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独り飯

2019年07月17日 | 飲食物・麺類
 
火曜日は老妻のスイミングスクールで昼間は留守にしている。
不定期ではあるが、メンバーによる食事会が有り今日は其の日である。
昼はカレーとナンを食べたが、夜は馴染みの居酒屋で独り飯となりました。
 
 
居酒屋
酒類とそれに伴う簡単な料理を提供する飲食店で、日本式の飲み屋である。
 
バーやパブなどは洋風の店舗で洋酒を中心に提供しているのに対し、居酒屋は和風でビールやチューハイ、日本酒などを提供している店が多く、バーやパブに比べると料理の種類や量も多い。
 
装飾や提供する飲食類は和風のことが多いが、あえて洋風にすることにより他店との差別化を図る店もある。
 
また、新鮮な魚介類を提供していることを強調するため店内に活魚用の生け簀を作る店や、カウンターを作って目の前で調理をしてみせる店など、様々な工夫を凝らした店が多い。
チェーン店においてはセントラルキッチンにおいて調理済みの料理を提供する店が多いが、近年は「店内調理」を前面に出してセールスポイントとするチェーンも少なくない。
 
 
 
 
 
居酒屋の歴史
日本の居酒屋
古事記に登場する逸話や歌から、8世紀初頭までには定着していた。
 
「造酒司(みきのつかさ)」と呼ばれる役所の管轄の基、醸酒料としての米が租税として徴収された733年の記録が残っている。
 
797年に書かれた続日本紀には、761年に葦原王が居酒屋で酔って殺人事件を起こした記録が残っている。ただしこの時は大陸の言葉である「酒肆(しゅし)」と書かれていた。
 
奈良時代になると貨幣経済も始まり、寺院などで酒の醸造と提供が始まり、神社関連も醸造を行うようになる。
 
やがて平安時代から室町時代にかけて民間業者が醸造を行うようになり「醸造屋」と呼ばれるようになった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「醸造屋」は当初、貴族階級の富裕向けであり、庶民の飲酒行為は、811年の規制法等によって、祭り以外の飲酒が規制されていた。
醸造屋が全国に波及するのは、11世紀頃と言われている。
 
鎌倉時代になると貨幣経済が都市部で本格化し、武士階級に酒を提供する醸造屋が現れた。
これらは「好色家」と呼ばれ、酒類の提供だけでなく売春業も行っていたようである。
 
酒を巡ってのトラブルも多発したため、1252年(建長4年)の10月には、酒壺の破棄指令が出たほどである。
 
その後鎌倉時代の末期になると、ようやく商人階級に酒類を提供する醸造屋が登場する。
室町時代になると醸造屋は一定の権力を持ち、幕府から課税対象とみなされるようになる。
 
この頃の醸造屋は同時に金貸しをやっており、庶民に対して積極的に金を貸すと同時に、酒類も提供していた。
 
また室町時代から、醸造と提供の分離が始まり、酒の提供に特化した「酒屋」や茶も出す「茶屋」が登場するようになる。
 
その後戦国時代になると各大名が領内の経済強化のために酒屋や茶屋を積極的に保護した。
都市部や街道沿いには庶民相手の居酒屋が建つようになる。
 
居酒屋の本格的な発展は江戸期頃になる。酒の量り売りをしていた酒屋(酒販店)で、その場で酒を飲ませるようになり、次第に簡単な肴も提供するようになった。
 
酒屋で飲む行為を「居続けて飲む」ことから「居酒」(いざけ)と称し、そのサービスを行う酒屋は売るだけの酒屋と差別化するために「居酒致し候」の貼紙を店頭に出していた。
 
現在でもこうした酒販店に付属する形式の立ち飲みスタンドは残存しており、近隣住民の気軽な社交場として機能している例も見られる。
 
他にも煮売屋が酒を置くようになったことに始るもの、また屋台から発展したものなどの別系統もある。
 
 
江戸は男女比率が極端に男性に偏っており、一人住まいの独身男性が多かったことから酒が飲めて簡便に食事も取れる居酒屋は大いに広まっていった。
 
一方農村部は最後まで居酒屋の普及が遅れ、18世紀後半まで待たなくてはならなかった。
明治時代になると文明開化の名の下、ビールなど洋酒が流入し、1899年には銀座に富裕層向けの「恵比寿ビアホール」が設立された。
 
その後、カフェやキャバレー等の洋風居酒屋が相次いで流入した。1939年には、ビール生産量が戦前のピークを迎えている。
 
1944年、決戦非常措置要綱により多くの飲食店やカフェーが閉店に追い込まれ、一方で1人ビール1本または日本酒1合に限る公営の国民居酒屋が登場した。
 
戦後の1960年を境に日本酒と洋酒の消費量が逆転することになった。
 
 
 
 
1970年代頃までは居酒屋といえば男性会社員が日本酒を飲んでいる所というイメージが強かったが、近年は女性にも好まれるようにチューハイやワインなど飲み物や料理の種類を豊富にした。
 
店内装飾を工夫したお店が多くなり、女性だけのグループや家族連れを含め、誰でも気軽に利用できる場所というイメージが定着しつつある。
 
特に1980年代頃から居酒屋のチェーン店化が進んだ。このことで、居酒屋は安く、大人数が集まることができ、少々騒いでもよく、様々な人の好みにあわせて飲み物や料理を選べるというメリットを持つようになった。
 
このため、学生・会社員・友人同士などのグループで「簡単な宴会」を催す際の会場としてよく用いられている。
 
チェーン店を中心に基本的には低価格で気軽に飲食できることを売りにしている店が多く、そのため男女に関わらず広い層を顧客としている。
 
 
 

火曜日のランチ 冷麺

2019年06月25日 | 飲食物・麺類
 
冷麺
朝鮮半島由来の冷製麺料理。朝鮮語ではネンミョン、またはレンミョ。
冷やし中華と区別するため、韓国冷麺や韓国風冷麺などとも呼ばれる。
 
 
 
↑ 韓国焼き肉店 ↓
 
 
 
 
朝鮮半島における冷麺
ルーツは現在の北朝鮮にあり、平壌と咸鏡南道咸興が本場として知られる。韓国側には、1950年に朝鮮戦争が勃発した際、南に逃れた北朝鮮出身者を通じて本格的に普及したといわれている。
本来は寒い冬に暖かいオンドル部屋(温度調節がこまめに出来ないのでやや暑くなる)の中で食べる料理で、1849年に書かれた『東国歳時記』に「冬の時食として、蕎麦麺に菁葅(大根のキムチ)や菘葅(白菜のキムチ)を入れ、そのうえに豚肉を和えたものを冷麺という」との記述がある。
 
 
 
 
 
 
現在の韓国では夏の食べ物と認識され、大衆食堂は夏の間しか出さないが、冷麺専門店は冬も出している。
大きく分けて、平壌発祥のムルレンミョンと咸興発祥のビビン(ピビム)ネンミョンの2種類がある。
 
ムルは「水」の意で、ネンミョンにムルが冠されると朝鮮語特有の流音化によりムルレンミョンという発音になる。ビビン(ピビム)は「混ぜ」の意で、ビビンバのビビンと同じである。
 
ムルレンミョンは、固く締めた麺の上に下味をつけた肉類・ゆで卵・キムチ・錦糸卵・ナシなどを盛り付け、最後に肉のダシ(本来は牛肉や雉肉で取るが、現在は灰汁抜きした牛の脚の骨で取る店が多い)とトンチミ(大根の水キムチ)の汁を合わせた、ユッスと呼ばれる透明で淡泊な冷たいスープをかけて供される。
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮半島では食器を手に持って食べることはマナー違反とされているが、ムルレンミョンに限ってはスープを飲む際に器を手に持ち、口をつけて啜っても良しとする韓国人も少なくない。
 
冷麺に先立って蒸し肉やピンデトッやマンドゥ(餃子)などをつまみに酒を飲み(「先酒後麺」という)、また食前に、日本における蕎麦湯のようにユッスが出てくることがあり、これは?油を入れて飲むのが平壌冷麺通の食べ方とされる。
 
ビビンネンミョンは、コチュジャン・酢・ごま油・砂糖などを合わせた辛いヤンニョムで麺を和え、肉類・ゆで卵・きゅうりの千切りなどを盛り付けて供され、食べる際によくかき混ぜる。
 
一般的に咸興冷麺として知られるのは、ヤンニョムをからめた魚の刺身(フ
ェ)を乗せたフェネンミョンで、魚はエイ(ガンギエイが多い)・カレイ・スケトウダラなどが使われる。
 
類似した料理にビビンククスがある。なお、咸興現地では咸興風冷麺のことをノンマグクスと呼ぶ。
「咸興冷麺」という呼称は、朝鮮戦争後、南へ逃れた咸鏡道出身者が名声ある平壌冷麺に対抗するため名付けたもので、北には元々なかった呼称だという。
 
麺は蕎麦粉を主原料とし、つなぎとしてデンプンや小麦粉を入れて練り、穴の開いたシリンダー状の容器で麺状に押し出してそのまま熱湯に落として茹で、茹で上がった麺(ネンミョンサリと言う)をすぐに冷水で冷やす。
 
 
 
 
 
 
平壌冷麺は蕎麦粉と緑豆粉が用いられ、太くて黒っぽく、嚙み切りやすい。咸興冷麺はジャガイモやトウモロコシなどのデンプンが用いられ、細くて白っぽく、?み切りにくい麺である。
 
麺は製麺機から押し出したままの長い状態で盛られ、本来は切らずにそのまま食べるのが良いとされるが、現在の韓国では調理用鋏で食べやすい長さに切って出す店が多い。
 
冷麺が名物の町には平壌と咸興のほかに慶尚南道晋州市がある。
1960年代以降廃れていたが、北朝鮮で1994年に発行された『朝鮮の民俗伝統』で「冷麺は北の平壌冷麺と南の晋州冷麺が第一である」と紹介され、そのことが南北交流で韓国に伝えられたことを機に2000年代に再興された。
 
現在提供されている晋州冷麺は、魚介ダシのスープ、弾力のある太麺、細かく刻んだ卵焼きと牛肉チヂミを盛り付けることなどが特徴である。
 
このほか、葛を材料にしたチンネンミョン、蕎麦粉だけで作ったメミルレンミョン、緑茶を麺に練り込んだノクチャネンミョン(綠茶冷)など、麺や味付けの違う冷麺が食されている。
夏場の大衆食堂では、ヨルム(間引きした大根の葉)キムチを乗せたヨルムネンミョンがよく出される。
 
地方によってはトトリ(ドングリ)の粉を練り込んだトトリネンミョンを出す店もある。
釜山を中心とする慶尚南道地方では、小麦粉を主原料とするミルミョン(??、小麦麺の意)が名物となっており、もとは北からの避難民がアメリカの援助物資を代用して平壌冷麺を再現しようとしたものといわれる。
 
冷麺から派生した料理には他に、軽食堂やファストフード店で提供されるチョルミョン(韓国語版、英語版、スペイン語版)(しこしこ麺の意)があり、千切り野菜やゆで卵と甘辛ソースを絡めて食べる。
 
1970年代に仁川の製麺所で冷麺を製造中に偶然生まれたもので、冷麺よりも太く固いことが名前の由来となっている。
 
著名な冷麺専門店に平壌の玉流館がある。韓国紙の報道によれば、平壌の冷麺の殿堂として1日に1万人が訪れるといわれ、2000年に金大中が訪れるなど海外からの旅行客や要人が案内される著名店となっている。
 
2007年9月に改装工事が始まり、2008年4月15日の金日成生誕日に新装開店した。東亜日報の取材によれば「韓国よりも麺が1.5倍くらい太くて、麺とスープの色が黄土色」で「スープは濃い鶏肉の香りを漂わせ、あたかも參鷄湯を冷やしたような感じ」であるという。
一方、咸興の代表的な冷麺専門店には新興館が挙げられる。
韓国食品医薬品安全処の衛生調査で、冷麺は2000件中47件で大腸菌が検出され、注意が喚起されている。
 
 
 
 
 
 
 
日本における冷麺
1939年(昭和14年)に神戸市長田で平壌出身の張模蘭と全永淑が開業した「元祖 平壌冷麺屋」が日本で朝鮮半島式の冷麺を提供する現存最古の店である。
 
現在、日本の多くの焼肉店で定番メニューとして提供されている。日本人の口に合うようアレンジされた冷麺も各地にあり、代表的なものに岩手県盛岡市の盛岡冷麺と大分県別府市の別府冷麺が挙げられる。
 
盛岡冷麺は咸興出身の在日朝鮮人1世である青木輝人(朝鮮名:楊龍哲)が1954年(昭和29年)5月に開業した「食道園」が発祥で、1987年(昭和62年)に「ぴょんぴょん舎」を開業した在日2世の邊龍雄らが「盛岡冷麺」というブランド名を確立させた。
 
小麦粉を主材料とする透明感のある太麺が特徴である。盛岡冷麺の生麺は「さぬきうどん」などとともに公正取引委員会から「特産」「名産」などの表示に基準が設けられた10品目の一つにもなっている。
 
別府冷麺は1950年(昭和25年)頃に満州からの引揚者が開業した店が発祥とされる。和風ダシのスープが特徴で、麺は店によって太麺と中細麺の2種類ある。
食堂やラーメン屋や居酒屋などでも提供されるメニューとなっており、金属製の器ではなくラーメン用の丼鉢などに盛りつけられる。

ソバの花と蕎麦

2017年09月30日 | 飲食物・麺類
ソバ
蕎麦は、タデ科ソバ属の一年草。一般に穀物は、 イネ科(単子葉類)であるのに対して、ソバはタデ科、つまり双子葉類である。















食用利用
食用とされるのは実ばかりではなく、幼い茎や葉は、スプラウト(新芽野菜)としてサラダの材料などとしても食用となる。