漫画製作の裏側も、漫画家対編集者という対立のドラマに組み換えられ、連載中、虚構と現実が著しくない交ぜとなった数々の奇作がシリーズ化されるようになる。
『バカボン』のエピソード内において、登場した編集者は、実際の『バカボン』担当である五十嵐隆夫を捩ったトガラシ記者、バカラシ記者、デガラシ記者、また、五十嵐記者の後任として赤塚番となった坂井豊をそのままキャラクター化したサカイ記者らで、どういうわけか、エピソードごとにキャラクターメイクが異なる。
一方の漫画家もまた、赤塚自らがトリックスターとなった大バカ漫画家・バカ塚不二夫や、手塚治虫の秘蔵エピソードをその人物像に投射したパワハラ漫画家・バカ塚アホ夫、フジオ・プロ劇画部に在籍していた園田光慶をイメージしたとおぼしき神経質漫画家・イラ塚イラ夫、明らかに長谷邦夫を意識して作られたと思われる才能なき盗作漫画家・アホツカアホオ等、爆笑喚起力を有するキャラクターとしては、まさに多士済々のメンツだ。
数ある漫画家のキャラクターの中で、『バカボン』史上最多の出場を誇るバカ塚先生は、連載開始間もない比較的初期の段階から登板した、名物キャラの一人である。
『おそ松くん』の人気者として活躍した名バイプレイヤー、ダヨーンのおじさんにベレー帽(後にニット帽)を被せたビジュアルデザインが印象的なこのキャラクターが初お目見えしたのが、パパが襖に描いた漫画(落描き)を持ち込み、にわか漫画家となって奮闘する、味わい深き珍奇譚「バカ塚不二夫と少年バカジンなのだ」(67年45号)で、この時人気№1の漫画家として初登板を果たす。
だが、担当記者のトガラシは、バカ塚に対し、威張り散らしたいがため、バカ塚の漫画が不人気であると嘘を吐き、連載の打ち切りをちらつかせ、傍若無人の限りを尽くすという、既にこの段階から、漫画家、編集者間における熾烈極まる駆け引きが描かれている。
次に、バカ塚先生が登場したのが、本作が発表後されて以降、実に六年ぶりのことで、今度は、担当のバカラシ記者に、帰社の途中、完成原稿を紛失されるという、漫画家にとって、最も背筋の凍る恐怖を生々しく綴った「バカラシ記者はつらいのだ」(73年18号)である。
実は、このエピソードが発表されて暫くした後、五十嵐記者が、出来上がったばかりの『バカボン』の原稿を受け取り、そのまま編集部に戻った際、タクシーの中に原稿を置き忘れてしまうという、漫画と同様のトラブルが赤塚の身に降り掛かることになる。
原稿を紛失した五十嵐は、そのまま待っていても、戻ってくる保証はないと、上司とともに深夜、フジオ・プロに謝罪しに向かうが、その時の赤塚との遣り取りを次のように述懐する。
話を聞いていた赤塚先生が言ったのは、このひと言。
「わかった五十嵐。今から飲みに行こう」。
~中略~
「一度描いたものだから、明日の朝から取りかかれば締め切り(名和註・翌日の夕方)には間に合う。もちろん原稿を失くしたことは許せないが、お前が落ち込んでいる姿を見るのも辛い。だから五十嵐、飲みに行くぞ」と。
~中略~
描き直しの原稿は、翌日締め切り前にきちんと仕上がりました。「ありがとうございます。今回は本当に申し訳ありませんでした」と謝罪する私に、先生は笑顔でこう言いましたよ。「五十嵐、2回目だから絵がうまくなってるだろう」。私を励ますためとはいえ、この状況でのこの言葉には、思わず涙が溢れそうになるほど感動しましたね。」
(『天才バカボン さんせいのはんたいなのだ! 伝説の赤塚ギャグ編』講談社、2009年)
当時のフジオ・プロは、毎日が締め切り日という綱渡りの状態で、完成原稿をコピーしておくという概念すら、全くと言っていいほどなかったのだろう。
また、飲みに誘ったのも、落ち込んでいる五十嵐を気遣ってのことで、行ったスナックで、赤塚は五十嵐の気が紛れるよう、馬鹿話を延々としていたという。
その後原稿は、翌々日、タクシー会社からフジオ・プロへと郵送され、再び赤塚の手元に戻ってくることになるが、二度と同じミスを繰り返さぬよう、肝に命じておくべく、五十嵐の手に渡される。
五十嵐は、後に追悼番組で、赤塚に対し、「漫画家としても天才だったが、人間としてはもっと天才だった」と、敬愛の念を吐露していたが、この時の一件は、まさに赤塚の人間としての徳の高さが偲ばれる好エピソードと言えよう。
また、劇中におけるバカ塚先生は、原稿を紛失したバカラシ記者に、キンタマをトンカチで叩かせるよう要求したり、これ見よがしに徹底的にイビりまくるが、赤塚本人は、その後、この一件で五十嵐を揶揄したり、責め立てたりしたことは一切なかったそうな。
因みに、その時失われた原稿は、30ページの特別巨編「天才バカボンの3本立てなのだ」(73年37号)で、そのうちの二本目と三本目の全二話、計14ページ分である。
二本目の扉ページには、「18歳以上のかたは たちながらお読みになってもけっこうです」という、断り書きとともに、大きく「オ◯ンコ」と書かれており、最初に封筒の中身を確認したであろう乗務員の方も、これを見て卒倒したに違いない。
赤塚の死去、この原稿は役目を終えたということで、今度は、五十嵐より、赤塚の愛娘で、現在フジオ・プロの代表取締役を務めるりえ子に譲渡される。
そして、追悼企画の一環として刊行された『天才バカボン 秘蔵単行本未収録傑作選』(講談社、2008年)に収録され、三五年の時を経て、漸くにして陽の目を見ることとなった。
一方、『バカボン』ワールドの住民である赤塚……もとい、バカ塚先生は、その後、増長ぶりも祟ってか、人気は低迷。アイデアにも事欠く始末で、遂には、「「天才アホボン」と「少年バカジン」その2」(74年48号)で、今や伝説となったミスター・ジャイアンツこと巨人軍・長嶋茂雄の引退セレモニーを真似、全くもって身勝手な引退を宣言する。
担当のサカイ記者は、これ幸いとばかりに狂喜乱舞するが、最終回の原稿だけは、絶対に掲載しなくてはならない。
ここでもまた、一向に要領を得ない漫画家対編集者の飽くなき攻防が繰り広げられる。
因みに、このサカイ記者のモデルとなった坂井記者であるが、赤塚の目には、初対面の段階から、編集者という職業的立場であるにも拘わらず、熟考が欠如した、軽佻浮薄な人物に映ったらしく、「『天才アホボン』と「少年バカジン」その1」(74年41号)では、そうした坂井記者のチャランポランぶりが、そのままネタとして流用された。
バカ塚先生のもとに、時間に厳格なサカイ記者が、バカラシ記者の後任となって訪れるが、あることが切っ掛けで、時間にルーズなバカ塚先生とサカイ記者の人格そのものが入れ替わってしまうというのが、その物語の概要で、個々のパーソナリティーに及ぼす相剋する概念が、ティピカルで皮相的であればあるほど、その区別は曖昧にして、互換可能だという一つの真理が明瞭なまでに示唆されている。
また、漫画家として超多忙な赤塚が、とにかく作品を一分でも一秒でも早く仕上げたいという、自らの願望をそのまま具象化した「満月の大傑作の漫画家なのだ」(73年35号)も、赤塚ワールドならではの驚異的なナンセンスに満ちたる一本と言えよう。
*
このエピソードでは、満月の夜、狼男に変身するという、恐るべし特異体質の漫画家が主人公で、ペン先のように伸びた爪先を十本のペンとして代用する彼は、尻尾で墨ベタを塗り、鼻の頭を消しゴムとして使うなどして、右指五本で描いた五つ子が主人公の「ウソ松くん」なる100ページの大作を、アシスタントもなしに、僅か一時間で描き上げてしまう、超絶的とも言える離れ業の持ち主だ。
だが、満月が出ない梅雨時は、執筆が全く捗らず、スランプに陥るという、儘ならない落ちが付く。
この他にも、松、竹、梅、スカと原稿料のランクによって、ペンネームと絵のクオリティーを変えて、作品を処理してゆく漫画家・赤松不二夫をフィーチャーした「ランクは「松」「竹」「梅」「スカ」ですのだ」(72年53号)も、爆笑必至のエピソードだが、その器用さが結果的に不運の元になるといった落ちが何とも秀抜で、警鐘的、黙示的な意味合いを、テーマとして兼ねているその作劇においても、軽視出来ない一編だ。