文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

タコボン、ウメボシ仮面 サブのサブキャラクターの充実

2021-04-23 21:16:46 | 第5章

「天才タコボン」(74年22号)というサブタイトルで、一話まるごとキャラクター紹介に宛がわれ、異例のデビューを果たしたのが、カメラ入道・タコ山写信ことタコボンだ。

翌号掲載の「カメラ入道タコ山写信なのだ」(74年23号)では、登板二話目にして、カメラ小僧のライバルとして颯爽と登場。足で三脚を型どり、口に広角レンズをはめ、全身をカメラ代わりにして激写する新進気鋭のカメラ入道として、カメラ小僧との写真対決に挑んだ。

だが、被写体である「少年バカジン」のグラビアアイドル・ミスハグキの個性を引き出すことが出来ず、この時、カメラ小僧に完敗を喫してしまう。

異常なまでにプライドが高く、粘着質でもあるタコボンが、その後、カメラ小僧にリベンジを果たさなかった点から察するに、フォトグラファーとしては、恐らく廃業してしまったのかも知れない。

そのキュート且つダウナーな風貌から、現在のゆるキャラカルチャーにも通ずる得難い魅力を持つタコボンだったが、使い勝手の乏しさからか、このエピソードをもって、『バカボン』ワールドから退場したことに関しては、一抹の寂しさを禁じ得ない。

このような脇役キャラで、一際異彩を放つのが、前述の「わしの生まれたはじめなのだ」で初登場したウメボシ仮面である。

まるで、子供が描いたイタズラ描きのようなヨレヨレの描線と、その出で立ちが印象的な二足歩行のキャラクターで、人間なのか、動物なのか、虫なのか、その属性すらも不明だ。

恐らく、物語にアクセントを付ける効果を狙った、謂わばサブのサブキャラクターとして、登板させたのであろう。

登場当初は、レギュラーキャラクターとして定着させようと、ニックネームを募集。ラクガッキー、変等線(へんとうせん)、ノータリーナー、ガンバラナクチャモドキ、アーカ・ツーカ等、様々なネーミングが寄せられたが、最終的に、中間発表の記事にも紹介されなかったウメボシ仮面なる名称に決定した。

天才児だったバカボンのパパが、バカになる瞬間に立ち会い、その一部始終を実況するなど、登場二話目にして、重要な役割を担うキャラクターとして読者に認知されつつあったが、作者である赤塚自身が飽きたせいか、その正体は明かされることのないまま、僅か四回の出演で泡沫の如く消えていってしまった。

とはいえ、読者にはそれなりのインパクトを残したようで、2000年代、ゲームメーカー『Genki』(現・元気)では、このウメボシ仮面をそのまま模したキャラクターが、同社のペットマークにデザインされ、テレビCMにも頻繁に登場するなど、オリジナルの存在は知られなくとも、このラクガキ顔が広く一般に認知されるようになった。


カメラ小僧・篠山紀信の登場 虚実のヘッジを越えたナンセンス

2021-04-23 09:58:53 | 第5章

実在する人物の姓名をそのままキャラクター名に宛がい、リアリズムと同質の妥当性を備えた虚構的概念を、その作品世界において更に昴ずる局面へと至らせたのが、カメラ小僧こと篠山紀信くんである。

梶原一騎原作に代表される所謂スポ根モノでは、ドラマにリアリズムを付与する手段として、王貞治や長嶋茂雄、ジャイアント馬場や沢村忠といった実在するスター選手がそのまま登場人物に割り当てられていたが、ナンセンス漫画において、それも文化人の実名が使用されたというのは、恐らくこのカメラ小僧が本邦初であろう。

だが、そのキャラクターメイクは、鼻を垂らしつつも、綺麗に横分けにセットされた坊っちゃん然としたもので、アフロ系モジャモジャヘアをした本家・篠山紀信とは似ても似つかない容貌なのだ。

何故、赤塚はこのようなキャラクターを登場させるに至ったのか……。

篠山は、1971年、三十歳の時、リオのカーニバルの群舞を撮影した写真集『オレレ・オララ』が世界的な評判を呼び、新進気鋭のカメラマンとして、脚光を浴びることになる。

そして、その時の撮影に迫ったドキュメント番組(演出・大林宣彦)で、乱舞する大群衆に揉みくちゃにされながら、シャッターを切り続ける無防備な姿態を晒け出しており、そんな篠山がスパークさせる「撮るパフォーマンス」に、赤塚は大いに感興をそそられたという。

その篠山が、「月刊明星」に引き続き、1972年から「週刊少年マガジン」でも、人気アイドルをフィーチャーした表紙やグラビアのポートレートを撮影することになる。

山口百恵や桜田淳子ら、当代を代表するスターアイドルを激写したセンセーショナルなフォトグラフは、蛍光色を多用した鶴本正三の斬新なアートディレクションとの相乗効果も相俟って、「マガジン」誌の売り上げに大きく貢献。遂には、同誌の看板企画となった。

篠山から、被写体には拘らず、見る者の嗜好や好奇心を満足させる写真を一心不乱に撮りまくる節操のなさを見せ付けられた赤塚は、従来の芸術家然としたカメラマンとは一線を画する妙な生臭さをその激情の中に感じたそうな。

そんな篠山に赤塚自身が抱くイメージを具現化したキャラクターをレギュラー化したいと思い付き、生まれたのが、このカメラ小僧・篠山紀信くんというわけだ。

篠山紀信という姓名をそのままカメラ小僧の本名として拝借したらどうだろうと提案したのは、長谷邦夫である。

アイデア会議の際、長谷は、レコードに例え、篠山のカメラパフォーマンスをスタジオ録音による音源ではなく、ライブステージでの実況録音が醸し出す生臭い音のようだと指摘していたというが、成る程言い得て妙だ。

そんな生臭いつむじ風に、クルクルと舞いながら、カメラ小僧は、バカボン達の住む街に突如としてやって来る。

首から吊るした35ミリカメラと、瞬発力を伴った唐突な回転が多大なインパクトを放つカメラ小僧は、犯罪写真専門の社会派カメラマンとして、数々の決定的瞬間を収めては、目ん玉つながりを翻弄してゆく。

因みに、カメラ小僧初登場のエピソード「篠山紀信の社会派なのだ」(73年23号)のヒトコマに、赤塚が「ところで 篠山紀信くん 「スター106人ポスター展」成功おめでとう‼ その写真集を 一さつタダでください‼」と告知したところ、これを観た本家・篠山紀信は、早速「マガジン」赤塚番記者の五十嵐隆夫とともに、ひとみマンション六階にある赤塚の仕事場に来訪し、黒のマーカーで「赤塚不二夫大先生へ!」と大書きしたサイン入りの写真集をプレゼントしてくれたそうな。

そうした経緯から、赤塚は篠山との親交を深めてゆく。

仕事面においても、篠山熱撮によるグラビアページに毎回カメラ小僧のイラストを寄稿するなど、カメラ小僧=篠山紀信という図式が広く読者に認知されるようになり、小規模ながらのメディアミックスが「マガジン」誌を舞台に展開されることになる。

何しろ、本家・篠山紀信が「マガジン」のグラビア企画で、国交が樹立したばかりの中国に撮影旅行に出掛けた際、漫画の中でも、カメラ小僧が、取材で暫くの間、訪中していたことをアピールするギャグが挟み込まれていたりと、虚実のヘッジを越えた楽屋ネタが、これ見よがしに綴られていたりするのだ。

(このコラボレーションは、『天才バカボン』の連載が「週刊少年マガジン」で終了した以降も長く続くことになり、その一部は、『カメラ小僧の世界旅行』(晶文社、77年)と題された写真集にコンパイルされている。)

さて、その風貌から、子供とばかり思われていたカメラ小僧だったが、後に何と、妻子持ちであることが発覚し、読者を驚愕させる。

そう、カメラ小僧は、この時既に、立派な成人男性だったのだ。

純子と紀生子という二人の子(外見はカメラ小僧と瓜二つである双子の男の子)を持つ父親で、妻はジューン・アダムスというアメリカと日本にルーツを持つ女性である。 

当時、篠山は『11PM』の初代カバーガールでもあった、美人ファッションモデルであるジューン・アダムスと婚姻関係にあり、自身の二人の娘を『バカボン』に出すよう懇願され、このような突拍子もなく不可思議なキャラクター設定が作られたという。

本家・篠山紀信は、前出の『カメラ小僧の世界旅行』の前書きにて、次のような一文を記している。

「つまり無思想、無節操、破廉恥でなんでも撮るの写真の哲学だと思ってる。ぼく自身このカメラ小僧に完全になりきれたら素敵だなあといつも考えている。」

(『カメラ小僧の世界旅行』晶文社、77年)

また、初御目見えした際、「ぼくは女優はとりません 社会派ですから」と嘯いていたカメラ小僧だったが、後に「少年バカジン」(「少年マガジン」) の表紙で、グラビアアイドルを撮影するなど、フォトグラファー業務も営んでおり、超越的概念をその主構造として現出させつつも、両者の同一化は、登場を重ねるにつれ、益々の拍車を掛けてゆくことになる。