わが家のものもらい伝説です。
基本的には汚れた手でこすったりして腫れるんでしょうが
我が家ではものもらいは『他人の家でものをもらえば直る』と
じいさんもばあさんもおじさんもおばさんも、オヤジもオフクロも
みんな信じて実践していました。
でも、不思議とこれで直ってました。どうしてでしょう・・・
わが家のものもらい伝説です。
基本的には汚れた手でこすったりして腫れるんでしょうが
我が家ではものもらいは『他人の家でものをもらえば直る』と
じいさんもばあさんもおじさんもおばさんも、オヤジもオフクロも
みんな信じて実践していました。
でも、不思議とこれで直ってました。どうしてでしょう・・・
東京ではありましたが、足立区の昭和40年代は欧米系の外国人
を見かけることはまったくありませんでした。
それが、その日こんなところに外国人が来るなんて
それからしばらくこの話題で持ちきりの町内でした・・・
お金もオモチャも、もちろんゲームなんか持っていませんでしたが
毎日、楽しく遊んでいました。特に秋は木の実や果物(カキ、クリ
など)が近所の庭先でよく実っていたので、断りなくいただいては
食べていました・・・
最近はなんて呼んでいるのでしょうか?
当時足立区の私の通う小学校では、特別支援学級のことを『青空学級』と呼んで
いました。 今でこそ、自閉症、発達障害等医学の進歩にあわせて、各児童の症状
により、理解されるようになっているのでしょうが、当時はそうではなかったように
思います。
突然大声を出す男の子やうまく物事が運ばないと手がつけられなくなる女の子
などみんな一緒でした。青空学級ができてから、通常の授業は、その新しい学級
で過ごし図工や体育、遠足なんかは私たちの教室で授業を受けていました。
中にはそれを馬鹿にしてはやしたてる奴もいましたが、よくできたものでちゃんと
それを止めてくれる連中がいてバランスがとれていたように思います。
火もナイフも危険な遊びも、昭和40年代は大らかだった
ように思います。
中でもナイフは鉛筆削りを持っていない子供もいて、鉛筆は
自分で削っていました。特に色鉛筆は、手回し式削り器だと
芯が折れることが多かったので、ナイフで削ったほうが、
思うようなトガリ具合にできました。実用的ナイフの感覚を
このボンナイフは、刃の出し入れをいかにカッコよく行なうか
という観点が新しかったです・・・・
今も使われているんでしょうか?
昔大流行した西部劇映画。必ずタバコを吸うときに
マッチを使うんだけど、履いているブーツや、酒場のカウンターに
マッチを擦ると火がついてとっても不思議でした
先輩に作り方を聞き自分でも作っていましたが
こんなこともよくありました