連載作品でありながらも、このような代筆が可能だったのは、フジオ・プロが、他の漫画プロダクションとは一線を画する、分業と協力による特殊な製作態勢を採っていたからにほかならない。
ここで、若干趣向を変え、フジオ・プロの完全分業における詳細と、その大まかな流れについて、紙幅を割いて説明しておきたい。
フジオ・プロは、漫画製作プロダクションとしては異例の能力給システムを取り入れ、各スタッフの能力がフルに発揮出来る環境を用意していた。
フジオ・プロが採用していた製作工程の中で、取り分けユニークなものとして知られているのが、赤塚、古谷、長谷の三方によって行われたアイデアのブレーンストーミングであろう。
そのアイデア会議の様子を、当事者であり、また作画スタッフとして赤塚を支えていた古谷はこう振り返る。
「あともうひとり、武居さんなり五十嵐さんなり、担当編集者がいたね。長谷さんは基本的に書記の係でした。で、担当編集者と赤塚と僕とで世間話から入っていくんです。こないだボーリング場に行ったら、着物を着たおばさんが靴穿いてボーリングをしていたけど……というようなところから、おばさんがこれからの日本をダメにするんじゃないか、とか(笑)。アイデア出しって、だいたいそういう感じでしたね」。
(『総特集・赤塚不二夫』河出書房新社、08年)
赤塚自身、このアイデア会議こそが、赤塚ワールドの生命線であると語っていたように、作中、取り入れるギャグをアイデアスタッフとともに出し合いながら、その良し悪しを検討し合うことで、作品のレベルアップを図ってゆくシステムの導入を、フジオ・プロ設立当初より視野に入れていたという。
また、ブレーンストーミングを重ねることで、マンネリ化がもたらす作劇上の限界を防ぐとともに、赤塚自身も脳を活性化させ、バラエティーに富んだアイデアを出してゆこうという相乗効果も狙っていたようだ。
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1974年、赤塚は、好評連載中であった『ギャグゲリラ』を一週休載する。そして、この時、掲載誌である「週刊文春」の看板ページだった『この人と一週間』に登場し、密着取材を受けることになるが、記事には、アイデア会議の様子をシナリオ風に活写した記述もあり、現場の臨場感を伝える資料として、ここに転載しておきたい。
赤塚 バカボンのおやじに魔法使わせようか。
A なぜか魔法ビンのセールスマンが魔法使いである。
赤 おやじとセールスマンがニラメッコして、おやじが負けたら全部買うことにする。やっぱり負けて全部買ったら、「三個以上お買い上げの方には、サービスとして一回だけ魔法を使わせます」ってのはどうだ。
(以下魔法の内容を検討。羽田から大きなクツワ虫がとんできて、東京タワーでガチャガチャ鳴くことになる)
赤 問題はオチだなあ。何かヒネれるCMない?(とテレビをつける)……ないか。
B CMはこわいよ。うっかりするとすぐ文句が来る。
C じゃコトワザでいこう。ことわざ辞典ない?
赤 (見ながら)あったあった。クツワ虫だから「クツワ禍いの因」
(『この人と一週間』「「従業員慰労のため」赤塚不二夫の
タイクツな休暇」「週刊文春」74年10月14日号)
このブレーンストーミングは、短い時には、三〇分で終わり、また最長では、トータルで数十時間にも及ぶこともあったというが、その平均所要時間は概ね三時間ほどだったそうな。