文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

新たなファルスの構図を生み出した疑似実録劇

2021-05-13 07:38:55 | 第5章

先に示した、手塚治虫の実際のエピソードをヒントにして作った「天才マンガ家レポートなのだ」(72年25号)の主人公・十七歳の天才漫画家・バカ塚アホ夫は、超が付く程の我が儘で、編集者を虐げては、ストレスを発散するという、若くして、既にパワハラ的気質が常態化している偉丈高な人物だ。

ある夜、アホ夫は、急に機嫌が悪くなり、自分の父親程の年齢の担当編集者(四五歳)にシジミの味噌汁がなければ、描けないと言い出す。

「むすこは大学二年生 むすめは高校三年生 おやじは夜中にシジミとり・・・・ グスッ」

近所のドブ川で、涙をこぼしながら、トボトボとシジミを取っている担当編集者の姿が、何とも悲哀たっぷりだ。

この展開は、手塚治虫が、神田駿河台にある山の上ホテルでカンヅメになった時、やはり夜中に突然気分を害し、チョコレートがなければ、描けないと言い出し、手塚番記者を右往左往させた実際のエピソードから着想を得ており、アホ夫のキャラクターも、そんな手塚のダークサイドを拡大解釈した、極端なデフォルメを加え、作られている。

まだ、コンビニエンスストアも存在していなかった昭和中期頃のお話で、今となってはちょっぴり微笑ましい(⁉)、当時の漫画雑誌編集者の涙ぐましい奮闘譚の一つである。

1ページを一息で一気に描かないと、気が済まないという、異常なまでに神経質な劇画家・イラ塚イラ夫をフィーチャーしたのが、「イラ塚イラ夫と少年バカジンなのだ」(「別冊少年マガジン」74年8月号)で、このイラ塚先生のモデルは、芳谷圭児を部長とするフジオ・プロ劇画部に、1973年より一時期籍を置いていた園田光慶、その人ではないかと思われる。

園田は、かつて『あかつき戦闘隊』や『ターゲット』などの人気作で、少年週刊誌№1の王座を「マガジン」に奪還されて間もなくの頃の「サンデー」の屋台骨を、赤塚とともに支えた一人であったが、非常に神経質な性格の持ち主で、執筆の際にも気持ちにムラが表れるなど、実力派として評価される反面、扱い難い漫画家としても知られていた。

『ターゲット』終了後、少年誌の表舞台から姿を消した園田は、長いスランプに陥り、マイナーな劇画専門誌に発表の場を移すなど、雌伏の時を過ごしており、それを見兼ねた「サンデー」の赤塚番記者・武居俊樹の力添えで、フジオ・プロ劇画部に参入することになったという。

武居にしたら、大手出版社と距離が近いフジオ・プロに在籍することで、再びメジャー誌に返り咲けるチャンスを提供したかったのだろうが、この時、仕事上での人付き合いでさえ、精神的な苦痛を感じるようになっていたという園田は、このフジオ・プロ劇画部でも、一本の作品も描かないまま、じきにフェードアウトすることになる。

イラ塚イラ夫には、そんな園田のネガティブな気質が、面白可笑しく、そして、心理的恐慌を巻き起こすブラッキーなギミックを混えて、映し出されているように見えるのだ。

さて、このイラ塚先生、その毒気にやられ、発狂状態となったイラ塚番の後釜としてやって来た、ゴロ付きのような編集者の勧めによって、気楽に作品と対峙すべく、己の作家的拘りを捨て去ろうとするが、その負のスパイラルまでは絶ち切ることが出来ず……。

ラストでは、編集部全員を不幸に至らしめるニヒリスティックな展開を迎えるなど、その後も、確実に周囲を破滅の道へと転がり落としてゆくイラ塚先生なのであった。

「アホツカ・アホオと「少年バカジン」」(74年49号)で、サカイ記者(キャラクターメイクは毎回別人)が担当するアホツカアホオは、売れない盗作専門の漫画家で、日本著作権協会から注意勧告を受けたり、編集部から、来週はどの漫画家の作品をパクるか、賭けの対象にされているなど、これまで登場した漫画家の中でも、最もトホホ感漂う先生だ。

だが、ある時、漫画のアイデアを勉強しているという学生が、アホツカ先生のもとを訪れる。

学生のアイデアは、これまでの漫画にはない斬新且つ面白いものだった。

アイデアが枯渇していたアホツカ先生が、藁にもすがる想いで、それを元に漫画を描くと、とたん人気が爆発。ファンレターが連日殺到するようになる。

だが、このことを知られたくないアホツカ先生は、ファンレターを隠し、学生に対し、冷淡な態度を取り続ける。

そうでもしないと、学生につけ込まれ、立場が逆転してしまうからだ。

しかし、それを真に受けた学生は、自らの才能に見切りを付け、田舎に帰ろうとする。

困り果てたアホツカ先生は、恥も外聞も捨て、学生に泣きながら戻って来てくれるよう、懇願しようと決心するが、この後予期せぬ展開に、命拾いする……。

コアな赤塚ファンの中には、このアホツカ先生が、長谷邦夫を戯画化したキャラクターではないかと指摘する声も多い。

1969年から73年頃までの数年間、長谷は、フジオ・プロで赤塚のアイデアブレーンを務める傍ら、自らを盗作漫画家と称し、当時のありとあらゆる人気漫画のストーリーと絵柄を模倣した、様々なパロディー漫画を乱筆していた。

つげ義春の『ねじ式』の世界観をそのままに、海辺でメメクラゲに左腕を噛まれ、静脈を切断された主人公をバカボンのパパに置き換えた『バカ式』、砂川しげひさ(代表作/『寄らば斬るド』、『おんな武蔵』)のナンセンスタッチと小島剛夕(『子連れ狼』、『首斬り朝』)の荒々しい劇画のタッチを融合させた営業妨害漫画『かかば斬るド』等がその代表例で、長谷はこれら以外のタイトルでも、作家や作品の垣根を越え、矢吹丈やデューク東郷、ムジ鳥に喪黒福造といった様々なキャラクターを登場させては、読む者を唖然たらしめる、差し詰め人気漫画の乱交パーティーといった趣の短編パロディーをいくつも発表していたのだ。

これらの長谷のパロディー漫画は、発表当時、業界内外で賛否両論を招き、一部のマニアックな漫画ファンには、熱烈な歓迎を持って受け入れられたというが、この時、長谷パロディーの掲載誌の一つであった「COM」編集長の石井文男によると、その一方で、オリジナリティーの欠落が致命的であり、それに対し、極端に貶す読者も少なくなかったそうな。

赤塚もまた、長谷パロディーに否定的な見解を示していた一人で、長谷の絵の稚拙さを指摘した上で、その作風をこうシビアに断罪した。

「ボクは妥協っていうのが大キライです。この世界は才能のないやつは認められませんからね。

~中略~

いまはだれかがやろうと思えばできる仕事だ。あれには長谷の個性がでてないでしょう。まだその域に達していない。ボクは面白いとは思わない。」

(『ブームの奇形児・長谷邦夫の開拓精神』/

「週刊文春」70年8月31日号)

個性こそが重要視され、尚且つ、不特定多数の読者の支持を得られなければ、その価値はないものに等しいという漫画界の峻烈なる現実が、このアホツカ先生の姿を通し、看破されているように思えてならない。

このように、漫画家と編集者の駆け引きをモチーフにしたエピソードの殆どが、自らを貶める自虐ネタに関連して扱われており、舌鋒鋭いその諧謔性は、漫画家という赤塚にとってのサンクチュアリ、延いては赤塚自身にも矛先を向け、漫画界のインサイダー情報と内輪ネタが二重写しとなった疑似実録劇として、新たなファルスの構図を生み出すこととなった。

また、自身をモデルとした駄目漫画家に投射して描いた自虐ネタも、当時の赤塚のギャグ漫画の王様としての圧倒的なカリスマ性をもって成立し得る、高邁なる矜持に基づき描かれていることは明白であり、自らの素材力を完全燃焼させたという一点においても、是非とも目に留めておいて欲しいシリーズだ。