー酒の古酒でしょ? シェリーよりアルコールがスッキリしていてあたし好きよ、飲も飲も」とイチ子。
「一本飲んでしまいそうでやな予感がする!」とぼく。
「シェリー酒の本場ってアンダルシアあたりでしょ? スペインの自転車レースを取材に行ったときに味を覚えた。世界中の地酒がそうだけど、風土が育む味っていうのかしら、アモンティリャードってアンダルシアの早春の乾いた風と雲ひとつない青空を思い出すわ」
「良い感想です。知らない人なら行ってみたくなるんじゃないかな。でも、ぼくのアモンティリャードの印象は、エドガー・アラン・ポーの『アモンティリャードの樽』に尽きるね。二十代で読んだ話だけど、今でもたまに思い出して背筋が寒くなる」
「それはお気の毒様。そうだ! 例の頼まれたエッセーにあの時のアンダルシアのことを書こうかしら」
 そう言うとイチ子はエッセーの書き出しでも探っているのか、目を瞑ってなにか考えるような仕草を見せる —— 頭の中では早くもアンダルシアの青空の下にいるのかも知れない。




【Nellie McKay - Red Rubber Ball】

 

PVアクセスランキング にほんブログ村
 

最新の画像もっと見る

最近の「きみがいる時間」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事