文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

「バカラシ記者はつらいのだ」ほか 漫画業界版「仁義なき戦い」

2021-05-11 18:28:19 | 第5章

漫画製作の裏側も、漫画家対編集者という対立のドラマに組み換えられ、連載中、虚構と現実が著しくない交ぜとなった数々の奇作がシリーズ化されるようになる。

『バカボン』のエピソード内において、登場した編集者は、実際の『バカボン』担当である五十嵐隆夫を捩ったトガラシ記者、バカラシ記者、デガラシ記者、また、五十嵐記者の後任として赤塚番となった坂井豊をそのままキャラクター化したサカイ記者らで、どういうわけか、エピソードごとにキャラクターメイクが異なる。

一方の漫画家もまた、赤塚自らがトリックスターとなった大バカ漫画家・バカ塚不二夫や、手塚治虫の秘蔵エピソードをその人物像に投射したパワハラ漫画家・バカ塚アホ夫、フジオ・プロ劇画部に在籍していた園田光慶をイメージしたとおぼしき神経質漫画家・イラ塚イラ夫、明らかに長谷邦夫を意識して作られたと思われる才能なき盗作漫画家・アホツカアホオ等、爆笑喚起力を有するキャラクターとしては、まさに多士済々のメンツだ。

数ある漫画家のキャラクターの中で、『バカボン』史上最多の出場を誇るバカ塚先生は、連載開始間もない比較的初期の段階から登板した、名物キャラの一人である。

『おそ松くん』の人気者として活躍した名バイプレイヤー、ダヨーンのおじさんにベレー帽(後にニット帽)を被せたビジュアルデザインが印象的なこのキャラクターが初お目見えしたのが、パパが襖に描いた漫画(落描き)を持ち込み、にわか漫画家となって奮闘する、味わい深き珍奇譚「バカ塚不二夫と少年バカジンなのだ」(67年45号)で、この時人気№1の漫画家として初登板を果たす。

だが、担当記者のトガラシは、バカ塚に対し、威張り散らしたいがため、バカ塚の漫画が不人気であると嘘を吐き、連載の打ち切りをちらつかせ、傍若無人の限りを尽くすという、既にこの段階から、漫画家、編集者間における熾烈極まる駆け引きが描かれている。

次に、バカ塚先生が登場したのが、本作が発表後されて以降、実に六年ぶりのことで、今度は、担当のバカラシ記者に、帰社の途中、完成原稿を紛失されるという、漫画家にとって、最も背筋の凍る恐怖を生々しく綴った「バカラシ記者はつらいのだ」(73年18号)である。

実は、このエピソードが発表されて暫くした後、五十嵐記者が、出来上がったばかりの『バカボン』の原稿を受け取り、そのまま編集部に戻った際、タクシーの中に原稿を置き忘れてしまうという、漫画と同様のトラブルが赤塚の身に降り掛かることになる。

原稿を紛失した五十嵐は、そのまま待っていても、戻ってくる保証はないと、上司とともに深夜、フジオ・プロに謝罪しに向かうが、その時の赤塚との遣り取りを次のように述懐する。

話を聞いていた赤塚先生が言ったのは、このひと言。

「わかった五十嵐。今から飲みに行こう」。

~中略~

「一度描いたものだから、明日の朝から取りかかれば締め切り(名和註・翌日の夕方)には間に合う。もちろん原稿を失くしたことは許せないが、お前が落ち込んでいる姿を見るのも辛い。だから五十嵐、飲みに行くぞ」と。

~中略~

描き直しの原稿は、翌日締め切り前にきちんと仕上がりました。「ありがとうございます。今回は本当に申し訳ありませんでした」と謝罪する私に、先生は笑顔でこう言いましたよ。「五十嵐、2回目だから絵がうまくなってるだろう」。私を励ますためとはいえ、この状況でのこの言葉には、思わず涙が溢れそうになるほど感動しましたね。」

(『天才バカボン さんせいのはんたいなのだ! 伝説の赤塚ギャグ編』講談社、2009年)

当時のフジオ・プロは、毎日が締め切り日という綱渡りの状態で、完成原稿をコピーしておくという概念すら、全くと言っていいほどなかったのだろう。

また、飲みに誘ったのも、落ち込んでいる五十嵐を気遣ってのことで、行ったスナックで、赤塚は五十嵐の気が紛れるよう、馬鹿話を延々としていたという。

その後原稿は、翌々日、タクシー会社からフジオ・プロへと郵送され、再び赤塚の手元に戻ってくることになるが、二度と同じミスを繰り返さぬよう、肝に命じておくべく、五十嵐の手に渡される。

五十嵐は、後に追悼番組で、赤塚に対し、「漫画家としても天才だったが、人間としてはもっと天才だった」と、敬愛の念を吐露していたが、この時の一件は、まさに赤塚の人間としての徳の高さが偲ばれる好エピソードと言えよう。

また、劇中におけるバカ塚先生は、原稿を紛失したバカラシ記者に、キンタマをトンカチで叩かせるよう要求したり、これ見よがしに徹底的にイビりまくるが、赤塚本人は、その後、この一件で五十嵐を揶揄したり、責め立てたりしたことは一切なかったそうな。

因みに、その時失われた原稿は、30ページの特別巨編「天才バカボンの3本立てなのだ」(73年37号)で、そのうちの二本目と三本目の全二話、計14ページ分である。

二本目の扉ページには、「18歳以上のかたは たちながらお読みになってもけっこうです」という、断り書きとともに、大きく「オ◯ンコ」と書かれており、最初に封筒の中身を確認したであろう乗務員の方も、これを見て卒倒したに違いない。

赤塚の死去、この原稿は役目を終えたということで、今度は、五十嵐より、赤塚の愛娘で、現在フジオ・プロの代表取締役を務めるりえ子に譲渡される。

そして、追悼企画の一環として刊行された『天才バカボン 秘蔵単行本未収録傑作選』(講談社、2008年)に収録され、三五年の時を経て、漸くにして陽の目を見ることとなった。

一方、『バカボン』ワールドの住民である赤塚……もとい、バカ塚先生は、その後、増長ぶりも祟ってか、人気は低迷。アイデアにも事欠く始末で、遂には、「「天才アホボン」と「少年バカジン」その2」(74年48号)で、今や伝説となったミスター・ジャイアンツこと巨人軍・長嶋茂雄の引退セレモニーを真似、全くもって身勝手な引退を宣言する。

担当のサカイ記者は、これ幸いとばかりに狂喜乱舞するが、最終回の原稿だけは、絶対に掲載しなくてはならない。

ここでもまた、一向に要領を得ない漫画家対編集者の飽くなき攻防が繰り広げられる。

因みに、このサカイ記者のモデルとなった坂井記者であるが、赤塚の目には、初対面の段階から、編集者という職業的立場であるにも拘わらず、熟考が欠如した、軽佻浮薄な人物に映ったらしく、「『天才アホボン』と「少年バカジン」その1」(74年41号)では、そうした坂井記者のチャランポランぶりが、そのままネタとして流用された。

バカ塚先生のもとに、時間に厳格なサカイ記者が、バカラシ記者の後任となって訪れるが、あることが切っ掛けで、時間にルーズなバカ塚先生とサカイ記者の人格そのものが入れ替わってしまうというのが、その物語の概要で、個々のパーソナリティーに及ぼす相剋する概念が、ティピカルで皮相的であればあるほど、その区別は曖昧にして、互換可能だという一つの真理が明瞭なまでに示唆されている。

また、漫画家として超多忙な赤塚が、とにかく作品を一分でも一秒でも早く仕上げたいという、自らの願望をそのまま具象化した「満月の大傑作の漫画家なのだ」(73年35号)も、赤塚ワールドならではの驚異的なナンセンスに満ちたる一本と言えよう。

このエピソードでは、満月の夜、狼男に変身するという、恐るべし特異体質の漫画家が主人公で、ペン先のように伸びた爪先を十本のペンとして代用する彼は、尻尾で墨ベタを塗り、鼻の頭を消しゴムとして使うなどして、右指五本で描いた五つ子が主人公の「ウソ松くん」なる100ページの大作を、アシスタントもなしに、僅か一時間で描き上げてしまう、超絶的とも言える離れ業の持ち主だ。

だが、満月が出ない梅雨時は、執筆が全く捗らず、スランプに陥るという、儘ならない落ちが付く。

この他にも、松、竹、梅、スカと原稿料のランクによって、ペンネームと絵のクオリティーを変えて、作品を処理してゆく漫画家・赤松不二夫をフィーチャーした「ランクは「松」「竹」「梅」「スカ」ですのだ」(72年53号)も、爆笑必至のエピソードだが、その器用さが結果的に不運の元になるといった落ちが何とも秀抜で、警鐘的、黙示的な意味合いを、テーマとして兼ねているその作劇においても、軽視出来ない一編だ。


赤塚ワールドの作風の決定 天才・赤塚の驚異的なギャグ創出力

2021-05-11 09:11:10 | 第5章

このように、赤塚漫画には、様々な才能が、集大成となって成り立っているという側面があるが、その作業工程の中で、唯一どのスタッフも入り込めない領域がある。

それは、ブレーンストーミングの際に出したアイデアを記したメモを元に、ネーム用紙にコマ割りをし、吹き出しを書き入れてゆくという作業だ。

赤塚漫画の作風は、このネーム入れ、そして、その次に清書用の原稿用紙に、キャラクターの顔の表情や動き、背景の位置などを鉛筆によるデッサンで捉えてゆく、所謂アタリの作業によって全てが決まる。

もし、このネームとアタリを別の人間がやれば、ストーリーも絵も、赤塚漫画とは似て非なる別物の作品へと変貌してしまうのだ。

「週刊文春」連載の『ギャグゲリラ』の担当記者だった青山徹は、貪欲にアイデアを取り込み、一本のギャグストーリーを紡ぎ出してゆく赤塚の創出力をこう評している。

「やっぱり赤塚先生はクリエイターなんですよ。クリエイターは、アイデアを自分の身体に取り込んで、何らかの形に変容させて表現する。

~中略~

特に、アイデア会議の結果がパッとしなくて、あまり期待できないなと思っていても、出来上がりが素晴らしいことが多々ありました。そんなときは、本当にこの人は凄いんだと実感しましたね。いったん先生のペンが走り出すと、とたんギャグにも動きが出てきて俄然面白くなるという不思議さ。あれこそ赤塚マジックでしょう。」

(『週刊文春「ギャグゲリラ」傑作選』文春文庫、09年)

同じく「週刊文春」で、初代赤塚番を務めていた平尾隆弘も、「赤塚先生はとにかく天才ですから、ほんの毛の先くらいな些細なことにも、面白いと思えばビビッと反応してくる。編集者が提供出来るとしても、それはあくまできっかけに過ぎない。」と、アイデアを自家薬篭中の物にしてゆくその才気に惜しみない賞賛を送っている。

人気キャラクター・ウナギイヌをフィーチャーしたDVDマガジン『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat.ウナギイヌ』(角川SSCムック、16年)でのインタビューにて、古谷三敏は「バカボンのアイデアは面白い物を出すのに何で自分の漫画は面白くないんだ」と、「週刊少年マガジン」の担当記者だった五十嵐隆夫より手厳しい指摘を受けたことを述懐していたが、これこそまさに、漫画家としてのトータル的な資質において、天才と凡才の差が明瞭に現れての評価と言えるだろう。

北見けんいちは、「がんサポート」2011年7月号の取材で、赤塚の漫画家としての類い稀なる才腕を次のような言葉で一目置く。

「作品を作る前、(名和註・赤塚)先生や登茂子さん、高井さんや古谷さんらのスタッフに担当編集者が集まって、ワイワイと雑談する。その中から先生が面白いアイデアを拾い上げて漫画を作っていく。先生は断片的なアイデアやエピソードを1本の作品に仕立てるプロデューサーとしても天才的な能力を発揮していました」

実際、赤塚のマネージメントを長らく務めていた横山孝雄の証言(曙文庫『天才バカボンのおやじ』第1巻の解説)によると、ブレーンストーミングの際には存在しなかったアイデアが、ネーム執筆の時、ふんだんに盛り込まれることがあり、このように興に乗じた際に、突然変異で生まれた新語等も少なくなかったようだ。

「週刊少年サンデー」で長期に渡り、赤塚番を務めていた武居俊樹は、その著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ』で、アイデア会議を経た後、13ページの作品が完成に至るまで費やされる時間は、ネームに二時間、アタリに四時間で、赤塚の担当箇所が概ね六時間程であると証言しており、その後、赤塚は他の作品の執筆に取り掛かる。

拙著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』や『コアでいいのだ!赤塚不二夫』(出版ワークス、19年)所収の『レアリティーズブック』、『少女漫画家 赤塚不二夫』(ギャンビット、20年)等に掲載されている赤塚直筆のアタリ原稿をご覧頂ければ、一目瞭然だが、ラフな下描きとはいえ、その作画部分はキャラクターの表情、動きに至るまで、そのままペン入れをしても差し支えないくらい、線の一本一本が細やかに整理されており、特にこの時代(1970年代)、赤塚に限っては、月産にして、平均三〇〇枚近くのギャグ作品を描いていたわけである。

長谷邦夫は、当時の超タイトとも言うべき執筆ペースについて、次のように振り返る。

「ストーリーマンガのように背景の大画面を何頁もスタッフにまかせてしまうことの出来ないギャグマンガである。全ての駒に赤塚の手が入らないと完成できない。だからギャグ物三百頁というのは超ハードな仕事量であった。」

(『ギャグにとり憑かれた男 赤塚不二夫とのマンガ格闘記』冒険社、97年)

また、ブレーンストーミングに関しても、「連続して三本の作品のアイデア作りに参加すると、ほんとに頭の中が真っ白という状態になってしまう。」と、同時に語っており、その壮烈極まりない仕事ぶりの一端が垣間見れよう。

赤塚の手を離れたアタリ原稿は、チーフスタッフが、下絵のデッサンを鉛筆による一本線で、キッチリとした絵に起こし、ペン入れ、背景描き、ベタ塗り、仕上げ等、更に三時間の流れ作業を経由し、漸く一本の作品として仕上がってゆく。

赤塚がこのように、全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力する完全分業制を敷いたのも、一日一本以上の作品を生み出さざるを得ない超絶的な過密スケジュールの渦中に身を置いた自らの状況に加え、毎回、ナンセンスに依存した消耗度の高いギャグを無尽蔵に弾き出してゆくには、個人の能力の限界を超越したバックボーンを整えなくてはならないというシビアな現実を見据えてのことだったのだろう。