昭和40年代の思い出&高3双子の年中時代の思い出

昭和40年代、東京下町・足立区での子供時代の思い出と年中だった双子息子こと。大好きな料理、お酒のことを描いてます

双子の父の昭和の思い出  おまめ

2020-11-30 19:45:14 | 昭和の思い出
今、息子の双子は同級生、せいぜい一学年下とか上とかの友達と

遊んでいますが、当時はそういう観念はあまりなく、年の離れた

子供とも遊んでいました。でも、やはり体力差、経験値の違いから

ハンデをあげないと、本人も一緒に遊ぶ周りもなかなか上手くいかず 

このおまめ制度は、当たり前のように存在していました

ただ、もう自分はおまめなんかじゃ無いとつっぱる子もいて、時に

こうして年長者による卒業試験のようなことをしていました


双子の父の昭和の思い出 数を数える

2020-11-29 10:00:33 | 昭和の思い出
かくれんぼ、缶けりなどなど、子供遊びでは

鬼になった子は、数を数え終わってからじゃないと

行動が起こせないというルールでした。なので

出来るだけ早く数を数えることが、とっても重要なことでした

普通『1・2・3・4・5〜』(イチ、ニー、サン、シー、ゴー)と

数えますが、これよりもいかに早く数えるか、まして大体100まで

数えるのが普通だったので、『91・92・93〜』だと(キュウジュウイチ、

キュウジュウニー、キュウジュウサン)と言い回しにとてもとても時間が

かかってしまいました。そこで、下品ではあるけれど、1〜10と同じ数に

なる、言い回しが早く出来る言葉を、その代わりとして数えで使用して

いました。

父が1番使っていたのが『インディアンのキンタマ』(10文字分)でした(笑)


双子の父の昭和の思い出  学校給食8

2020-11-24 12:39:17 | 昭和の思い出
今でも教室内の暖房はダルマストーブなんでしょうか?

当時は『ストーブ係』を先生から任命された、身体の大きな

男子2人組が、朝他より早く学校に行き、燃料となる

コークスを専用のバケツに入れて教室まで運び、新聞紙を火種にして

コークスに火をつけていました

そして、暖を取るだけではなく牛乳を温めたり、パンを焼いたり

焼きみかんを作ったりと色々楽しいことばかりでした。

双子の父の昭和の思い出  学校給食7

2020-11-23 00:15:10 | 昭和の思い出
給食当番。班ごとに回ってくる仕事でした。

当時は、子供が多くて、父の時代の小学校は、

1クラス45名くらいで6組までありました。

なので、1クラス6班くらいとなり、月に一度は

給食当番(月から金曜まで)が回ってきました

自分の分を多く盛り付けることは楽しみでしたが

当番の白衣が、前任者が洗濯してこなかったのに

当たると最低な1週間でした

双子の父の昭和の思い出  学校給食 6

2020-11-20 17:39:32 | 昭和の思い出
お腹が空きはじめる、3時限目辺りから

給食室の匂いが、空きっ腹で敏感な鼻腔に

届きました。献立表でメニューはわかっていたので

おお、今炒めてるな。おお、今大鍋で煮込んでいるな

なんていうのも、腹ペコオヤジにはわかってました。

給食の後、今度はいやーーーーーは、臭い匂いに

授業そっちのけで楽しんでいました