実家を出て20年余り、時々帰る実家の周辺は
昭和40年代のそれとは大きく変わってしまいました
それでも頑張って残ってきたお店もいくつかありましたが
その中で、鍋をもって買に行っていた、豆腐屋さんが
店をたたみ、更地になっていました。
その更地を前にしていたら・・・あの頃の、自分がみえました
今ならこっそりとゲーム機やスマホなんでしょうが、
そういうものがまさか出回るようになるなんて、考えも
しなかった昭和の時代。先生やうるさい女子の目をかいくぐり
室内で遊べる工夫をしていました。当時ボーリングが
爆発的にブームで、でも高くて混んでていけないので
こんな遊びをしていたと思います
網も今のようにりっぱなものありませんでした。
穴が大きくなると自分で繕ったり、ひどいときは
網のかわりに手拭いを袋状に縫ってもらったものを
使っていました。魚も虫も同じ網で・・・
それでも知恵と度胸で都内でも色々とつかまえていました
よくやりませんでしたか?
太陽をじっとまぶしさがまんして見て、
視線を外してもその残像がまぶたに残る。
それと一緒に透明なアメーバーみたいなのが
目を閉じて薄目にしているとうごめいて見える
こんなつまらないことを真剣にやっていました
事故や病気で、夏休み明けにポッカリと席が空き
机に花が置かれたことがありました・・・
そんなに親しい友達ではありませんでしたが
もっと遊んだり話したりすればよかったと
つくづく思いました・・・
ご両親の悲しい顔が今でも忘れられません
今でこそ小さく感じる父親ですが
当時はすべてにおいて大きくてとうてい
かなわない存在でした。
だから銭湯でおねだりのかわりに背中を
流すのですが、力を入れないと怒られるし
大きくてとっても大変でした・・・
わが家のものもらい伝説です。
基本的には汚れた手でこすったりして腫れるんでしょうが
我が家ではものもらいは『他人の家でものをもらえば直る』と
じいさんもばあさんもおじさんもおばさんも、オヤジもオフクロも
みんな信じて実践していました。
でも、不思議とこれで直ってました。どうしてでしょう・・・
東京ではありましたが、足立区の昭和40年代は欧米系の外国人
を見かけることはまったくありませんでした。
それが、その日こんなところに外国人が来るなんて
それからしばらくこの話題で持ちきりの町内でした・・・
お金もオモチャも、もちろんゲームなんか持っていませんでしたが
毎日、楽しく遊んでいました。特に秋は木の実や果物(カキ、クリ
など)が近所の庭先でよく実っていたので、断りなくいただいては
食べていました・・・