旅行、飲食、草花、イベント、乗り物、出来事など。

日々の生活の中から様々な物を写真付きで。

★旅シリーズ★熱海 起雲閣 其の7

2012年04月30日 | ★旅行★国内
内田信也の別邸・障子紙

美濃雑紙

室内を明るくする採光を目的とした明障子は、透光性のよい薄い紙が良いが、破れにくい粘り強さが必要であり、また価格も安い物が好まれる。このような条件を満たす紙としては、壇紙(だんし)や奉書紙、鳥の子などは不適当で、障子紙としては雑紙や中折紙など、文書草案用や包み紙などの雑用の紙を用いた。中でも美濃紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても多用され、美濃雑紙が明障子紙の代表として評価されるようになった。

書院紙

明障子は書院造様式によって普及し、「書院の明障子」といわれたことから、明障子に貼る紙は、書院紙と呼ばれるようになった。書院造では、障子の格子桟の寸法が地方によって異なるので、書院紙は全国ほとんどの紙郷で漉かれたが、産地周辺で消費され、市場で流通することが少なかった。ごく一部が書院紙として流通したが、『和漢三歳図絵(わかんさんさいずえ)』(寺島良安編 1713年)には、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。防州之に次ぎ、奥州岩城、野州、那須、芸州広島、また之に次ぐ。」とある。この他に、因幡、甲斐、肥後、土佐、信濃などで産した書院紙が市場で流通した。この中では、美濃国、甲斐、土佐の書院紙が、今日でも障子紙の産地として命脈を保っている。

『新選紙鑑(かみかがみ)』には、書院紙として美濃書院紙・美濃紋書院紙、安芸の諸口紙そして因幡書院紙をあげているが、中折紙、三つ折紙、大判紙なども書院紙として利用された。

明治初期の『諸国紙名録』には多くの紙に障子用として注記しているので、このころでも全国の各地でさまざまな地域の建具寸法に合わせた書院紙が漉かれ続けていたことが分かる。

美濃書院紙

『和漢三才図会』には、障子の項で、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。故に呼びて美濃紙と称す。以て書籍を写し 書翰を包み、障子および灯籠を張るのに 之にまさるものなし。」とある。濃州寺尾とは、現在の岐阜県武儀郡武芸川町寺尾である。

『新選紙鑑(かみかがみ)』には幕府ご用の障子紙、すなわち書院紙の漉工として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の4人の名をあげている。このほかにも濃州牧谷、洞戸、岩佐、谷口のものも良品としている。美濃書院紙という名は、書院造とともに発展し、明障子に最もふさわしい紙として定着した。

明治初期の『岐阜県史稿』によると、二つ折美濃、三つ折美濃という紙があり、明治九年(1876年)の『米国博覧会(フィラデルフィア万国博覧会)報告書』には、「二ツ折ハ障子二格間(格子間)ヲ貼るニ便シ、三ツ折ハ三格間ヲ併セテ貼ルの料トス。」とある。

書院紙は、障子の格子幅に併せて漉かれたが、障子の格子の幅は各地域でまちまちで規格が統一されていなかつた。たとえば、美濃書院紙の場合、尾張・美濃用は縦寸法が九寸三分、三河用は八寸三分、伊勢用は八寸二分であった。此の各地の格子の幅のまちまちの伝統は、今日でも受け継がれている。

模様入りの障子紙

障子紙の中に、紋書院紙と呼ばれる透かし文様が入ったものがある。享保十七年(1732年)刊の三宅也来の『万金産業袋』の美濃国のなかに「紋障子」とあり、元文三年(1738年)刊の伊藤実臣の『美濃明細記』には、武儀川流域で紋透かし紙を漉いていたことが記されている。

また安永六年(1777年)刊の『難波丸項目』に紋美濃そして同年刊の『新選紙鑑(かみかがみ)』のなかの美濃産紙の項に「紋障子」とある。この紋書院紙は、美濃のほか筑後柳川や肥後でも紋書院紙を産し、『諸国紙名録』には、肥後産紋書院紙を「スカシヨシ」と注記している。

美濃紋書院紙では、鹿子(かのこ)・紗綾形・菊唐(から)草・七宝 ・亀甲(きっこう)などの美しい紋様が漉き込まれ、障子以外にも行灯や灯籠などにも用いられた。近年美濃市でつくっている落水紙(美光紙ともいう)には、紋様を入れた紋書院紙風のものもある。

紋書院紙のほかに紋天具(てんぐ)帖というのがある。これは極薄の天具(てんぐ)帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉(ごふん)の具などで木版摺(す)りしたもので、のちに型染めで捺染するようになったが、やはり光を透かして美しい紋様を浮かび上がらせて楽しむもので、灯籠などに用いられた。

堀障子

城の堀底に設けた、堀底を仕切るような土塁状の障害物も、障子または堀障子という。その障子のある堀を、障子堀という。
出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

★旅シリーズ★熱海 起雲閣 其の6

2012年04月30日 | ★旅行★国内
内田信也の別邸

起雲閣の障子は、日本家屋における扉、窓に用いる建具の一つで、明かりを通すように木枠に紙張り(主に和紙、今では「化繊入り紙」もある)になっているものは明障子(あかりしょうじ)ともいう。

元来は現在の襖(襖障子)も含めて障子(さえぎるものの意)と言った。平安時代に「明障子」として襖から分離した。扉を閉じたまま採光できるという機能により広く使われるようになった。ガラスやカーテンが普及するようになって使用は減ったものの、ガラス併用の障子なども作られ消滅することはなかった。一部がガラスになっていて障子部分が開け閉めできるものを雪見障子という。(地域などによって名称が曖昧であり、擦り上げ障子が付いているのもを猫間、無いものを雪見と区別している場合あり)
 


子持ち障子

1本の溝に2枚の明障子を引き違いにしたものを子持ち障子という。たとえば、元興寺の鎌倉時代の禅室にある。当時のみで深い溝を彫るのは、相当の手間であったろう。2本の溝を彫るよりも、幅の広い溝を1本彫るほうがわずかに簡単であったのかもしれない。しかし、禅宗様の建築であることから、技巧的な遊びと考えた方が妥当と思われる。



1本の溝に2本の障子を入れても、そのままでは引き違えないので、工夫がある。召合わせの縦框はそのままにして柱側の縦框をほぼ溝幅に合わせて作ってある。こうすると、明障子は外れることなく、引き違うことができる。

子持ち障子は、禅宗方丈建築の最古の遺構である、東福寺竜吟庵方丈にも使われている。ここでは、一本の溝に四本の明障子が立てられている。中央の2枚が上記の方法で引き分けられ、外の2枚は幅が狭く、開閉のできない嵌め殺しとなっている。 禅宗様の建築では、随所に意匠の工夫や技工の斬新さが見いだされる。



腰高障子

明障子は採光の必要から考案された建具である。採光の為に建物の外回りに使用する。しかし、風雨に曝されると薄紙は破れてしまう。実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀を釣って内側に明障子を立てている。つまり、下半分の蔀は建て込んだままである。



こうした実際の使用状況から、明障子の雨が当たりやすい下半分に板を張った、腰高障子が考案されている。腰高はおよそ80cmで、半蔀の下半分と同じ腰高であったのも、必然であった。南北朝時代の観応二年(1351年)に描かれた真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に僧侶の住房に、下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が2枚引き違いに建てられているのが描かれている。


★旅シリーズ★熱海 起雲閣 其の5

2012年04月30日 | ★旅行★国内
内田信也の別邸 障子のある部屋

古来より、日本家屋独特のほの暗さの文化や陰翳の美を演出するものとして、日本の建築文化の象徴的な存在であった。現代においてはインテリアとしての再評価の他、ガラス戸との組合せによる断熱効果、紫外線の軽減効果などで見直されつつある。



明障子(あかりしょうじ)の誕生

鎌倉時代以降、公家・武士の家で用いた片面だけに薄い白紙を張ってある障子。

明障子の誕生は、平安時代末期の頃で、襖よりもおよそ100年程後に工夫されたと推測されている。建具の構造としては、間仕切りとしての隔ての機能をもつ襖に近く、さらに襖よりも簡素ながら、隔てと採光という矛盾した機能を併せもつ明障子の発明は、画期的なことであった。



平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗の格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。



天喜元年(1053年)藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は四周の開口部には扉を設けているが、その内側に格子遣戸も併せ用いている。このような格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得ることができる。機能としては、明障子の前身ともいうべきものである。

現在のような薄紙を貼った明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。



その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。 室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくかった。京都は盆地なので、ことに冬期は底冷えする。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。

隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。六波羅泉殿の寝殿北廂では、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。



『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明障子を撤去する」とか「明障子を立つ」などの記述もある。

平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明障子が描かれている。



この時代の明障子の構造は、四周(ししゅう)に框(かまち)を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。

寝殿造りの室礼を記した古文書の中に、「柱をたてまわして鴨居を置きてのち、塗子(ぬりこ)の明障子を間ごとに覆う」とある。

『春日権現験絵日記』にも、黒塗りの明障子が描かれている。また、襖障子と同じように、引手に総が付けられている。明障子の歴史的発展の過程で、漆の塗子の縁が寝殿造りに使用され、襖障子と同様な室礼としての位置付けがあったことは注目に値する。

框に細い組子骨を用いる現在のような明障子は、鎌倉時代の絵巻物に多く登場するようになるが、多少の時間と技術改良を必要とした。

明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。南北朝期康暦二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子といわれている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。

★旅シリーズ★熱海 起雲閣 其の4

2012年04月30日 | ★旅行★国内
内田信也の別邸

昭和会の解散後、内田は昭和会に所属していた他の議員らとともに院内会派の第一議員倶楽部に所属したが、1939年に政友会が分裂すると旧昭和会所属議員のうち政友会出身者の大半は親軍的な政友会革新同盟(革新派、中島派とも呼ばれる。総裁・中島知久平)に合流したが、内田は同じく政友会から昭和会結成に参加した守屋栄夫とともに政友会革新同盟には合流せず、第一議員倶楽部に残留した。



宮城県知事の後、1944年2月19日に東條英機内閣の農商務大臣に就任。その後貴族院議員。東條内閣の閣僚ではあったが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として吉田茂ら早期終戦派と会合を行った。早期終戦のため宇垣一成の首相担ぎ出しも試みるが宇垣は近衛に不信感を持っていたため失敗した。



戦後は公職追放にあい、追放解除後の1952年に再び衆議院議員。第5次吉田内閣で農林大臣をつとめ、明治海運取締役会長等を歴任し海運界に重きをなした。1971年1月7日90歳で死去。



熱海市指定有形文化財の起雲閣を別邸として建設。旧制水戸高等学校開校のために、100万円を寄付したことでも知られる。

著書に『風雪五十年』。



★旅シリーズ★熱海・起雲閣 其の2

2012年04月29日 | ★旅行★国内
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年12月6日 - 1971年1月7日)は日本の実業家、政治家。
熱海市指定有形文化財の起雲閣を別邸として建設。旧制水戸高等学校開校のために、100万円を寄付したことでも知られる。

山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。実業家の窪田四郎は実兄に当たる。

茨城県士族・内田寛の五男。文芸評論家の村上一郎や、大蔵事務次官や神戸銀行頭取を歴任した石野信一は甥。










経歴

旧常陸麻生藩士の家に生まれる。

正則中学、麻布中学校を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。

1905年三井物産に入社し、社船・愛宕山丸の事務長などを務めるなど洋上勤務も経験。傭船(※1)主任にまで出世。1914年同社を退社する。

※1傭船(ようせん)
用船契約とは、他人の船舶を自己のために、一定の約束のもとに船舶運用上の責任を定めたうえで、所定の料金を支払い借用する契約のこと。 傭船契約と書くこともある。また、チャーター契約ともいう。

種類
大きく分けて裸用船契約、定期用船契約及び航海用船契約の3つがある。

裸用船契約
乗組員のつかない船舶そのものの賃貸借を内容とする契約のこと。船舶賃貸借ともいう。

定期用船契約
船長その他の乗組員付きで一定の期間船舶を借り受ける契約のこと。

航海用船契約
特定の区域間の貨物輸送を目的とした運送契約のこと。
出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

★旅シリーズ★熱海・起雲閣 其の1

2012年04月29日 | ★旅行★国内
起雲閣(きうんかく)は静岡県熱海市昭和町4-2にある近代建築。熱海市指定有形文化財。1919年(大正8年)に建築。元は実業家根津嘉一郎、農商相・内田信也の別邸であり、所有者が変わった後は旅館として営業していたが、2000年(平成12年)からは熱海市所有の観光施設となっている。











★食べ物シリーズ★インド料理・ナン

2012年04月29日 | ★食べ物・インド★
インド料理は、フランス料理・イタリア料理・中国料理・日本料理などと並ぶ世界的な料理スタイルのひとつ。インド料理の特徴は、スパイスを多種かつ大量に使うことと、唐辛子の辛味である。インド亜大陸は広大であるので、地域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。北インド系と南インド系に大別でき、それぞれに菜食料理と非菜食料理が発達している。



















インドのナン

自然種(小麦などに含まれる野生酵母菌を自然発酵させた種)で発酵させた生地を、へら型にのばしてタンドゥールと呼ばれる窯の内壁に貼り付けて焼いたもの[2]。精製した小麦粉を使う。


日本ではインド料理店などでカレーを食べる際に提供される事が多い。最近ではファミリーレストランや学校給食、カレー専門店の中にもナンを提供する店が多くなった。このため、インド風のナンを焼くために小麦粉などを調整したナンミックスや業務用の冷凍食品も流通している。スーパーマーケットでも家庭用に焼いたものや、冷凍食品が売られている場合も多い。

日本ではカレーなどのインド料理に付くパンとしてはナンが最も有名であるため、ほとんどの日本人はインドでもナンが一般的だと認識している風潮があるが、これは誤りである。ナンは生地をタンドールの内側に張り付けて焼くが、大きなタンドールを持つ家庭は少ないため、実際には少しの燃料とタワーがあれば焼ける丸いパンケーキのようなチャパティの方が一般的である。また、ナンの生地を空中で回転させながら薄く丸い形に伸ばして焼くロティもある。

★花シリーズ★雲南素馨

2012年04月29日 | ★花シリーズ★
ウンナンソケイ<雲南素馨> モクセイ科 ソケイ属 Jasminum primulinum

ヒマラヤ原産の常緑半つる性。高さ2~3m程度。葉は互生し、奇数羽状複葉。3~4月に開花。雲南の名があるが、雲南省には自生しない。

分布 ヒマラヤ原産

ジャスミンはモクセイ科ソケイ属の植物の総称であり、ソケイ属の植物は世界で約300種類が知られている。アジアからアフリカの熱帯あるいは亜熱帯地方が原産。
ほとんどの種は白または黄色の花を咲かせ、観賞用として栽培される。
いくつかの種では花は強い芳香を持ち、香水やジャスミン茶の原料として使用される。特にソケイとマツリカの2種については香料原料として大規模な栽培が行なわれている。
栽培の歴史は古く、古代エジプトではすでに行なわれていたといわれている。
ジャスミン(ヤースミーン)という語はペルシャ語に由来し、中近東から欧米では女性の名前としても用いられる。
パキスタンの国花。また、アメリカ合衆国のサウスカロライナ州の州花。


















★花シリーズ★雲南素馨

2012年04月29日 | ★花シリーズ★
ウンナンソケイ<雲南素馨> モクセイ科 ソケイ属 Jasminum primulinum
ヒマラヤ原産の常緑半つる性。高さ2~3m程度。葉は互生し、奇数羽状複葉。3~4月に開花。雲南の名があるが、雲南省には自生しない。

分布 ヒマラヤ原産

ジャスミンはモクセイ科ソケイ属の植物の総称であり、ソケイ属の植物は世界で約300種類が知られている。アジアからアフリカの熱帯あるいは亜熱帯地方が原産。
ほとんどの種は白または黄色の花を咲かせ、観賞用として栽培される。
いくつかの種では花は強い芳香を持ち、香水やジャスミン茶の原料として使用される。特にソケイとマツリカの2種については香料原料として大規模な栽培が行なわれている。
栽培の歴史は古く、古代エジプトではすでに行なわれていたといわれている。
ジャスミン(ヤースミーン)という語はペルシャ語に由来し、中近東から欧米では女性の名前としても用いられる。
パキスタンの国花。また、アメリカ合衆国のサウスカロライナ州の州花。









★食べ歩き★インド料理・ナン

2012年04月28日 | ★食べ歩き★
★食べ歩き★インド料理・ナン

インド料理は、フランス料理・イタリア料理・中国料理・日本料理などと並ぶ世界的な料理スタイルのひとつ。インド料理の特徴は、スパイスを多種かつ大量に使うことと、唐辛子の辛味である。インド亜大陸は広大であるので、地域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。北インド系と南インド系に大別でき、それぞれに菜食料理と非菜食料理が発達している。





ナン(nnaan/nan ナーン/ナン)は、インド、パキスタン、中央アジアのタジキスタン、中国新疆ウイグル自治区、ウズベキスタン、アフガニスタン、イラン、クルディスタンなどで食べられるパンである。

元々はペルシア語。平たく楕円形で、大きな草履のような独特の形をしていて、所々ぽこぽこ膨れている。インドのものは他国と異なり、二等辺三角形あるいはへら型をしている。パキスタンやウイグルのナンは丸いものが多い。ウイグルのギルデ・ナン(girde nan)は中央に穴があいており、ベーグルとよく似ているが、焼く前に茹でない点がベーグルと異なる。

小麦粉と塩、水、酵母の主材料の他にヨーグルトが入ることが多く、また牛乳、油脂、時には卵、(少量の)砂糖、スパイス類も入ることがある。







★花シリーズ★バイカウツギと熊蜂

2012年04月28日 | ★花シリーズ★
バイカウツギとはアジサイ科の植物の一種。別名サツマウツギ。

落葉低木の一種で、16世紀、神聖ローマ帝国の使者オジェール・ギスラン・ド・フズベックによってヨーロッパに紹介された。1597年にはジョン・ジェラードの庭で大量に栽培されていたことが確認されている。ヨーロッパには早くから帰化したようで、現在では南東ヨーロッパや小アジアが原産とされる。日本では本州、四国、九州に分布する。鑑賞用に植栽され6-7月頃に白い花を咲かせる。名前の由来はウメに似た花を咲かせることから。ライラックと混同されていた時期があり、共に牧神パンの笛という意味の言葉Syrinxに由来するシリンガという名前で呼ばれ、一つの属にくくられていた。花は香水の材料として採用される。

園芸植物としては匂いが特色とされ、品種の改良はあまり進展しなかった。葉を飲み物に入れるとキュウリの匂いがする。匂いをかぐことによって酩酊したような気分になる人もいる。ジェラードはバイカウツギの匂いの為に眠れなかったことがあると述懐している。またE・A・ボウルズによって花粉症の原因となることが指摘されている。


クマバチ(熊蜂)は、ミツバチ科クマバチ属に属する昆虫の総称で、概して大型のハナバチである。これまで、約500種が記載されている。北海道から九州にかけて広く分布するキムネクマバチを指すことが多い。

日本産種の分布
北海道南部~屋久島にはキムネクマバチ、口永良部島~徳之島にはアマミクマバチ、沖永良部島~沖縄島にはオキナワクマバチ、多良間島~与那国島にはアカアシセジロクマバチが分布している。小笠原諸島の父島列島、母島列島にはオガサワラクマバチが分布している。2007年、東海地方において、タイワンタケクマバチの侵入が見つかった。

特徴
体長は2cmを超え、ずんぐりした体形で、胸部には毛が多い。全身が黒く、翅も黒い中、胸部の毛は黄色いのでよく目立つ。初夏に出現し、フジの花などに来訪するのがよく見られる。 食性は、他のハナバチ同様、花蜜食。但し、花の根元に穴を開け、蜜だけを頂戴するため、花粉は媒介しない。

春先の山道や林道では、オスが交尾のために縄張り内の比較的低空をホバリングし、近づくメスを待つ様子が多数見られる。 また、オスはメスに限らず飛翔中の他の昆虫や鳥類等、近づくもの全てを追跡し、メスであるか否かを確認する習性がある。

単独生活のハチであり、枯れ木に巣穴を掘り、中に蜜と花粉を集め、産卵する。時に同じ枯れ木に複数が集まって営巣することもある。

体が大きく、羽音の印象が強烈なために獰猛な種類として扱われることが多いが、きわめて温厚である。ひたすら花を求めて飛び回り人間には関心を示さず、たとえ刺されても重症に至ることは少ない(アナフィラキシーショックは別)。

オスは比較的行動的であるが、針が無いため刺せない。メスは巣を(知らずに)脅かしたりすると刺すことがある。

大型の体とそれに見合わない小さな翅から、かつてはマルハナバチとともに「航空力学的に、飛べるはずのない形なのに飛べている」とされ、長年その飛行方法は大きな謎であった。「彼らは、飛べると信じているから飛べるのだ」という説が大真面目に論じられていたほどである。現在はレイノルズ数を計算に入れることで飛行法は証明されているが、ここからクマバチは「不可能を可能にする」象徴とされ、しばしば会社やスポーツチームのシンボルマークとして使われる。

★花シリーズ★黒花蝋梅

2012年04月28日 | ★花シリーズ★



ロウバイ科(蝋梅科)は、双子葉植物綱クスノキ目に属する植物の科である。東アジアとアメリカ合衆国に4属12種が分布する。落葉または常緑の低木または小高木で、葉は単葉で対生し、花は花弁とおしべが螺旋状に配列する。花に香りがある物が多い。
漢字で蝋梅と書くが、バラ科のウメとは無関係。


代表的な種
ロウバイは、古くから庭木として栽培されている。
クロバナロウバイ属も比較的栽培しやすく、見かけるようになった。


開花期:4月頃。葉低木シックな黒い花です。

クロバナロウバイは別名、アメリカロウバイとも呼ばれ、香りの少ないロウバイである。花の色は、紫色で、葉の裏は粉白色。短い枝席に上向きに付き、花弁の裏には密毛がある。植えつけの適期は春頃。植え穴に、多めの腐葉土をすき込んで、やや高めに植えつける。日光を好むので、日当たりのよい場所に植えるとよい。

遠目では黒色に見える暗紅色の花を初夏に咲かせます。イチゴの香りがしますよ。庭木などに植えられているので簡単に入手できますが、痙攣を伴う残酷な毒性を持っています。黄色い花を付ける「ロウバイ」とは属が異なります。


中毒症状
我が国でのクロバナロウバイによる家畜の中毒事例は報告されていません.作用メカニズムはアニサチン,シクトキシン,コリアミルチンとは異なりますが,結果的にはGABAの作用が阻害されますので,シキミ,ドクゼリ,ドクウツギ中毒と同様の症状を示すと思われます. 



★花シリーズ★庭桜

2012年04月27日 | ★花シリーズ★
庭桜(にわざくら)

庭梅に似ているが庭梅は一重で
花の色は白またはピンク。
実はならない。

春に、葉が出る前(または同時)に、細い枝に(八重)桜に似た八重咲きの小花を多数咲かせる耐寒性低木です。ニワザクラ(庭桜)は、 ニワウメ(庭梅) と似ていますが、ニワウメ(庭梅)は一重咲きなので見分けられます。

一般名:ニワザクラ(庭桜)
科属名:バラ科サクラ属
原産地:中国
樹高:150cm 花色:白・薄桃 花径:1.3cm 開花期:3~4月 花の咲き方:八重咲き。


★旅シリーズ★スペイン・グエル公園

2012年04月24日 | ★旅行★外国
グエル公園は、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。

施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。彼らが最も傾注していた芸術はリヒャルト・ワーグナーの「楽劇」で、ガウディは同じ芸術センスを持つグエル伯爵の下で、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとした。この頃、バルセロナでは工業化が急速に進んでおり、それに対してガウディとグエルはこの場所に、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる、新しい住宅地を作ろうとした。しかし、ふたりの進みすぎた発想と自然の中で暮らす価値観は、当時理解されなかった。結局、広場、道路などのインフラが作られ60軒が計画されていたが、買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人とグエイ伯爵だけであったという。グエイ伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家が、ガウディ記念館として公開されている。中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。

グエル公園の入口に建つ門衛の小屋と東屋をみてサルバドール・ダリは「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評した。「ギリシア劇場」と名付けられているテラス、大階段に鎮座する人気のトカゲ、敷地中央にあるホール天井の円形モザイク装飾等、粉砕タイルを使用してのデザインはガウディの助手ジュゼップ・マリア・ジュジョールの貢献が大きい。