きみの靴の中の砂

益々ただ書いて見るだけのこと

 

 

 絵描きでも物書きでも、普段のペースで仕事ができなくなることがある。よくある、と言ってもいい。そんな時、作家は、人には言わない脱出方法をみんな持ち合わせている。まだ持っていない人がいたら、早く見つかることを祈る。これは、他人の真似をしてもダメで、自分なりのものを見つけないことには長いこと使い回していけない。

 人生は短いが、創作家の道は長い。スランプから抜け出す方法は、ある種の処世術なのかもしれない。いや、そうに違いない。ということは、スポーツ選手でもサラリーマンでも結果を出せる人はみんなが(ナイショに)持っているのかもしれない。

 自分では以下の一文をまるで定期検診を受けるように読み返すことにしている。年に何回かは数えていないが、月に十回以上目を通すこともめずらしくない。
 以下は、吉田健一『辰三の場合』の一節 —— 文章が多少熟れていないのは、吉田健一が頭に浮かんだ英文を自ら日本語に翻訳して書いているからである。彼の母語は英語で、作家としての日本語は後年鍛えられたものである。大野晋先生に言わせると、正しい日本語ではあるが悪文の見本である、らしい。

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 小説というものは妙なもので、空で小説を書くことを考えていれば、言葉が幾らでも頭に浮かんで来て繋がる。

 丹念にノートなどを取ってから仕事に掛かったところで、ノートはノート、それを使って始めたつもりの仕事はまた別なもので、言葉に弾みが付いてノートに書いてあるのとは反対のことが出て来ても、それでは話が違うからというので引っ込めるのも惜しい気がすることがある。ノートを取っている時は、そう何にでも眼が配れる訳ではないので、それが出来る位なら、そんなことをしなくても書ける。つまり、どっちにしても、ノートなどというものは当てにならなくて、話が頭の中で決まっていても、いなくても、書き出せばその通りに行かなくなる。言葉に弾みが付くというのは、漸く何か感じが出て来たことで、そうすると人物の方も勝手に動き始めるだろうし,それが小説家、あるいは小説家は違うならば、小説の読者の念願である以上、小説家も人物の勝手にさせて置く他ない。それ故に益々ただ書いて見るだけのことなのである。
 
 

 

【Bobby Vee - The Night Has A Thousand Eyes】
 
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