遠藤雷太のうろうろブログ

何かを観たら、とにかく400字または1000字以内で感想を書きつづるブログ。

三好十郎「殺意(ストリップショウ)」02

2011-09-14 21:59:13 | 一人芝居
2011/9/11

この戯曲の面白さは、自然主義的な人間描写(こんなこと書いて大丈夫か、自分)。
ヒロインの女性は、活動家であった「先生」を尊敬していたが、彼が「転向」を繰り返すことにより、一転して憎しみの対象になる。
ところが、その彼の極めてみっともない姿を目の当たりにすることで、かえって彼への憎しみがなくなってしまう。
男が男であるところ、女が女であるところと、ハイセツ物を出すところ。つまり、きれいなところと汚いところがすぐ近くにある。
それが人間なのだという見方。
男性器にしろ女性器にしろ、それがきれいなものかどうかはともかく、おもしろい表現。
人の価値観が変わる瞬間を描いているという点で純文学的な作品だと思う。
演劇的な見せ場は、やっぱりダンスになるのだろう。ただ、その辺の仕掛けは、上演したのを見てみないとなんとも言えない。
この辺の評価の仕方はむずかしい。
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三好十郎「殺意(ストリップショウ)」01

2011-09-12 20:58:15 | 一人芝居
2011/9/11

青空文庫で発見。
一人芝居において、「女の一生モノ」というジャンルは、確実に存在するみたい。
思いつくままに挙げただけで、三谷幸喜「なにわバタフライ」、野田秀樹「売り言葉」、井上ひさし「化粧」、矢代静一「弥々」とそうそうたる作品たち。(半生も含む)
男の一生じゃダメなんだろうな。なんとなくわかる気がする。
紆余曲折、人生のメリハリが女性の方がクッキリ現われやすいんだろうか。
高級なナイトクラブの女性ダンサーによる一人語り。クラブの客に向かって話す演説型。
それで一人一役なので、一人芝居の構成としてとても単純な形。
引退するダンサーが最後に、自分の半生を話し出す。
戯曲段階で面白い。わざわざ芝居にする必要があるのかどうかという疑問が浮かぶ。
なんだか文学臭の漂う作品。
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ノート・矢代静一「弥々」(戯曲)04

2011-08-23 23:16:13 | 一人芝居
良寛異聞 (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社



2011/8/23

ところで、「良寛異聞」という本には、同名の小説が掲載されている。
「弥々」はどちらかというと本編に対する外伝という感じに見える。
主に死にかけた良寛と、同じように年老いた清吉。そして、弥々。
読めば否応無しに「老い」に向き合わざるを得ない重たい話なんだけど、形式なのか文体なのか意外と軽快に読むことができる。途中の漢文や歌はダレてしまったけど。
どちらも三角関係を描いた話だけど、「良寛異聞」では良寛と清吉、「弥々」では弥々一人の人生を追っている。
ページの分量的には10対1だけど、それで十分という印象。
弥々一人の存在感が、良寛と清吉の二人に対して負けてない。繰り返すけど、1/10の分量で。外見は外伝だが、立派に独立した作品だと思う。
それにしても、なぜ「弥々」は戯曲の形式で書かれたんだろう。
それも、「不自然」な一人芝居という形式で。
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ノート・矢代静一「弥々」(戯曲)03

2011-08-12 22:31:50 | 一人芝居
良寛異聞 (河出文庫)
矢代 静一
河出書房新社



2011/8/12

役者を演じる役者を観客が見ることになるので、劇中劇は「なぜ人は演技をするのか」ということにより客観的に向き合うことになる。
そういう意味で演劇的な仕掛けだと思う。
弥々の娘は演じることで、母の人生を再生して見せる。
ところで、彼女のたった一人の観客である「良寛」は舞台に出てこない。
そこで本当に彼は死んだのかという疑問が浮かぶ。
途中で清吉が死んだといっているし、最初に弥々の娘は、天を仰いでいるから、素直に考えれば死んでいる。
死んだ良寛に、彼女は答え合せを迫る。
当然、良寛からのリアクションはないないから、やっぱり弥々の娘は「良寛に見せるふりをして観客にむかって語りかけている」のかもしれない。
それよりも、良寛が女に会いたくないから清吉に死んだと嘘を言わせているという解釈をしたらダメなのかしらね。
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ノート・矢代静一「弥々」(戯曲)02

2011-08-10 21:18:51 | 一人芝居
良寛異聞 (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社



2011/8/9

「登場人物がなぜ声を発するのか」というのは一人芝居における重要な問題のひとつ。
『売り言葉』の主人公が話す理由は<狂気>なんだけど、今回は<演技>。
観客である良寛にむけて弥々の娘が、母の一生を演じる。形式的には劇中劇になるので、その理屈付けが必要になる。つまり、母親の弥々と、その娘の関係を描かなければいけない。
母は入水した。その直前に、死んでしまった(らしい)最愛の人から「彼女にとって最も嬉しい歌」を受け取った。
勝手な解釈だけど、弥々の娘は、母に未来の自分の姿を重ねているはず。
きっと弥々の娘は、断片的な事実を自分なりに解釈して再構成して演じた。
最後に良寛に対して、その答えあわせを迫っている。
母親である弥々は、彼女にとって、とても不思議で興味深い存在だったんだと思う。
その意味で、彼女は演者でありながら、同時に観客を代表した存在でもある。
なんか深いぞ。
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ノート・矢代静一「弥々」(戯曲)01

2011-08-08 23:13:49 | 一人芝居
良寛異聞 (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社



2011/8/9

再読。良寛さんの初恋の人が弥々。
「売り言葉」の高村智恵子もそうだし、「なにわバタフライ」のミヤコ蝶々もそうだけど、女性の生涯を追うと一人芝居になりやすいんだろうか。もう少し具体的な説明ができそう。「役者」である弥々の娘が、16歳から72歳までの弥々を演じる。
この三人の女性に共通しているのは、若いうちはハキハキして元気な女の子。
晩年は割と悲惨な終わり方ということ。ミヤコ蝶々はちょっと違うかな。
でも、悲惨なほうが盛り上がるのはたしかだな。このパターン、他にもありそう。
弥々の娘という設定だが、ほとんどすべての時間を弥々として見せている。弥々と娘の二重構造は、最後の最後で活きてくる。
目の前には良寛がいる設定。つまり、観客は良寛目線。これも最初にそう置かれるわけだけど、これも最後まで目立たせない。
凝ってる。
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ノート・野田秀樹「売り言葉」(戯曲)05

2011-08-04 22:13:40 | 一人芝居
二十一世紀最初の戯曲集
クリエーター情報なし
新潮社



2011/8/2

一人芝居の登場人物で三人は多すぎるかもしれない。変化をつけるために、一人○役という選択肢があるのは確かだけど、そういうことをやりすぎると、「じゃあ三人芝居にすればいいんじゃないの」という話になる。
一人の人間が複数の役をやるという楽しさが見えればいいけど、「それ、話の都合で一人じゃできないんだよね」とか、「興行的に一人芝居と銘打っちゃったから仕方ないよね」という、作者の限界が見えてしまうと悲しい。
今回DVDを見ると、セリフはないものの、バイオリンを弾いている人がたびたび舞台上を歩き回っている。個人的な印象としては、「一人じゃ時間が持たなかったんだな」と感じてしまった。
こういうネガティブな印象を打ちのめすだけの強烈な「一人でやる理由」がないと、一人芝居は成立しないもんだろうと思う。もともと構造的に無理のある表現なんだから。
ちょっとその理由を時間かけて探すことにする。とりあえず、この作品はここまで。
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ノート・野田秀樹「売り言葉」(戯曲)04

2011-08-01 01:02:03 | 一人芝居
二十一世紀最初の戯曲集
クリエーター情報なし
新潮社



2011/7/31

狂気は、ずっと一人で「会話」していることの具体的な理由になるし、前も書いたけど、それなりに劇的な効果もあるから、作劇的にはとても使い勝手がいい。
そういう予備知識があると、後半の展開そのものには別に驚かない(それを見越して序盤に女中がばらしているんだと思う)。
語り部であり、福島なまりの女中が徐々に智恵子と同化しながら狂気をあらわにしていくやり方(「新しい女」であるはずの智恵子がだんだん福島なまりになっていく)は色々応用が効きそう。
一人芝居とは言え、登場人物はたくさん出てくる。書き出してみる。
「高村智恵子」「女中」「今川焼き屋のオバちゃん」、人間でいうとこの三人。そのほかに「ラジオの声」というのもある。だれが喋ってるのかよくわからない「智恵子抄の一節」というのもたびたび出てくる。
色んな登場人物が出てくるのは変化をつけるにはいいけど、諸刃の剣でもある。
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ノート・野田秀樹「売り言葉」(戯曲)03

2011-07-29 20:07:55 | 一人芝居
二十一世紀最初の戯曲集
クリエーター情報なし
新潮社




2011/7/28

普通に考えれば、実在の人物を題材にするのと同じような理由。
世相を反映することで、閉塞的な一人芝居を脱却できる。
ただ、智恵子にとって、高村光太郎が天皇だったかというと、やっぱりピンとこない。
こういう比喩よりも、ありふれた痴話話に埋もれていく男女の関係のほうが読者としては、はるかに「近く」感じる。
「ああ、あるある。こういうパターン。芸術家でも、一昔前の人でも変わらないよね」という感じ。
それで十分の話だと思うんだけど、これだけじゃ都合が悪かったのかな。やっぱりよくわからない。
なにか「教訓的」な要素を入れなきゃいけない事情でもあったのかなと、うがった見方をしてしまう。
映像で見てもよくわからなかった。何かいい解釈があったら、教えてほしい。
また、実際の世の中ではそんなに「あるある」ではないけど、狂うのは一人芝居における定石。
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ノート・野田秀樹「売り言葉」(戯曲)02

2011-07-28 22:36:29 | 一人芝居
二十一世紀最初の戯曲集
クリエーター情報なし
新潮社



2011/7/27

戯曲を読んでいて違和感を持ったのが、最後のところ。ト書きにこう書いてある。(ネタバレがイヤな人は読まないでください)
「智恵子と光太郎の関係は、国民と天皇の関係であったのかもしれない。」
露骨に作者の意図を書きすぎ。
この戯曲が収録されている『二十一世紀最初の戯曲集』のあとがきに、「自分の中では、戯曲ではなく、上演台本なのである。」と書いてあったが、確かに文学として成立しうる「戯曲」であれば、ここまで露骨には書かない。
読むほうも、そこまで読み方を指定されたくない。
それに、作品を読むと、光太郎と智恵子の関係を、天皇と国民の比喩として置き換えるのは、やっぱりちょっと無理がある。
本当なら、この比喩を更に現代に置き換えて、電力会社と国民の関係と言いたいところだけど、それはもっと無理がある。
なんでこんな書き方をしたんだろう?
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